佐助に言われたのは、まず火を熾すことだった。
合図があれば、屋敷中に焚けるだけ篝火を焚け、と。そして半刻経っても合図が無い場合も同じように行動を起こせと。
しかし、合図云々の前に異常な事態に陥った。
部下の忍も、夜警の者も、次々倒れだしたのだ。名を呼ぼうがぶん殴ろうが一度意識を失った者は誰一人ぴくりとも動かない。
しかし死んだわけではなく、息はしている。
これはおかしい。
すぐに行動を起こすべく、用意していた火種に手を伸ばした。篝火を焚く準備は既に整っているため後は火を点けるだけである。
しかしいざ蓋を開けてみれば、燻っていたはずの熱は見る影も無く消え去っていた。
それを不審に思いつつも仕方なく火打石で火を熾そうとしたが、火花すら散らない。
ますますもっておかしい。
火打石を早々に諦めると、次は表門へ向かった。あそこは夜があけるまではずっと火が焚かれている。そこから火を貰えばいい。
しかし、門へたどり着く前に火の気が感じられないことに気付いた。
忍の目なら、多少離れていても明かりは必ず視認出来る。それなのにどれほど近づいても爆ぜる音すら聞こえない。
しかし火は消えていようと、熱くらいなら残っているかもしれない。
それに一縷の望みを掛けて、駆け付ければ。
そこには見るも無残に熱の消え去った消し炭だけが残されていた。
そして地に倒れ伏した門番の姿。
助け起こしている暇など無い。
薄情だとも思ったがそのまま放置し、次に才蔵が向かったのは厨だった。
既に火は落としてあるが、あそこは最も火の気の豊富なところである。そこなら僅かながらも火を熾す事はできるかも知れない。
そう思って駆け出した瞬間、がくりと身体から力が抜けた。
「……っ」
身体が思うように動かない。
屋敷中に得体の知れない何かが圧し掛かっているかのように息苦しく、身体に力が入らないのだ。
それでも何とかこらえ、ぐらぐら揺れながらも駆けた。
普段なら足だけで済む跳躍も、手と風を使い無理やり身体を押し上げる。
何とか屋根二つ程飛び越えられたものの、体勢はぐらりと傾ぎ、忍にあるまじき大きな音を立てて草木を巻き込み、硬い地面へ真っ逆さま。
身を縮めて受身を取ったものの、この体勢では怪我は免れない。
衝撃を覚悟したが、打ち付けられた地面は思いのほか柔らかいものだった。
「?」
下を見やれば人の身体だった。
良く見ずとも分かる装束。
この一体に見張りとして配置されていた者だ。
完全に弛緩した身体は意識を失った者の状態である。
人一人分の落下の衝撃でも起きないとは、やはり一度意識を失ったらもう覚醒することは無いのだ。
これはもう他の人間も起こそうとするのは諦めた方が良いらしい。
できることなら火を熾すのを手伝って欲しいというのが本音だが、お陰でこの身は無事である。
心の中で礼を行って、才蔵は進むべく足へ力を込めた。
そして立ち上がろうとした瞬間、膝から崩れる。
立てない。
何度やっても膝に力が入らない。
「こ、の…っ」
普段なら漏らさぬ苦悶の声も、この時ばかりは留めること無く外へ響かせ、利かぬ四肢を叱咤した。
それでも動くのはごく僅か。しかも段々酷くなってきている。
結局立ち上がることは諦め、地を這って進むことに決めた。皮膚が裂けることも厭わず、土を穿ち身体を前へ運べるものなら歯だろう顎だろうが、何だって使って身体を前へ前へと引き摺って進んだ。
ここで己が動けなくなれば、もはや外で動ける者はいない。それは既に分かっている。
さっきから周囲をどれだけ探ろうと、誰の気配も感じることが出来ないのだ。
しかも人どころか微かに響いていた虫の音すらぱたりと止んでしまっている。
一体何が起こっているのか未だにわからないが、分かることは一つ。
人とどこか外れた道を行く忍の身でも悟れぬこの重圧は、人の枠組みに収まるような存在が為した術ではないということ。
つまり、異形のものだ。
佐助がさっき懸念していたのも、この世のものならぬ存在のことだった。
炎の寵児たる幸村に限ってそのようなものを近づけることなどまず有り得ないが、あの男の勘は良く当たるのだ。
主のことに限っては特に。
そして今の得体の知れない重圧。
脅威の正体は未だ掴めないが危険には違いない。ここは何としても意識を失うわけには行かなかった。
「うっぐ」
手甲を着けていたお陰で爪が剥がれるようなことにならないのはいいのだが、徐々に薄れ掛ける意識を痛み以外で繋ぎとめるのは難しくなってきた。
口や頬は既に傷だらけだが、これくらいの痛みには慣れてしまっている。
仕方が無い。
才蔵は力の入らぬ腕を引き摺り、何とか懐から苦無を取り出し握り締めると、躊躇うことなく己の大腿部へ突き立てた。
「……っく」
脳天を突き抜けるような痛みに、口から苦悶の声が零れ落ちた。
耳の辺りがキンと高い音を立て、周囲の音が一瞬消えた。全身の筋肉が意識せぬうちにびくりと震える。
そして段々意識がはっきりしてきた。
これならもう少し進める。
痛みを感じ取れるうちに進んでおかないと、また意識を絡めとられそうになる。
浅く突き立てた傷口は、上手い具合に断続的に激痛を伝えてくれているし、これならそれなりに長持ちするだろう。
そう己に言い聞かせた才蔵は、浮いた脂汗をそのままに、浅く息を吐くと前へ伸ばした手に力を込めた。
ずるりと身体を前へ引き摺るたびに、綺麗に整えられた道に赤い筋が残る。進んだ部分は細い線が、止まって手を前に伸ばした部分は血溜りが。
不恰好な痕跡だ。
忍の血で主も通るであろうこの道を汚すことなど論外だというのに、それを気に掛けることすら出来ない。
出来ることなら全てが終わった後、雨でも降らせてすべて流し尽くしたい。
「……っ」
幸村様。
普段から決して声に乗せぬ名を胸のうちで反芻する。
佐助が名前であの方を呼ばぬのに、どうして己が名を呼べようか。
音にせずともその名を確かめるだけで、身体に力が戻ってくる。
歯を食いしばると、汗と血の味がした。
視線を前へ向ければ、明かり一つ無い闇が蠢いている。
先が見えない。
喉がひゅうと鳴った。呼吸が酷く乱れている。
身体が重い。
けれど意識はまだはっきりしている。
前へ手を伸ばした回数も覚えている。その数の分だけ前へ進んだのだ。
今で六十八、六十九、七十。
土を穿つ手甲がざりざりと音を立てる。偶にがりりと耳障りに響くのは石で削られたか。
もう研ぎなおしても使えぬだろうから、壊れるまで付き合って貰おう。
愛用の手甲に別れを告げる未来を思い描き、何度も土を穿つ。
「八十、八十一…」
声に出せば、まだ己が話せることも分かる。
目を凝らせば己の汗と血の痕も見える。
赤だ。
その色に助けられて、身体に力が入る。
「主殿…」
あの紅蓮の炎。
この常闇の中でも鮮烈に思い描くことが出来る。
五行の理すら凌駕したあの赤。
二槍に纏ったあの炎。
火だ。
不意に浮かんだ鮮烈な赤に、光が差すような心地を覚えた。
主の振るうあの二槍こそ火の気の根源。
それの傍なら。
才蔵はすぐさま進む先を厨から母屋の方角へと変えた。
何故今まで思いつかなかったのか。
火を熾すならあそこほど適した場所は無い。
むしろ熾さずとも勝手に燃えている可能性すらある。
急いてしまう気をむりやり押し込め、地を這う身体へと慎重に力を込めた。
槍の御名は、
『朱雀…っ』
あの京天の南方を守護するという炎鳥の名を冠した二槍は、翼を広げたような豪奢な刃を持つ朱槍。
主の手に収まれば、それこそ飛翔のように美しく炎の翼を舞わせるのだ。
あれこそ守護神。
その名を呼ばわれば、闇に冷えた空気が僅かに軋んだのが分かった。
忍如きが口にするには重過ぎる御名だ。
しかしその怒りすら、今の空気を破砕する一手となる。
石のように重かった足が動くようになった。
砂のように崩れる膝が確固とした強さを持った。
何度も絡めとられかけた意識がこの身に戻った。
「…よし」
一言呟き、泥沼のような重さの渦巻く闇の空へと跳躍した。
頬を切るはずの夜の冷たさも、今は闇の重さかどこか生暖かく感じた。
酷く不快な空気だ。
新月の夜といえど忍の目なら見渡せる景色も、今はぽっかりと闇の穴が開いたかのように真っ黒。
着地も危ぶまれるその暗さに本能的な嫌悪を頂きつつも、恐怖は無い。
これよりもっと暗く重い闇を知っているのだ。
人の器に収まっているのが奇跡と言ってもいいくらいの、凄絶な闇。
戦場で流れる血と怨嗟を混ぜて混ぜて混ぜて、そして凝縮した欠片を闇に溶かせばああなるのだろうか。
そんな闇だ。
あれこそ忍の業。
何であんな物凄いものが忍隊の長なんか勤めて普通に笑って茶化して冗談言って飯食って寝たり起きたりしているのか、今でも偶に不思議に思う。
だからこれくらいでは恐怖など感じはしない。
つまり慣れているのだ。
そういう意味では今の上司に感謝である。
あまり嬉しくない感謝を抱きつつ、在るか無いか分からぬ地面へと着地すると、先ほど突き刺した足の傷が痛んだ。
そういえば止血もしていない。しかしここで立ち止まる気も無い。
どれだけ動き続けられるかも分からぬ今、身体のことなど構うつもりなど無い。
才蔵はその傷みを諾とし、今度は地を駆けた。
目的の場所はすぐそこである。
分厚い扉が入口を閉ざす、一つの蔵。
幸村の槍は普通の武器庫には収められてはいない。
傑作なんて言葉では足りぬほどの業物を、そこらの刀剣と一緒にすればばちが当たってしまう。
そのため、主の寝起きする母屋のすぐ傍に建てられた蔵の中に収められている。
もちろん扉は物凄く堅固に出来ており、壊すことなど不可能。鍵を持っていないと扉を開けることなどまず出来ない。
そして今、才蔵は鍵なんて持っていない。
つまり錠を壊すか、それとも鍵なしで錠を開けるかしないと、扉を開ける手立ては無い。
「……」
才蔵はにやりと笑うと、扉を素通りし、屋根付近に設えてある明かり取りの窓へと目を向けた。
“忍に門なんて意味は無い”というのは我らが長の言。
“そして扉もまた然り”が才蔵の言だ。
才蔵は鉄格子の嵌った窓もなんのその。人が入れるとは思えぬ隙間に身体をあてがうと、次の瞬間には蔵の中へと姿を現していた。
これくらい出来なくてはこの忍隊で副官なんてやっていられない。
すぐさま床へと降り立ち、ぽたりと散った血を無理やり意識から追い出して目的の物を探した。
以前一度見た時は、漆塗りの上質な箱に収まっていたはずである。
火の気は蔵一体に満ちているため、場所はもう探るどころではない。至る所朱雀の気配でいっぱいだ。
ここなら火も熾せそうだが、そうなるとこの木造の蔵はそれはもう良く燃えるだろう。
篝火を焚けと言われはしたが、蔵まるごと燃やしてしまっては流石にやりすぎだ。
母屋の傍なのだから、下手すれば主のいる私室まで火事になりかねない。
火打石に手を伸ばしかけた自分にそう言い訳して、蔵の奥へと歩を進めた。
出来ればあまり歩き回りたくは無い。
主の大切な品の納められたこの蔵を、己の血で汚したくは無いのだ。
その思いと、一刻も早く見つけなければという急く思いに折り合いをつけるように、一歩進んでは目で探り、見当たらなければまた一歩と、出来うる限り床を汚さぬよう進んだ。
すると、傍でこつんと硬質な音が響いた。
一瞬身構えたが人の気配は無い。
用心深く耳を澄ませばまたも同じ音がする。どうにも木のぶつかり合う音のようだ。
そしてそれは、前方から聞こえる。
「……」
忍の習慣で声を出すことはせず、音と気配を断って滑るように音のする方へ移動した。
板張りの床は音が鳴りやすいため慎重に動かないといけない。
血で僅かに滑る片足を庇いつつ、身を縮めて近づけば、まず床に散らばった飾り紐が見えた。
そしてその傍に漆塗りの箱。
その奥には。
『朱雀…?』
呼べばちりりと火花が散った。
紛れも無くあの朱槍である。
いつもは箱に収まっているはずだが、今はしっかり組み立てられ、その両翼を天に向かって堂々と広げている。
一体誰が組み立てたのか。
人の気配は無いながらも、用心してそうっと朱雀へと近づく。
足元には朱雀が収められていたと思われる箱、そしてその箱を戒めていたはずの上質な紐が無造作に散らばっている。
屋敷の人間なら、主である幸村の持ち物をこのように粗野な扱いをするはずがない。
となれば外のものか、それとも朱雀自ら…?
おかしなことは多数あるが、考えても答えが出ぬものは仕方が無い。
今はそれよりもやらなければいけないことがある。
才蔵は早々に思案を諦め、その二槍へと手を伸ばした。
決して触れることなど無かったはずの柄にそっと触れ、一本でもずしりと重いそれを両手に掴む。
「……っ」
またも火花がぱちりと散った。
闇に鮮やかなそれは、才蔵の頬を少し焼いて空へと消える。
「申し訳ないが、意に染まぬ者の手でも今だけは許してくれまいか…」
手を焦がすかの様な熱が柄から伝わってくる。
手甲が無ければ今頃両手は火ぶくれだろう。
手を焼く熱はどうしようもない。忍などがもともと手にしていい代物では無いのだから。
才蔵は手が使えるうちにと、さっきの窓まで走り出した。
しかし、その瞬間外で大きな音がした。
がしゃんと鳴った金属音は、思いつく限りこの蔵の錠くらいしかない。
扉の方向を見やればやはり予想は当たったようで、重苦しい音を立てて扉が開いてゆく。
「……?」
一体誰が。
さっきと同じ疑問が胸中を埋め尽くす。
しかしどう自問しても答えなど出ない。
どこを探ってもやはり人の気配どころか、生き物の気配もしないのだ。
才蔵の懸念を余所に、徐々に開いてゆく扉の先に、何かが待ち受けているのが見えた。
外は闇に埋め尽くされているため影は浮かばない。
しかし時たま爆ぜる朱雀の炎が、その姿を僅かながらも浮き上がらせた。
ぱっと見猫のように見える姿形。
まるっとした二頭身。
手のひらにちょうど収まるほどの小さな体。
招き猫のように片足を上げた仕草。
熊と狸と狐が混ざり合って、ちょっと失敗したら猫に似てしまったみたいな顔。
「妙ちゃん…?」
見間違うはずなど無い。あれだけ大事にしている置物なのだから。
場所が場所だけにもう一体そっくりな置物があってもおかしくはないが、あの微妙な表情は間違いなく妙ちゃんだ。
第一あんな珍妙な顔の置物が量産されていたら怖い。
「何故ここに…?」
不思議に思いつつも近づいていく途中、あんなに鋭く手を焼いていた朱雀の熱が引いていることに気付く。
少々ひりひりするが、もう熱くは無い。
朱雀が抵抗を諦めてくれたのか、それとも使い手の危機を察知したのか。
まさか、妙ちゃんが。
いつものあの不思議な力が作用したのだろうか。
そう思って、ちょこんと入口で座っている妙ちゃんを手に取った瞬間。
「……っ!!」
いきなり朱雀が火を噴いた。
幸村が手にした時のようにごうごうと紅蓮の炎が燃え盛っている。
このままでは蔵が危ない。
そう判断した才蔵は、己の髪が燃えているのも構わず咄嗟に外へ飛び出した。
開いたままの傷口からまた鮮血が流れ落ちるのを感じたがそんなものは無視だ。
ずしりと重い二槍を抱えたまま飛びずさるのは全身の筋肉が悲鳴を上げた。しかしそれも無視する。
二転三転し、蔵から十分な距離をとったところで後を振り向く。
ざっと見たところ蔵に火は移ってはいないようだ。
それに安心して今度は咄嗟に懐にしまった妙ちゃんを取り出した。
相変わらず珍妙な顔である。
どこも変わったところはない。
それを確認したあとは、手にした朱雀の穂先へ目を向けた。
眩しいくらいの炎がものすごい勢いで燃え盛っている。
これなら篝火なんて焚き放題だ。
「良く分からんが妙ちゃん、お前の力ならもうしばらく頑張ってくれ…」
そう言って才蔵はまたも駆け出した。
だいぶ時間を食ってしまったがこれでやっと行動が起こせる。
例え動けるのが己一人だとしても、何が何でも二人の無事を確認してやるのだ。
静かに決意した才蔵の背で、闇がまた強く静かにうごめいた。
それがさっきとは比較にならない程濃くなっていることに、才蔵はまだ気づかなかった。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
才蔵が頑張っています。
次はまた佐助です。
弐よりちょっとエスカレートしてます。
苦手な方はご注意ください。
(08.9.25)