流血・微エロ注意
「入るぜ旦那―。」
佐助は一言形だけの伺いをたて、返事を貰う前に幸村の私室へ姿を現した。
部屋には小指ほどの大きさの蝋燭が一本、ゆらりと穏やかに炎を灯している。
そのわずかに明るい部屋の中、幸村が壁にもたれて座っていた。
少し俯いているため表情が分かりにくいが、闇になれた佐助の目にはしっかり見てとれた。
力の抜け切った顔で目を閉じている。
整った顔立ちをゆらゆら揺れる蝋燭の明かりが照らし、男にしては長い睫毛が頬に影を作っている。
姿だけ見ると眠っているかのようだ。しかし呼吸が覚醒した人間のもののため、佐助は遠慮なく声を掛けた。
「そんな薄着でぼんやりしてたら風邪ひくよ。せめて上になんか羽織んなさいよ。」
才蔵の忠告を頭の隅に置きつつも、佐助はいつもの調子で小言を言った。
今のところ特に変わった様子はない。
すると幸村は伏せていた目をぱちりと開き、ゆっくり顔をあげると佐助を見て苦笑した。
「良く帰った。ご苦労だったな…まずは報告を聞こう」
そう言って再度笑った幸村は、膝を立てて行儀悪く頬杖を付いた。
「あんた、誰」
そんな幸村に、佐助は眼光鋭く一言、まるで刃物でも突き付けるようにそう言い放った。
「お前は少し離れているうちに主の顔も見忘れたのか?」
対する幸村はおかしそうにそう答える。
しかし佐助の表情は変わらない。
「忘れてないから聞いてんの。…ね、あんた誰よ」
「………。」
なおも言い募る佐助に対し、答えは返さずただ笑む幸村。
奇妙な空気が二人の間に流れた。
「誰だって聞いてんだけど?…とっとと答えなよ。旦那じゃないでしょあんた」
殺意さえ含ませた視線でにらむ佐助。
しかし幸村は口を開くことはせず、ただただ佐助を見ていた。
徐々に張り詰め始めた空気の呼応して、蝋燭の炎がゆうらりと揺れる。
「ほう、気づいたか」
ぱちり。
爆ぜることなど無いはずの蝋燭の炎が、小さな音を立てた。
たったそれだけの間に、佐助は苦無を構え幸村へと肉薄する。
しかし刃が肉を喰い破る直前、はっと気付き飛びずさった。
「……」
「そうそう…余計な手出しはせぬ方が良い…。傷つくのはお前の大事な主の体だからね…。」
くつくつと喉を鳴らして笑ったのは幸村の声。
普段のまっすぐな目は見る影もなく、瞳の奥には言い知れない混沌が渦巻いている。
たったそれだけの違いだというのに、普段の主の纏う空気とはこれほどまでに一変している。苛烈で直向きで、身を焦がすほど熱くもどこか温かいあの空気はかけらも感じられない。
佐助はそれをただ、じいと見据えた。
「おかしなところは無いと思うのだが…お前は何故気づいたのかな…?」
佐助の鋭い視線など気にも留めぬ様子で、幸村の姿をした何かはきょろきょろと己の体、否…幸村の体を見回しつつ、首を傾げている。
「別に特別なことをした訳じゃねえよ。その人は腹の中に狸やら猫やら飼えるほど器用な人間じゃなくてね。…そんな薄気味悪い笑い方しないの」
行動だけは無邪気なソレに、佐助はいつもの軽薄な態度で言葉を紡ぎつつも、最後の一言には抑えようにも滲み出てくるどす黒い感情を含ませた。
「何だ…この笑い方は嫌いかね?体はお前の主じゃないか。変わらないだろう?」
「問題大ありだね。とっとと出てってくんない?」
目を細めて苦々しげに吐き捨てた佐助は、手にしていた苦無をくるりと回し目に見えぬ速さで懐へと仕舞った。
肉体が幸村のものである以上、佐助に手だしなどできるはずも無いのだ。
そんな佐助の様子に気を良くしたのか、幸村の姿をしたソレは猫のように目を細めて、機嫌よくしげしげと佐助を見ている。
「お前は面白い。…本当に人間かね?酷く闇の気配が濃いようだが」
弧を描いた唇が作りものめいていて、それがあまりも本来の幸村の表情から遠いもので。
我知らず佐助は唇を噛んだ。
「俺様のことはどうでもいいの。あのさ、その笑い方も話し方も全部気に入らないんだよね。とっとと出てってよ」
口調は飄々としたいつもの調子だが、不機嫌に顰められた眉宇も、ひくりと痙攣する目元も。
全てが佐助の苛立ちを如実に表している。
ここまで佐助が感情を表面に出すのは珍しいことだった。
いつもはこんな風に分かりやすい表情を作ることはしない。怒りがこの身を支配すれば勝手に表情は削げ落ち、能面のような何の変化も持たない、作り物のような顔になる。
表面的になにものも映さなくなったこの器は感情すら飲み込んで、やがてただの虚無となる。
ただ冷酷に。
表情も感情も心も全部消え去って、この身は忍という名の影になる。
けれど今は。
それが出来ない。
視覚が捉える幸村の顔。
その人は、そんな変な笑い方しない。
何も考えてないみたいな能天気な顔で、無邪気に笑ってるのがその人だ。
聴覚が拾う、気色悪いことこの上ない声も。
その声はそんな薄気味悪い静かなものじゃない。うるさくて、無駄に暑苦しくて、でも力強い。
その声で、その顔で、何を好き勝手やっているのだ。
全身から噴き出すかのような怒りがじわりと臓腑を焼く。
ただ佐助は己の腹の中で暴れまわる黒い情念を、外へ出さないよう努めるしか無かった。
幸村の姿をした何かはまたもくつくつと楽しげに笑い、佐助を見る。
佐助が内側で葛藤する様をすべて見透かすかのように。
「もっと傍に来なさい。近くで見てみたい」
「…あんたさ、俺の言うこと聞いてる?」
「私の言葉には素直に従っておいた方が身のためだよ。…肉体を壊すことなど簡単だからね。」
「……」
暗に“この体を傷つけられたくなかったら言う通りにしろ”と仄めかしているのだ。
根性がひん曲がっている。
佐助は苛立ちを感じつつも、言われたとおり身を進ませた。
「ほら遠いよ、もっと近く。触れられるくらい近くに。」
「……」
どれくらい寄ればいいのかとじりじり進んでいた佐助だったが、そう言われては傍に寄るしか無く。
目だけはずっと逸らさずに、睨めつけたままソレの横に膝をついた。
途端、ソレは幸村の手を動かし佐助の頬に手をやる。
鉢金を無造作に取り払い、ぺたりと頬に手を這わす。
「…?!」
耳の一つでも千切られるか、くらいの覚悟をしていた佐助だが、手が触れた瞬間一気に血の気が引いた。
「これは凄い、これにも気づくか。」
佐助の動揺にまたも気を良くしたソレは、反対側の手も同様に佐助の頬へ添えられた。
顔を包み込むような形で差し出された幸村の手は、異常なほど体温が高かった。
普通の人間の体温じゃ無い。
熱すぎる。
佐助は頬に添えられた幸村の手に、己の手を重ね合わせた。
手甲の上からでも分かるほど、熱い。
「あんた…」
「肉体とは不便なものだと思わないかい?少し私が滞在するだけでもうこんなにガタがきている。」
「出てけ」
佐助の目に冷酷な光が宿った。
今まで幸村には決して向けたこと無い眼差しだった。
そしてこの先向けられる事もないはずのものだった。
決して向けられることなど、ないはずのものだったのに。
不条理な怒りがまたも身を焼きそうになったが、そんなこと言っている場合ではない。
だらだらとこの得体のしれないモノと会話しているだけでも、主の体は蝕まれていっていると言うのだ。
冗談じゃない。
佐助は時間にすら殺意を覚えた。
「…怖いね。ほら皮膚が粟立ってる。これはこの体の反応だよ?…自分の所有物から向けられる殺意に反応しているんだ」
そういって寒そうに身を震わせるソレは、怖い怖いと言いつつも楽しげにさらに言葉を紡いだ。
「でもいい目だね…人にしておくには勿体ないよ。いっそこっち側に来るかい…?」
「黙りな」
相手の誘いをにべもなく両断する。
人がどうとか、自分が何だとかそんなことはどうでもいい。
佐助にとって、己は忍でしかなく、あっちもこっちも無いのだ。
「そんなに嫌かい?この人間の体を好きに使われるのが」
「ああ嫌だね。虫唾が走る。旦那はそんな風にしゃべらないし笑わない。気持ち悪くって吐いちまそうだ」
怒りも露わに吐き捨てた瞬間、佐助の頬に触れたままだった幸村の手にいきなり力が込められた。
ぴり、とした痛みの後眼尻にうっすらと赤い爪痕が残った。
徐々にそれは深みを増して、ぷくりと血が溢れ出す。
「…逃げないのかい?目が片方無くなってしまうよ…?」
「二つあるし、しょうがないから一つはあんたにあげるよ。だからとっとと出てけ」
くつりと再度笑ったソレは、佐助から手を放すと指についた血をぺろりと嘗めた。
その後ろでぼんやりと揺らめく影が、蝋燭の炎がまた震えたことを知らせる。
「お前は本当に変な人間だね。内心腸が煮えくりかえっているいるだろうに、呼吸も鼓動も体温もさっきから全然変わらない。…何故かな?」
「…俺が聞きたいね」
そう吐き捨てた佐助は、予備動作すら無く幸村の体へ飛びかかった。
無防備な状態で座っていただけの幸村の体は、大した抵抗を見せる暇もなく佐助に組み伏せられた。
そして口へは布が押し込まれる。
自害を防げるだけでなく、さっきから不快極まりない言葉の応酬を止めることもできる。
一石二鳥だ。
「四肢の自由を奪ってあんたをこの人から無理やり引き剥がすって手の方が早そうだ」
真剣な目でそう言った佐助は、手早く拘束を始めようとして、違和感を感じとった。
抵抗が全くないのもおかしいが、それよりも幸村の体がおかしい。
体温が異常に高いが、それ以外にも。
(…っ!!)
一瞬後弾かれたように幸村の口から布を取り出し、拘束を解いた。
「おや?もう終わりかね…」
「……息を」
佐助の絞り出すような声に答えて、幸村の体は数度深呼吸を繰り返した。
「ご名答。四肢の自由を奪われようと、舌を噛み切る術を奪われようと…呼吸をやめれば人は死ぬ」
「あんたの目的は、何なんだ。」
幸村を見下ろすように膝立ちした佐助が眼光鋭くそう言った。
対するソレは酷く楽しそうに答えた。
「そんなものあると思うかい?それよりもさっきの私からの質問の答えが知りたいね」
そう言って幸村が起き上がると、佐助の上衣に手を掛けた。
「邪魔だねこれも、これも。」
佐助がどこに何の武器をどれだけ仕込んでいるのか、すべて知っているかのように淀みなく手を動かしていく。
その行為を目に映しつつも佐助は息をつめたまま動かない。
「思ったよりずっと細い。いや、まず傷の多さが気になるか」
「脱がすならそのへんにいくらでも美女がいるだろ。あんた変態?っていうか旦那の体使ってこういうことしないでくれる?」
佐助の言葉に耳も貸さず、幸村の姿をしたソレはぺたりと心臓付近に手を当てる。
「変わらないね…」
そういって今度は首に手を這わした。
動脈辺りを数度撫でると、がりりと爪を立てる。
「これでも変わらない。」
にやり、と本物の幸村なら絶対に浮かべないであろう冷笑を浮かべる。
そしてうっすら滲みだした血をなじませるように、手を佐助の首の後ろへと滑らした。
「痛みでは動かないようだね」
そう言って笑みを一層深めると、ぐいと佐助を引き寄せて噛みつくように口づけた。
触れあわせた唇に実際に噛みつきつつ、畳へと組み伏せる。
「さっきからずいぶん大人しいじゃないか。言葉よりこちらの方が好きかい?」
からかうように言うソレに、佐助は血の滲んだ口を歪めてため息を吐いた。
「桃色の脳内妄想してもらってるとこ悪いけどね、旦那と俺はそういう関係じゃないの」
「へぇ…?しかし惚れているのではないのかい?この男に」
「惚れた腫れたにも色々種類があってね…。わかったらとっととその人から出て…うぐぅっ」
佐助の言葉が終らないうちに、ソレは佐助の喉笛へ噛みついた。
犬歯を器用に使って薄い皮膚を喰い破る。
「それはもう聞き飽きたよ。ほかに何か無いのかい?」
「あんたに、掛…ける言葉なんて、他に浮かんでこねぇよ」
「おや、それは残念だ」
そう言ってソレは佐助の血に濡れた幸村の唇をいびつに歪めた。
そしてまた手を胸へと這わせると、心臓を抉り出そうとするかの様に爪を立てた。
人体の急所にばかり悪戯めいた傷を付けてくる、そんな陰湿な行為に対して、佐助は特に抵抗らしい抵抗をするでもなく、ただぼんやりと空を見つめた。
感覚としての痛みは確かにある。
忍の習慣で身構えてしまいそうになるし、とっさに体に仕込んだ武器を探りそうにもなる。
しかし、どうでも良かった。
良くないのは、どうしても許せないのは、それが幸村の意志を奪って、勝手にその体を使われて行われていることなのだ。
あの人は、例え脅されても部下を傷つけるような真似はしないだろう。
殺されてもそんなことは絶対にしないだろう。
それなのに、自由を奪われて好き勝手使われている。寄りによって、部下を傷つける行為に。
それが佐助には許せなかった。
心がだんだん凍りついてくる。
もともと心と体の連動が希薄な忍の身だ。
体をいくら傷つけたとしても、内側を波立たせることなどできるはずがない。
むしろ逆効果だ。
敵としての認識が強まれば強まるほど、心が凪いでくる。
「その笑い方…」
絶対零度の声音で、佐助がうわ言のように呟いた。
目の焦点はあっているのか、ぶれているのか分らない虚ろな目。
「…何かね?」
佐助の変化に興味を示したソレは、先を促すように問い返した。
しかし手を止める気はないらしく、ぎちぎちと食い込んでいく爪を滑らせ、佐助の肌に赤い爪痕を残してゆく。
その爪痕から、ゆっくりと血が流れ出し、幾つかぽたりと畳に赤い痕をつけた時、佐助は続きを口にした。
「やめろよ、殺したくなる」
「くくっ…」
今までで一番楽しそうに笑んだソレは、佐助の耳元に唇を寄せると抑えた声音で囁いた。
「では、見なければ良いのだよ」
声音はあくまで優しいので、最良の提案をしているかのようにも聞こえる。
けれどそんな訳あるはずがない。
ソレは幸村の右手をゆっくり動かし、佐助の頬に手を掛けた。
血に濡れた指は、ぬるりと佐助の頬を滑って徐々に上へと上がって行く。
頬骨の辺りでいったん動きを止めると、人差指で鼻梁を撫でて、佐助の右目のすぐ下でもう一度動きを止めた。
そして薬指は、丁度左目の下にある。
ゆらりゆらりと揺れる蝋燭の頼りない炎が、またひとつ激しく揺らめいた。
「見なければ良いのだよ」
ソレは幸村の声でもう一度優しげに呟くと、一瞬も躊躇うことなく、そのまま一気に右手に力を込めた。
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佐助は可哀想なのが似合う。
次は才蔵です。
ちょっとがんばります。
(08.9.15)
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