流血注意
頸動脈が圧迫され、気管も押しつぶされ、死への道をひた走る。
頭への血の巡りが途絶え、消えゆく己の意識。
止められる前から終わっていた呼吸。
耳のあたりでどこか遠い音がぼんやりと響き、それが水に沈んだ時に聞こえる濁った音に似ていて、ここが水の中だと頭の片隅で思った。
死は水の中へと落ちていくことなのだろうか。
暗く冷たい水の底。
押しつぶされるような圧迫感の中で、潰されそうで潰れないぎりぎりの苦しみを味わって。
周りの見えない水底の闇の中で、何処を向いても何も見えず、動けない。そんな気が狂いそうなほど死の責苦が欲しい。
そして苛まれて消える時は、どうか主に巣食ったこいつも道連れに。
奴の言うあちらというものが一体何なのかも良く分からないし興味もないけれど、そこへ行けば何かが変わるのだろうか。
変わるとしたら何が?今ここに確固としたものもないのに。
それにしてもどうにも冷たくない。ねっとりと絡みつき、冷たくも熱くもない感触は、水というより泥沼だ。
不快なことには変わりないが、どちらかと言えば刺すような冷たさの水が良かった。
己の求めたあの灼熱の炎と最もかけ離れたもの。
思い出すこともできないくらい、炎と熱から遠いところに落として欲しい。
今なら地獄の劫火にすら泣いて縋ってしまう。
だから水だ。
魂すら凍えきってしまうような寒さでも良い。
そしてそのまま粉々に砕ききって、存在の痕跡すら残らないくらい消してしまってくれ。
願えば徐々に濃くなる闇を感じる。
それが外からなのか内からなのか。それとも両方からか。
滲み出るように広がる闇は、抗う意思のない四肢を戒める。
やがてそれも己と同化するのだろう。
首に感じる手の感触。
その温かさ。それもじきに分らなくなる。
常軌を逸した体温なんて、分からなくてもいい。
温かいと感じたのは五感が既に死にはじめているからで、決してあの熱がひいた訳ではないのだから。
それに声も。
もう聞くのは止めたのだ。音もいらない。
「…ぉの」
耳が拾った声。
鼓膜を震わす馴染みの音。
聞くことはもうやめたのに、何故拾ってしまうのだろうか。
この声。
他者に塗りつぶされたあの声は、酷く耳障りだった。
けれど今聞こえた声は、己の聞きたかったあの声になって届いた気がする。
己の見せた願望だろうか。
だとしたら、こんな時まで己はどこまでも愚かだ。
あれだけあの人の気配を絶たれたというのに、それでもまだ求めているのかと思うとどこまでも浅ましい。
どうせまた突き落されるというのに、それでもまだ残った感覚が縋るなんて。
例え縋ったとしても、今消えようとしているのはこの身に宿った矮小な命。
ともに消えようとしている感覚はすでに役目なんて放棄しているのだろうから、さっきのはただ麻痺した聴覚がみせた最後の幻だろう。
それが良いことなのか悪いことなのか、よくわからない。しかしどちらにせよ、すぐに意味のないものになる。
待つのはただ、闇だけだ。
「…馬…者っ」
自分を罵る声がする。
どこまでしぶといのか己の聴覚は。
いつもこの声では賛辞を与えられることのほうがずっと多くて、こんな風に腹の底から罵られたのは過去数度だけ。しかもこっちが無茶して大怪我した時ばかりだった。
だからあの罵倒の言葉はこっちを気遣う意味も含まれていて、全身全霊で怒られているのに何故か嬉しかった。
他は他愛のない冗談だとか、耳に心地よい笑い声だとか。
暑苦しくて喧しくて、けれど嫌じゃない言葉の数々。
幸せな思い出だったけれど、それもすぐに消えてしまう。
「…さ、助」
名を呼ぶ声が聞こえる。
この声で呼ばれる己の名前は好きだった。
名に力が宿るとしたら、それはこの人に呼ばれた時だったのだろう。空気を震わせて届くあの刹那。
意味を成さないはずの呼称が確固たる力を得た。
佐助。
最期に聞けるなんて運がいい。
「さす、けっ」
切羽詰った声だった。
戦場でお互い死にかけて、ボロボロの状態で掛けられた声に似ている。
それでもあの時はこんな風に暗澹とした気配なんて欠片とも感じていなくて、この人が居たから己は平静で在れたのだろう。
相手の怪我の状態を確認した時は流石に冷やりとしたけれど。
そう、こういう切羽詰った声の時は、自分自身のこと以外を心配している時だ。
大抵そのときは自分のことなんて頭の中から吹っ飛んでいて、どれだけ酷い状態でもまるで頓着しない。
心臓に悪すぎるこの人の癖だ。
「…あれ?」
間抜けな声が聞こえた。
外と内から聞こえてきた。
いやに馴染みのある声だ。
誰のものだろうか。
違う、内からも聞こえたのだから、己の声だ。
そう、声が普通に出た。
圧迫されていたはずの喉が自由になっている。
息も普通にしている。
目も見える。
見えている、目の前に…顔が。
「旦、那」
目をギラギラさせて物凄く恐ろしい表情でこちらをにらんでいる顔が目の前に見えた。蝋燭の炎が作る独特の陰影の効果で恐さは倍増だ。
間違えるはずなど無かった。
不気味さなどかけらも感じられない、雄々しい勇ましさ。
「馬鹿…者が、ぁ…何故、逃げぬ…この馬鹿、馬」
顔は勇ましいのに言っていることは馬鹿ばっかりだ。
それでもこっちはそれどころじゃない。
「旦那?!旦那、戻ったの?!っていうか俺わかる?!いや違うそれより大丈夫か?!何か多分変なの憑いてるよあんたに…!!!」
一気に捲くし立てて苦しげに歪められた表情を見上げる。
さっきまでの鈍重な体は嘘みたいに軽く、舌は回りすぎるくらい回った。
暗く陰っていた視界は主の顔を映し、その情報を的確に伝える。
大量の汗と、ぜいぜいと肩で息をする苦しげな様子。
「逃げよ…馬鹿者。まだ、…ま、まだ、いる」
呼吸の合間に絞り出すように押し出された言葉は、佐助に対する命令。
まだ身の内に得体の知れないものが居座っているから、早く逃げろ。そう言われたのだ。
「あー…そりゃいくらあんたの頼みでも聞いてやれないわ」
「頼む、逃げ…くれ」
「ごめん、無理」
「このっ…馬鹿も、の」
逃げられるはずなど無い。
今この身がこの場を去ったら、幸村の身に巣食った得体の知れない何かは一体何を始める?
あれは何故か佐助に執着している。この闇に染まった魂を珍しいと言い、やつの言うところのあちら側とやらに引き入れようとしている。
今ここで佐助が逃げたりすれば奴は幸村の体を今度こそ壊すだろう。
佐助に執着している間は、近づくために媒介を必要とする。そう言っていたのは奴だ。
それなら幸村を守るためにはここにいるしかないのだろう。
そして、幸村からこの得体の知れないものを追い出す手立てが見つからない今、幸村自身に頑張ってもらうしかないのだ。
「逃げられないって…」
「にに、逃げ、逃げ、よ逃げたら、許さ、逃げよ」
「逃げない」
言った瞬間、顔のすぐ傍に拳が振り下ろされた。
畳を打ちつける鋭い音が至近距離で鼓膜を震わせ、僅かに視界がぐらついた。
「…っく!!逃げろと言っている!!」
顔のすぐ傍でそんなでかい声を出されては耳がおかしくなってしまう。
そう思っているのに、いつものうるさい声音に涙が出そうになった。
「逃げない。…主置いて逃げる忍がどこにいるんだよ」
自分でも驚くほど静かな声で話せた。
さっきまでの揺れに揺れた頼りない気配はどこにも見当たらない。
我ながら単純なものである。
「逃げろってんならあんたも一緒だ」
そして死ぬ時は俺が先。
声には出さず唇だけでそう呟けば、幸村の顔が苦しげに歪んだ。
この主の嫌うこの言葉は、ちゃんと届いてしまったらしい。
只でさえ酷く辛そうなのに、これ以上無理だというくらい眉を顰め、唇を噛みしめ、堪え切れなかった涙が眼尻に浮く。
「なあ…旦那」
佐助は呟くような声音でそう言って、爪の割られた指先を伸ばした。
噛み砕かれた指先は未だに血が乾き切っておらす、少し動かすだけで血がぷくりと漏れだす。
しかしそんなものは気にする余裕なんて欠片とも無く、汗に濡れた頬へゆっくり滑らした。己の忍化粧のように、主の頬に朱が走るのを視界に収め、そして続きを口にする。
「いつもこの命を惜しんでくれるのはあんたの方だったな」
「……っ」
何か言いかけた幸村は、口を開いた瞬間にまた閉じて何かを飲み込むように息も止めた。
触れている部分から細かい震えが伝わっていくる。
話す余裕もないのだ。
「価値の低い忍の命だってのに、あんたってばいつもそうだ」
忍の運命を嫌という程理解しているだろうに、それでもこの身に宿った命をどんな時でも惜しんでくれる。失われれば多分…否、絶対涙を流してくれるのだろう。
失われると分かっているものに心を傾けるのは辛い。それを分かっているだろうに、この人は絶対に逃げないのだ。
惜しんで、大切にして、心を許して、無防備に笑って。
そして失った時は馬鹿正直に、『思いっきり悲しんでやる』なんて言ってしまう人だ。
それを佐助は強さだと思う。
「そういうとこに惚れ込んじまってるんだから救いようが無えよなぁ…」
泣き笑いのようにそう言って、触れた頬から手を滑らし、髪をかき上げた。
多量の汗が指を濡らし、割れた爪へも沁み込み激痛を伝える。けれどその痛みより、全身を強張らせて震えている幸村の肌の感触の方が大きかった。
「だから頑張ってよ。…あんたが生きるためならこんな命、惜しくはないんだけどさ」
へらへら笑って言えば、目を吊り上げて怒った幸村の表情が見えた。しかし同時に涙も流れている。もう色々な感情がぐちゃぐちゃになってしまっているのだろう。
「今だけはこの自惚れを肯定するよ。…旦那、俺の命を惜しんでくれるなら、頼む。頑張ってくれ」
言えば拳がまたも畳へ打ちつけられた。それが数度繰り返され、音がやんだと思えば今度は畳に爪が立てられている。
そのまま掻き毟るようにがりりと指が丸められ、拳を作れるくらいまでになると、また打ちつけられる。
その間もずっと流れるような汗は止まらず、佐助の上にぽたぽたと滴り落ちてくる。
この中に涙も混ざっているのだろうか。
そう思ったら堪らなくなって、佐助は頭に添えたままだった手を放して涙を拭こうとした。
しかし手が離れた瞬間、がくりと幸村が倒れこんでくる。
「っ!」
それを慌てて受け止めれば、耳元でぜいぜいと荒い呼吸が何度も聞こえた。
必死に戦っているのだ。
身の内に巣食う得体の知れない何かと。
「うぅっ、く」
荒い呼吸に時折交じる、苦しげな悲鳴が耳に直接響く。
楽にしてやりたい、この苦しみの根源を断つことができるなら、何だってするのに。
そう思っても出来ることがなくて、歯痒さに唇をかみしめた。
「佐助っ…もう、」
突然響いた切羽詰った声音に、幸村の顔をのぞき込めば。
「っあ、ぐ」
鳴ったのは己の喉だった。
獣が獲物に食らいつくように、喉へ立てられた歯がぎりぎりと皮膚を噛みしめる音が振動として伝わってくる。
しかし人の歯は肉食の獣のように、肉を食い破ることに長けたものではない。
簡単には皮膚は破られず、挟みこまれるような圧搾された痛みを感じる。
その痛みに喉が引き攣り、浅い呼吸にひゅうひゅうと短い間隔で気管が音を立てた。
苦しいし痛いけれど、振り払うつもりは無い。
その痛みも全て受け入れるように、髪に絡ませたままだった手を放し、そのままぱたりと畳へおろした。
するとその手を追いかけるように、幸村の手が掴み、畳へ縫い止める。掴まれた部分が白く変色するほどの強い力だ。
その手も振り払うことなく、耐えるように強張った体から力を抜いてゆく。
すると、歯の立てられていた喉をあっさりと解放された。
噛まれた部分がぴりりと痛んだが、それを無視して幸村の動きを目で追う。
すると視線がかち合った。
ああ。
一目で分かる。
これが主で無いことが。
「主が生きるためなら惜しくはないと言ったその命、その主の口で食らってしまおうか?」
幸村なら絶対浮かべないような冷笑を浮かべつつ、ソレはちろりと唇を舐めてそう言った。
赤い舌が、未だに血のにじむ唇の赤を舐め取って、更に鮮烈な赤となり佐助の目を焼く。
けれど、心は凪いでいた。
呑まれかけた闇はもう感じられない。
あるのはただ一つ。
炎だ。
血の赤を炎で塗りつぶして、佐助は口を開いた。
もう退くつもりも崩れるつもりもない。
「その人の舌は肥えててね、俺みたいな粗悪品を食らおうとするような悪食じゃねえんだわ」
不敵に笑ってそう言った佐助は、挑むように先を続けた。
「でも食らいたきゃ食らえばいいさ。…そしたら今度は俺がお前を内側から喰らってやる」
誇張めいた威嚇などではなく、本当に出来ると自信を持って言える。
喰らってやる。
確かな渇きを訴える己の飢えた本能を表に浮き上がらせ、獲物を見定めるように目を眇めた。
その視線を、主の姿を纏ったその中身へ向ける。
目の認識した主の姿に僅かに揺れたものの、確固たる意思を持った殺意は弱まるどころか増幅した。
もう惑わされない。喰らい尽くしてやる。
さっきの相手の仕草を真似るようにぺろりと己の唇を舐めると、感情を捨て去った言葉で言い放った。
「あんたに恐怖ってもんを教えてやるよ」
佐助の気迫に飲まれたのか、ソレは明らかに狼狽した。
何をしても揺らがなかった表情が僅かに引き攣り、佐助を戒めている腕がぴくりと一つ震えた。
その腕が戒めを解こうと離れた瞬間、今度は佐助がその腕を掴み返した。がっちりと指に力を込め決して放さないようにギリギリと締め付ける。
「何逃げようとしてんの?俺を喰らうんだろ?」
ささやくように言えば瞳に怯えが宿った。その目に縋るように上体を起こして距離を詰める。鼻先が触れそうなほど顔を近づけて、凍りつくような目で相手を射殺すように睨みつけた。
「……っ」
もはや完全に主導権は佐助のものとなった。
幸村の身体は絶えず震えており、目は落ち着き無く彷徨っている。表情も常に貼り付けられていた笑みは何処かへ消え去り、不安げに寄せられた眉にはどこにもあの不気味さは感じられなかった。
今ならこいつを追い出すこともできるかもしれない。
佐助がそう思った瞬間、ソレは反撃に出た。
辺りに散らばっていた佐助の仕込み武器の中から一つ鋭利な刃を掴み、それを己の身体…否、幸村の身体へと振り下ろしたのだ。
佐助は表情を変えることなく、その到着地点、今まさに振り下ろされようとしている刃の下へまっすぐに手を伸ばした。
肉を穿つ、嫌な音が響く。
「うっ…あ」
ぱたた、と血が数滴畳に散る音と共に、響いたのは幸村の悲鳴だった。
その手には刃が一つ。
突き立てられているのは佐助の左手で、掌から甲まで真っ直ぐに貫かれた状態で止まっている。
その刃は甲から突き出ているにも関らず、その下にあったはず幸村の身体は傷一つついていない。わざわざ佐助が空中で刃を受け止めたのだとういうことが分かる。
それだけの余裕があれば己も傷つかずに済む方法もあっただろうに、佐助はわざわざそれをしなかった。
それは何故か。
傷ついた佐助本人は大した反応も見せず、ただじっと幸村を見た。
「あ…あぁっ」
悲鳴を上げるのは幸村の喉で、その声は幸村のもの。
佐助の傷を見て、自らの手で傷つけてしまったその傷を見て、心を痛めているのは幸村。
「やっぱりね」
佐助はその様子を見てそんなことを言った。
そして刃を掴んだままだった幸村の手をそっと外し、無造作にその刃を手から引き抜く。
「やめろっ!!」
その乱暴な仕草に幸村から制止の言葉が掛かる。
しかしその時点で刃は既に抜かれてしまっており、蓋を失った傷口からは多量の血が滴り始めた。
その血を止めようと思ったのか、幸村が慌ててその手を取る。
しかし血に触れた瞬間、また身体が震え始める。
「佐助っ…もう良い!!俺を…」
「駄目」
最後まで言わせずに答えを返せば、幸村は泣き出しそうな顔をした。
「これくらいの傷なんて気にしなくていいって。あんな薄い刃なんて大げさに騒ぐほどのもんじゃねえし。それよりさ、ちょっと分かったぜ?」
そういって佐助は幸村の手を握り返した。
貫かれた方の手でだ。
「俺が危ない目にあう度にあんたは元に戻ってる」
そう言った瞬間、血の流れ出る傷口に幸村の指が食い込んだ。閉じようとする傷口をわざわざ広げようするかのように、爪が皮膚引き裂く。
これには流石の佐助も身体を震わせ、うめき声を漏らした。
しかしすぐにその痛みを押し込めると、再び怪しげな空気を纏いだした幸村の目に向かって笑いかけた。
目を抉られそうになったときと、絞め殺されかけたとき。それは両方佐助に死の危険が訪れたときで、幸村はそれを阻止するかのように意識を取り戻していた。
それならこの身を傷つけさせればどうなるのだろうか?
そう思ったから奴をあんな風に追い詰めて、わざと佐助は振り下ろされた刃を受けた。
例えそれが幸村の心を傷つけることになったとしても。
「旦那…、あんたが完全に戻るまで傷の付け合いのいたちごっこになるかも知れない」
佐助が傷ついて幸村の意識が戻り、また失われて佐助が傷つく。それの繰り返しだ。
いたちごっこというより、いつか佐助が消耗しつくして終わる、最悪の追いかけっこだ。
こんなことを続けても、何か決め手となる手掛かりでも無い限り解決しないことくらい分かりきっている。
しかし幸村が少しでも己を取り戻すなら、これ以外に選ぶべき道なんて無い。
佐助が殺されれば相手を内側から喰らってやる心積もりもあるし、幸村を傷つけるような奴の動きを許すつもりも無い。
それならこの不毛な消耗戦にも挑む価値がある。
例えこの命が朽ちたとしても。
幸村の惜しんだ命をこんな使い方しか出来ない己の業の深さを痛感したが、躊躇うつもりは無い。
「旦那、ごめんな」
一言謝れば傷を抉る指から力が抜け落ちた。
ずっと止まらない幸村の身体の震えが、身の内で行われている攻防の凄まじさを伝えてくる。
この人が在る限り、己が折れることは無いだろう。
その思いを胸の奥へしまいこみ、さっき引き抜いた刃を再び幸村に握らせた。
「ごめん」
響く己の言葉の、何と軽いことか。
口に出す意味もないくらい浅ましい謝罪の言葉を幸村に投げかけ、手にはこんなものを握らせる。
最低なことだとしても、もう決めたのだ。
佐助が握らせた刃を、幸村はすんなりと受け取った。
そして受け取った後はちゃんと握りしめた。
その手がまた震え始める。
「嫌だ…」
口に出された言葉は幸村のものだった。
けれど伸ばされた手は奴のものだった。
頬のすぐ傍を刃が通り過ぎる。ちくりとした痛みとともに、髪が少量散っていくのを感じた。
少し切れたか。
避ける素振りも見せなかった佐助が、目だけを動かして刃の握られた腕を見た。
「逃げよ佐助っ」
悲鳴みたいなその声と一緒に聞こえたのは、ごん、という鈍い音だった。
音と一緒に頭に衝撃も感じた。背中も一緒に打ちつけて、一瞬息が詰まる。
ぐらぐらと揺れる視界に映るのは天井の木目、そして蝋燭が照らす拳。
それをしっかり理解する前に、今度は首が捻じ切れたかと錯覚するほどの衝撃が襲う。
焼けるような痛みは打撃特有の重さだ。口の中がちりりと痛いのは己の歯で切ったか。
「うっ…くっ」
耐えるような声に意識を奪われ、未だに揺れている焦点を無理やり幸村に合わせると、今度見えたのは閃く刃だった。
これは結構不味い。
そう思った時にはもう、突き立てられていて。
「さ、す…っ」
「大丈夫」
驚愕に目を見開いて固まっている幸村に、説得力のない言葉を掛けた。
しかし実際大丈夫なのだ。
刃は危ない位置、首の脇を切り裂いて畳を穿っているが、太い血管は無事のため血はそんなに出ていない。
後少し深ければ大変なことになっていただろうが、今は問題ない。
けれど幸村は、一言も発すること無く固まっている。
目を見開いたまま、瞬き一つしない。
吐かれる息は震えており、吸われる息は細い。
「旦那…」
動けずにいる幸村に手を伸ばそうとしたところで、かすかな匂いを忍の嗅覚が捉えた。
この部屋には今や血の匂いくらいしかしないはずだが、どこからともなく甘い匂いが漂ってくる。
白檀の匂いに近い気もするが、それにしては甘さが薄い。
匂いの質としては香と断言して間違いないだろうが、いったいどこから。
目だけで周囲を見渡しても特に何も見当たらない。
周囲を探っても生きた気配すら感じられず、やはり匂いの発生源は分からなかった。
しかしそこで思い出した。
無愛想で無表情で何考えているか分からない己の副官のことを。
(才蔵)
馬鹿なことも平気でやるが、それに目を瞑れば非常に有能な忍である、あの男。
今のこの状態が逼迫しすぎているため外のことなんて気にかけている余裕など無いけれど、この部屋の外では多分あの男が色々走り回っているのだろう。
そして思い出した。
才蔵がいつも呼ぶ“主殿”という呼称。
初めは「幸村様」と名前で呼んでいたのに、いつからか決してその名を口にしなくなった。
理由など分かっている。
佐助が幸村を名前で呼ばないからだ。
変なところで律儀なあの忍は、佐助が幸村を名前で呼ばないことに気づいてから、その名を呼ばなくなった。
かたくなまでに、主殿、と口にする。
馬鹿な男だ。
そんなもの気にせず好きに呼べばいいものを。
そう思ったけれど、そこまで干渉する義理はない。だから好きにさせていた。
けれど今、そのお陰で気付いたことがある。
「旦那」
固まったままずっと動かず、ひたすら体を戒め続けている主を呼んだ。
反応は返ってこない。
だからもう一度呼びかけた。
…今度は違う呼称で。
『幸村様』
呼んだ瞬間、ぱきりとどこかで音が鳴った気がした。
遠くなのか、それとも近くなのか。
探ってもどこかよく分からないところで、小さく罅が入ったかの様な音だ。
そしてそれを肯定するように、僅かに部屋の温度が上がった。
馴染み深い熱の気配が、そこここに。
名前には力がある。
そう言ったのは誰だったか。
記憶にないということは、己にとって取るに足らない存在が口にした言葉ということで、言葉だけを覚えているということは、この言葉を己はそれなりに重要なこととして捉えたという事だ。
それは確かに間違いじゃ無かった。
奴に呼ばれて落ちた闇。
幸村に呼ばれて引き戻された現世。
そして今、呼んで湧きあがった炎の気配。
狂おしいほど待ちわびたその気配のするほうへ目を向ければ、主の姿が目に入った。
もはやさっきまでの危うさは感じられず、ガチガチに固められていた体はゆっくりと動き出し、佐助の首の傍に突き立ったままだった刃を引き抜く。
そしてそれを手の届かないところへ投げ捨てた。
「もう、好きにさせて…堪るか」
静かな声音で呟かれたその勇ましい一言に、またも部屋が熱くなったような気がした。
ぎらぎらと怒りに燃える両目は爛々と光っている。
その目を佐助のほうへ向けて、口元だけ歪めた歪な微笑みを送って見せた。
そしてそのままゆっくりと息を吸い。
一つ、吼えた。
「ぬぅぅぅぅうがぁぁぁぁああああああっっっ!!」
咆哮、なんて言い方じゃ足りない。
もう音として受け止めることが出来ないほどの、圧倒的な衝撃。
それは声という名の凶器だった。
障子はびりびりと震え、設えてあった調度品は余すことなく粉々に砕け散る。
木製の衣装箱ですらカタカタと揺れている。
畳の上に散乱した武器達は金属特有の音をたて、細かく震えながら少しずつ動いている。
そして一番に消え去りそうな蝋燭の炎は、何故か消えずにそこにあった。
しかもそれだけじゃない。
もの凄い勢いで燃え盛っている。
小指の爪程の大きさしか残っていない蝋燭から、噴火の勢いで火柱が上がっているのだ。
いったいどこにそんな力を溜めこんでいたのだろうか。
佐助は目を疑った。
一回瞬きしてみたが、目に映った紅蓮は弱まることもなく天井をぬらぬらと這ってゆく。
(やばい…、火事になる)
変なところで常識が飛び出してきた。
どこか呆けた様子で炎に目を凝らしていた佐助だが、そこに見逃してはいけないものを見た。
じゅわりと溶けて消えるように燃えていた、黒い影。
肉眼で見たのか、それともただ気配を悟っただけなのか、己で判断が出来ないが確かに見えた。
あれは己に近いものだ。
身の内に宿る闇の気配がそうだと告げてくる。
さっき絡め捕られそうになった闇、気が狂いそうになるほどの虚無。
呑みこまれ掛けたからこそわかる、あの気配。
それが断末魔の悲鳴を上げて幸村の炎に燃やしつくされてゆく。
その様子を静かに眺めて、一言。
「ざまあみろ」
煌く紅蓮に包まれて消えゆく姿は、ほんの少し美しく見えた。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
幸村の優しさは強さ。
佐助はそれ含めて全部に惚れてる。
(08.9.30)
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