夜も更け、草木も眠りにつく時分。
虫の声もだんだん消えつつある静かな秋口の夜に、物音ひとつ立てず滑るように移動する影が一つ。
その影はひらりと宙を舞い、飛ぶように新月の空を駆けた。
やがてひとつの大きな屋敷までたどり着くと、慣れた様子で壁を飛び越え音もなく敷地の中へと着地する。
(ご苦労さん)
こそりと見張りの忍に声無く語りかけると、常闇の中でかすかに揺らめく何かが見えた。
どうやら律儀に頭を下げたらしい。
そんな忍の姿に内心苦笑を洩らしつつ、影こと猿飛佐助は迷いなく歩を進めた。
行く先は決まっている。
すると数人の部下が寄ってくる。
(お帰りなさいませ)
(留守中異常は?)
(ございません)
(動きは?)
(西に少し)
(分かった後で聞く)
(承知致しました)
空気を震わすことのない会話を終え、さらりと去っていく部下を視界の端に入れつつも佐助は一直線に進んでゆく。
目的の場所は主の私室だった。
普通ならこんな時間に尋ねるのはおかしいのだが、今回はどんな時間に戻ってきても必ずすぐに報告へ来るように幸村自身に言われていたのだ。
理由はもちろん、今回の佐助の仕事先が奥州だったから。
これがもし越後だった場合、先に来いと呼ばれるのが信玄公に早変わりする。
好敵手に対する気構えは師弟揃って変に似通っており、情報収集を担当する忍の身としてはけっこう面倒なものだった。
(あーあ、旦那この時間完璧寝てるよな…。変な時間に起きてまで聞きたいもんなのかねぇ、竜の話なんてさ)
内心ぼやきつつも、主の命にはしっかり従う主義なので律儀に部屋へと向かっている。
やるべきやり取りも終えたので、先ほどまで緩めておいた歩調を一気に速め、数度跳躍することで主の部屋が見える位置までたどり着いた。
驚いたことに、部屋からはうっすらと明かりがもれている。
まだ幸村は起きているらしい。
珍しく書でも読んでいるのだろうか、という考えが浮かんだがすぐに打ち消した。
それにしては明かりが薄すぎたからだ。
少々疑問に思いつつも更に近づくと、警護に当たっている忍が佐助に気づき、そのうちの一人がひらひらと手招きした。
こんな真似をする忍は忍隊に一人しかいない。
(何、才蔵?)
(来い)
(はァ?)
声をかけた瞬間いきなり手を掴まれ、佐助は文字通り引きずられてその場を離れた。
避けることも逃げることもやり返すことも出来たが、普段冷静沈着な己の副官が、珍しく感情を乱している。
それが気にかかったのだ。
(いったい何)
(少し待て)
並行して幸村の私室からぐんぐん離れつつ、ようやく着地したのは普段自分たち忍が寝泊まりしている草屋敷の屋根だった。
才蔵は音もなく佐助に向きなおると、声に切迫した雰囲気を滲ませて問いかけた。
(…佐助、さっき変な空気を感じなかったか?)
(変な空気?…いや特に何も。)
(やはりそうか…。)
(いったい何?簡潔にな。俺は旦那に報告行かなきゃなんないんだからさ)
要領を得ない才蔵の言葉に溜息を吐きつつ先を促すと、才蔵は黒の双眸を鋭く潜めた。
(主殿の様子がおかしい。…いや、おかしいかもしれない、というまだ可能性の話だが。皆にも聞いてみたが回答はお前と同じだった。…就寝前にも一度お会いしたがやはり違和感を感じた。お前も今から行くなら注意して見ていてくれ)
(違和感ってどんな?もうちょい具体的に何か無いの?)
(何というか…主殿らしくない気配だ)
(旦那らしくない…?熱血と真逆ってこと?)
(まぁ、そんな感じに近い。暗く重く…少し冷たいような)
(風邪でもひいたとか?)
(…いや、病などでは無いはずだが)
(…とりあえず覚えとくわ。それより就寝前って何?)
(寝酒を所望されたあと、酒器を下げただけだ。)
(んなことはどうでもいいよ。そうじゃなくて、さっき見たら旦那の部屋明かりついてたぜ?起きてるんじゃないの?)
(…何を言ってる?明かりなどついておらぬ)
(……へ?)
才蔵の言葉を聞いた瞬間、佐助の肌がぞわりと粟立つのを感じた。
相変わらず何が起きているかはまるで分らないが、何かがおかしい。
確かに部屋に明かりはついていたのだ。
それなのに警護に当たっていた才蔵がそれは無いと言う。
どちらかの目がおかしいのだ。
その上才蔵以外の忍達も変だ。
留守中“異常は確かにあった”のだ。才蔵が感じた違和感を報告しない訳がない。
それなのに部下の忍達は異常なしと報告に来た。
何かがおかしい。
(俺は旦那のところに報告行ってくるわ。…お前は今から言うもの全部揃えて屋敷中の忍全員に指示出せ)
(御意)
視線を鋭くした佐助は、いくつか才蔵に指示を出すと二三歩屋根を歩き、ぶわりとわざわざ音を立てて姿を消した。
夜の闇より濃い暗色の煙が宙に霧散する。
次いで才蔵も闇夜に溶けるように姿を消した。
あとに残ったのはピリリとした空気の残滓のみだった。
































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続きものです。
この先流血描写。微エロ。ヌルイ鬼畜。ほんのり鬱。な感じになります。
苦手な方はご注意ください。
(08.9.9)












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