佐助は物事がすんなり上手くいく事を只の幸運と片付けることのできない性分だった。
元就への変化の術は我ながらかなりいい線をいっていたと思っている。何て言ったってあの元親のお墨付きだ。
毛利軍はもちろんのこと、あのザビー信者までしっかりと騙せたのだから、慣れない人物への変化だったとしてもやはり上手くいっていたのだろう。変化を解いた瞬間の奴らの顔も見もので、出来ればもっと大勢の人間に見せてやりたかったくらいだ。
しかしそれでも、こうやって毛利元就が取り押さえられている姿を目にした今でさえ、それを『ああ良かった』と片付けることが出来ないでいた。
何事も最悪の事態を考えて動く忍の厄介な性のせいでもある。
しかしその小さな不安は気のせいで済ませられるようなものでは無かった。何か嫌なものを感じるのだ。
特に熱心に空に向って祈るザビー信者の姿がどうにも何か引っ掛かる。あのインチキ宗教を信じたわけでは無いのに、こうやって一心不乱に何かを祈る信者というものは他の人間には考えもつかないような何かを秘めているのだ。
そんな風に佐助が胸騒ぎを覚えた瞬間だった。
それは一つ響いた大きな音によってその強さを増し始めた。
ゴトン、と。
地が響くような音が聞こえたと思った瞬間、あたりを取り巻く潮騒の音に混じって、水の流れゆく音が聞こえた。海の音とは違う、明らかに人の手によって作られた水の音だ。
そう、それは水路を流れてゆく水のような。
不意に思いついたその「水路」という言葉に、佐助は慌てて周囲に目を走らせた。
音が鳴った方向はあっち。
そして水の音が響いているのは。
「……。」
色んな方向から音が集まってくるせいで、どの場所がそれに当てはまるのかすぐには特定できない。しかし佐助は焦らず慎重に目を凝らした。
そして、ある一点を目にした瞬間佐助は愕然とした。
「…!!!」
目に入ったのはただの水路だ。小舟が浮かべられそうな大きさの、辺りに張り巡らされた水路。しかし驚いたのは水路にじゃない。
だんだん水が引いていくその中から、僅かに浮かび上がってきたソレにだ。
ソレは箱に入っていた。その箱は半透明な何かで出来ていて、中身を見ることができるようになっていた。
一度見たら忘れられない、気持ち悪いあの姿。
ソレが、中に。
「おう野郎共!!全員無事か?」
そこへ今一番聞きたくなかった声が響いた。
自分が一番危ない役目を引き受けた癖に、真っ先に部下の心配をするような、変わった大将。その男が、長槍を担いで近づいてくる。
この場所へ。
今から地獄絵図が描かれる、この場所へだ。
「鬼の旦那ぁっ!来るなッ…!!!」
佐助は叫んだ。
しかし元親は怪訝な顔をしたまま足を止めない。
「何だぁ?」
「こっちへ来るんじゃねぇっ!早く逃げろっ!!」
「何言ってんだよお前、一体どうした?!」
佐助は言葉の選択を間違えた。あの元親が、この敵陣のど真ん中で味方に「逃げろ」何て言われて逃げる訳がないのだ。むしろ逆だ、寄ってくる。
「ちょっ!あんた馬鹿かよ?!もう誰でもいいからその人逃がして!ちょっと!側近の人!」
「煩えな忍!とりあえず理由言え、理由ッ!!」
佐助に声を掛けられた元親の側近が、慌てて周囲を警戒したがそれでも元親の歩みは止まらない。
真っ直ぐこちらへ、敵大将の毛利元就の元までやってくる。
佐助は慌てて叫んだ。
「メカザビーが来る!逃げろ!!」
「何だって?!」
これを聞いてなお、元親は落ち着いていた。声を荒げはしたものの、近づいてくる足の歩みを止めることはなく、視線を僅かに鋭くしただけだった。
そしてその視線は毛利元就へと向けられる。
「毛利」
「これを聞いても逃げぬとは…、やはり貴様は馬鹿な男だな。長曾我部元親」
「煩い、説明しろ」
「説明も何も、見たままだ」
そう言って元就は、凍てついた表情に冷笑を浮かべて見せた。動けないように取り押さえられているというのに、その表情には微塵も動揺は浮かんでおらず、静かに事の成り行きを眺めているように見えた。
「わが名はサンデー毛利。…ザビー様はいつ何時でも我々を愛で導いて下さる」
「毛利、ご託は良い。どういうつもりだ」
佐助はこの瞬間にもこの二人の遣り取りを遮って、そのまま退却に移りたかった。しかし雇い主は佐助にそれを許してはいない。だから佐助は動けない。しかしその間にも、メカザビーは着々と水路から姿を現し始めている。
どれほど毛利の陣営を探ろうとも、ついにその姿を見せなかったメカザビー。それがまさか、弱点である水の中へ隠されていたとは、これは完全に盲点だった。四国へとそれを持ち込まれないことだけを念頭に置いて行動していたから、こんなことになって初めて注意が足りなかったと後悔する。
「我を抑えても無駄ぞ、長曾我部。…貴様らはここで死ぬ!」
「俺が聞いてんのはそんなことじゃねぇ!こんな味方だらけの事であれを動かして、どういうつもりかを聞いてんだよ!」
「…?」
元親の言葉を受けて、元就が僅かに眉宇を顰めた瞬間だった。
一人の人間の、絶叫が響いた。
それはザビー教の人間だった。そしてその男は、メカザビーの起動を行っていた者の声だった。
「な…」
その光景に、あの毛利が絶句した。
「ちぃっ…野郎共!!退路を確保しろ!」
「へ、へい!兄貴!」
「あと毛利の連中!お前らもだ!とっとと逃げねえとこの辺りは血の海になるぞ!」
元親のその言葉に、騒然となったのは何故かザビー教の信者たちの方だった。
そこで佐助は気付いた。
この者達は、メカザビーが敵味方の区別が付かないことを知らないのではないか?と。
それはどうにも当たっていたらしい。
勝ち誇った顔をしていたザビー教の者達が信じられない顔で立ち竦み、そのままメカザビーの餌食になっていくのだ。
「おい毛利!てめぇ呆けてねぇでしゃんとしろ!とっとと子分たちに指示出しやがれ!」
元親はこういう時、実に頼りになるらしい。茫然としている元就の胸倉を掴んで、怒鳴りつけている。
それを聞いた周囲の人間が慌てて動き出した。しかしザビー教の信者たちはまだ世迷言を呟いている。
「あなたは何かを勘違いしている。これはザビー様の愛の鞭なのです!!」
「阿呆かお前らは!愛の鞭ってぇのは普通命まで取らねぇんだよ!!」
元親はとりあえず鉄拳制裁でそれを黙らせた。そして尚も指示を飛ばす。
「とりあえず沖に退避すりゃいい!とっとと逃げるぞ!」
元親の指示に答える長曾我部軍の動きは素早い。ここから見える海辺では既に船を出す準備が出来ているようだ。人を乗せるだけ乗せたらすぐに沖へ出るのだろう。
しかも長曾我部軍の人間は生粋の海の男たちだ。仮に船に乗れなくとも海へ飛び込むはずだ。
佐助はそこまで確認すると、今度は陸側の方へ目を走らせた。
次々に水路から這い出して来るメカザビーは目算で二十。しかし水が引いてゆく水路の幅から考えて、三十は見ておいた方が良さそうだと判断した。
そして取った行動は留まること。
佐助はその場を動かなかった。まだ元親が退避していなかったからだ。邪魔にならない程度の距離をあけ、元親より陸側へと腰を落として構える。この位置なら銃弾が飛んでこようとも弾いて防ぐことが可能だ。
そして元親の方は武器を構えて、あろうことか殿を務めるつもりらしい。言っておくが、間違っても大将がやることではない。
「おい毛利!あんたも手伝えこの馬鹿野郎が!やられてんのはあんたの子分だろう!」
しかもせっかく取り押さえた敵大将の拘束まで解いて、武器まで返してしまっている。…どんな大将だ。
佐助が内心呆れていると、次々に上がる断末魔の声が徐々に近づいてきているのが分かった。メカザビー達は生きている人間を薙ぎ払いながら、まっすぐこちらを目指しているらしい。
佐助も武器を構えて応戦しようとした瞬間、この場にそぐわない静かな笑い声が響いた。
元就の声だ。
「フフ、フ…そういうことか」
肩を震わせてくつくつと笑う姿は気味が悪い。佐助の位置からはその表情を窺うことが出来ないが、僅かに顔を俯けている様子からは諦めしか読み取れなかった。
しかし次に元就が顔を上げた瞬間には、そんな空気は微塵も纏っていなかった。
「ザビー様がそれをお望みなら我はそれに応えるまで。…ここで共に死んで貰うぞ、元親!!」
どこか吹っ切れた様子で元親の胸倉を掴む元就は、見たこともないような笑みを浮かべていた。しかし元親もその迫力に負けてはいない。
「阿呆か!!こんな大規模な心中なんてやってられっかよ!!逃げるぞ!!」
「逃がすか!!」
「ふざけんな!!それじゃお前、死駒も同然だろうが!物みてぇに扱われて何とも思わないのかよ!」
怒鳴り返した元親に、似たように声を荒げていた元就は急にその声を抑えた。
押し殺したような平坦な声で、噛み砕くように声を返す。
「言っただろう、元親。我もまた盤上の駒の一つに過ぎぬと。…死駒も駒の内よっ」
最後は声を荒げた元就は、逃がさぬとばかりに元親を捕まえている。そう間を置くことなくその場へメカザビーが辿り着くのだろう。
「もうお前ごちゃごちゃ煩せぇ!!細かいことはどうでもいいからとにかく退避だ退避!!」
「させぬと言っただろう!」
「あああああもうっ!!分かったよ!そんなに死にたきゃあと五十年ほどしたら一緒に死んでやらぁっ!!」
「………。」
叫んだ元親に、元就は一瞬動きを止めた。何かを考えているらしい。
しかしその途中ではっとする。
「それでは意味がなかろう!天寿を全うしてどうする!!」
「ああもうっ煩え!!毛利軍の奴らも!残ってないで逃げるぞ!ありゃ見たとおり敵味方の区別が付かないんだ!!おいそこの忍も!!何お前まで律儀に残ってんだよ!とっとと退避だ!」
元親がこちらに声を掛けてきた瞬間、何故か佐助は笑ってしまいそうになった。
こんな非常事態なのに、大将同士で馬鹿みたいなやり取りをしているし、逃げろ逃げろと怒鳴りかける相手は敵味方の両方にだ。
何て人だろうか。
あまりにもその姿が馬鹿らしくて、その実直なまでの情の熱さがおかしくて、一つ理由が出来た。
この人は生きるべき人だ、と。
ただ漠然とそう思って、死なせたくないと思った。
「忍を舐めんなよ」
誰にともなくそう告げて、佐助は印を切って分身を一つ作った。
ゆらりと影を背負う己の移し身は寸分違わず同じ姿をしている。闇を溶かしたような瞳の暗さも、その目の求める結末も、全部一緒。
元親が不思議そうな視線を寄こしたのが分かったけれど、それは分身共々さらりと無視した。
そして今度は、分身と二人で印を切る。
「「これ見たら死ぬぜ…?」」
同じ声を二つの口から放ち、にやりと笑んで初めの剣印を切れば、形を作る指の力すら抜け落ちそうになるのが分かった。
里で習得出来たのは両手に満たぬ人数だったこの術。これを生み出した忍は、発動と同時に炭になって消えてしまったらしい。
そのあと、二人で発動させるように術ごと組み換えられた。
長い時間をかけて、たくさんの命を費やしながらやっと形に出来たこの術。それでもなお禁術として封印されている、里の禁忌。
簡単に使って良いものではない。
そして、一人でやる術でもない。
それでも決断した。
只でさえ術の連発で疲れていたのに、こんなにも愚かな選択をしてしまうとは思考まで疲労で馬鹿になっていたのだろうか。
けれどもう道は選んでいるのだから、後戻りはできない。
なのに後悔はしていない。
迷いの無い思いとは裏腹に、体はそう都合よく言う事を聞いてくれるわけでは無く、徐々に力が削り取られていくのが分かった。
印を結ぶ手が指が、崩れそうになる。
大地に立つ足すら震え始めて、進めていくうちにどちらが天か分からなくなってきた。
けれど、やめはしない。
「「……くっ」」
迫りくる危険も理解している。
そしてそれを受け入れている自分をもまた、理解してしまっているのだ。
額から流れ落ちる汗は、そのまま命ごと連れ去ってしまいそうで、それでも拭う気はない。
からからに乾いてくる喉は呼吸すら途切れさせて、もう吐いているのか吸っているのかすら分からなくなってきた。
けれどその喉で、これだけは言わせて貰う。
『雷塵…っ、狂乱!』
大嫌いな雷を呼ぶ最後の印。
裂けるかと思われたこの喉は、術の発動を告げる言の葉を無事に紡ぐことが出来たらしい。
目を焼いたのは雷鳴の白で、強すぎる光でもあった。
けれどそれを目にしている最中ですら、体の中からごっそりと何かが抜け落ちてゆく。
これは、相当ヤバイ。
そう思った瞬間、ぶつんと体を支える糸が切れたのを感じた。そのまま地に引き寄せられるように体が崩れ落ちて、地面に打ち付けられたような気がしたものの、痛みは分からなかった。
しかしそんなことはもう良い。
術は成功したのだ。
その光が穿つ相手をこの霞んだ視界では見ることは叶わないけれど、金属の塊であるあいつらを残らず“しょーと”させていたら良いと思う。
そんな思いのままに無理して繋ぎ止めていた意識を手放そうとした瞬間、焦った声が聞こえた。
「忍!!!」
聞こえはしたけれど、この声で佐助を引き戻すのは不可能だった。
聞きたいのは、もっと暑苦しくて、うるさくて、無視できないくらい馬鹿でかい声。
あの人の、もう聞けない声。
それを思えば、縋るように手を伸ばしたくなる。なのに体が動かない。
目はとうに役目を果たさなくなっていて、耳もさっきからどうにもおかしい。
一番煩いのは雷が落ちる天を裂くような轟音で、それにほんの少し混じっているのが人の声。
その中から無意識に聞きたい声を探してしまう自分がいて、それを馬鹿だと自嘲する前にもう何もわからなくなってしまった。
思考ももう消え始めているらしい。
体の中が空っぽになったような錯覚を覚えて、ふ、と息を吐こうとした。けれど肺すら言う事を聞かなくなっていたみたいで。
ぶつりと意識が切れる瞬間、佐助は少しだけ己に甘えを許した。
ヤバイな、駄目だな。
どうしよう、これ。
生きろって言われたんだけどな。
これでも必死で生きてみたんだけどな。
何て言ったって最期の言葉だし。
でもさ、
なあ、旦那。
もう我慢とかきかなくて、抑え込もうにも限界で。
こんな死ぬ瞬間みたいな時に、俺は気付く。
旦那。
偲ぶには鮮烈すぎて、焦がれるには遠すぎた。
願うのは駄目だろうか。
思うのも駄目だろうか。
ほんの少し、考えてみても良いだろうか。
旦那。
次に目を覚ましたら、俺は三途の河を渡る途中とかで。
…あんたに会えたり、しないだろうか。
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(09.5.17)