ひらひらと鬼の旦那に手を振って背を向ければ、血が足りていないのか、少しくらりとした。
視界も一緒に揺れた気がしたけれど、それよりも前を行く背を追いかけるのに必死でそんなものは気にならない。
既に外で沈んでしまった太陽はどこも照らしてはくれないけれど、前を行くこの人の槍に灯った炎が明るくて。
闇に慣れたこの目にさえ映らない、己の道をも呑みこむ闇よりも、こうやって先を照らしてくれる炎は何よりもありがたい。
熱に引かれるままに疲れ切った足を動かしながら、丁度足元にかかるように伸びているあの人の影を離されないようにと追い掛けた。
頼むから。
ほんの少しの間でも長く、消えないでいてくれと。
上を見上げるまでもなく、正面を見据えているだけで空が見えた。
水平線より少し上のあたりで時折瞬く星が、既に夜が更けて時が経ったことを教えてくれる。
「終わったな」
佐助の丁度正面。
半ば崩れた石造りの壁に腰かけるようにして振り向いた幸村が、そう言ってほほ笑んだ。陽が昇ってから今までほとんど動き通しとあってか、かなり疲れた顔をしている。
「…お疲れさん。ところでさ、あんたは無事ですか?」
幸村が無傷なことは、誰よりも佐助自身が知っていたが、ここは茶化してそう問いかけた。
「お前が守ってくれたからな」
「そう」
聞きたかった言葉を聞けて、満足して佐助も口元を緩ませると、幸村が心配そうな顔でこちらを見つめていることに気付いた。
「どうかした?」
「…お前の方こそ、大丈夫なのか?」
「ああ、大丈夫大丈夫。これでも俺様あの大坂の陣を生き抜いた忍よ?舐めて貰っちゃ困るね」
“大坂の陣”という言葉に幸村は反応したのか、ほんの少しだけ眉根を寄せた。
「だがっ、その血の全てが返り血という訳ではなかろう」
「まぁ掠り傷程度。大したことないよ」
「だとしても手当は必要だ。消毒用に酒を持っていただろう、貸せ」
幸村に怪我のことを伝えればこういう反応が返ってくることくらい佐助は分かっていたが、手当をしようとするその手を遮って佐助は幸村のすぐ傍へと歩み寄った。
「後で自分でやるさ」
「何?今やらねば…」
怪訝な顔をして見上げてくる幸村に、佐助は苦笑で返した。
「今は」
少しでも、惜しむ時間が欲しい。
言外にそう含ませて笑えば、幸村ははっとしたような表情をして項垂れた。
「そう…だな」
「もうすぐなんだろ?」
「…分からない。でも、多分」
思い浮かべることすら躊躇する“別れ”という二文字。
会話に主語を省くのは、その言葉を口にしたらその瞬間にでも本当になってしまいそうだから。
だからお互いついつい言葉を濁す。
「ねぇ旦那、触ってもいい?」
佐助は頭に浮かんだ嫌な考えを閉め出すようにそう告げると、ほんの僅かに開いている幸村との距離を埋めるように片手を伸ばした。すると幸村が、のろのろと顔を上げてこちらを見てくる。
「馬鹿者、…そんなこと」
わざわざ聞くな。
言葉の続きは耳元で聞こえた。
壁に腰かけていた幸村が立ちあがって、佐助に飛びついて来たからだ。
一瞬返り血だらけの己の体で抱きとめて良いものかと躊躇ったが、こう抱きつかれてしまってはそれも今更だ。そう思ってすぐ傍に感じる体温に惹かれるままに腕を背に回すと、加減を考えずにそのまま抱きしめた。
しかし困ったことに、陽が昇ってからそれこそ動き通しだった己の腕には力がうまく入らない。
きつく、感触も体温も全て記憶するように、つぶれる程に抱きしめたくとも、力を込めようとすると腕が細かく震えてうまくいかないのだ。
そんな己の情けなさに溜息をつけば、幸村はあれだけ動いておいてどこにそんな力があったのかという程の力で、ぐっと佐助を締め上げてくる。この落差は何だろうか。
「旦那」
苦しい。
いつもの佐助ならここで口にする言葉は、今に限っては出てこなかった。
別に今がどれほど苦しくても良いのだ。いっそ息が出来なくなるほど苦しければ良い。
もうそのまま、絞め殺されてしまえるほどに。
そんな望みを抱いてしまうのは、幸村がこの腕の中から一瞬にして消えたあの時のことを思い出して、ぞっとしたから。
今こうやって感じている体温も感触も、あとどれだけここに存在していられるかが分からない。目を離せば、手を離せば、少しでも気を抜けば、今すぐにでもこの人が消えてしまうかもしれなくて。
「………っ」
戦が終わるまでは、と佐助が必死に抑え込んでいた思いが一気に膨れ上がってきて、その不安に呑まれるように呼吸が乱れた。吸う息も吐く息も、笑える事に自分で上手く制御できない。胸は苦しいのに空気が入ってこなくて、吸おうと思っても喉が震えるだけ。では逆に吐こうと思えば、何かに圧迫されているかのように喉がひゅうと鳴った。
胸が苦しい。
こんな感情、知らない。
「佐助」
けれど、幸村が名を呼ぶその一声で狂い掛けた呼吸がぴたりと止まった。
「佐助」
もう一度呼ばれて、止めていた息をゆるゆると吐き出せば、次に吸いこむ時には呼吸が元に戻っていた。
「うん、何?」
口を開けば、返事だってまともにできる。
いつの間にか鼓動まで乱れていたのを落ち着けるつもりで静かに呼吸を繰り返すと、佐助は呼ばれた声にこたえるつもりでぴたりと寄せていた体を離し、幸村の顔を覗き込んだ。
鼓動も体温も、一番近くで感じられる今の体勢を名残惜しく思ったのは確かだけれど、目にもこの人の姿を刻み付けておきたい。
だから佐助は、幸村を見た。
かち合ったのは、ぱちりと見開いた黒々とした目。びいどろの玉をそのまま嵌めこんだような、綺麗な目。
その一対の目が、まっすぐに佐助を射抜く。
「……っ、」
たったそれだけのことに、何故か泣きそうになった。
頭の中でぐるぐる回っているのは、幸村が消えてしまった時のことばかり。一度目が死で、二度目が消失。じゃあ、三度目は?
考えても仕方のないことなのに、目の前にいるこの人を離したくなくて、何かとんでもないことを仕出かしそうになってしまう。
この人は己のものではないのに。
「…何、旦那?」
だから佐助は己のそんな衝動を打ち消すように問いかけた。
何か言葉を発していないとどうにかなりそうだったから。
しかし幸村は問いには答えてくれず、苦笑しながら佐助の鉢金に手をかけてきた。佐助の頬を幸村の指が掠めてゆく。
「顔がよく見えぬな」
そう言いながら外された鉢金が幸村の手によって無造作に抛られて、地面に硬い音を立てて転がった。
熱の籠っていた部分に風が当たって体温が溶けていき、視界はさっきより随分広くなった。それはもう、目の前の人の姿がよく見える程に。
「……っ」
これでは只でさえ色々抑え込んでいるのに、障害物が無くなったせいで余計に箍が外れやすくなってしまう。
なんでこの人は、こうなんだろう。
「もう、何なんだよっ…」
どうしようもない衝動に八当たり気味な文句を口にするも、幸村は佐助の気も知らないで目の前で苦笑している。本来ならここでこの表情を憎らしいと思うこともあるだろうに、困ったことに今の佐助にはそんな思いすら抱くことは出来なかった。あるのは、やはりどうしようもない衝動。
佐助が持っている知識の中で例えるなら、そう。
戦場で大量の鉄砲玉が飛んできて、それを避けている最中に空から槍が何十本も降ってきて。己の力量で捌き切れるか否かのそんなギリギリの状態。そんな時の思考の追い付かない状態に似ている気がする。
頭で考えて行動することが難しいという意味においては、かなり近い。
ただ身体が思うままに動くことが出来ないという点だけが違うだけで。
「ああ、もう…っ」
己のことだというのにどうしたら良いか分からず、その苦しさにもがく様に一言洩らせば、目の前の幸村が浮かべていた笑みを不意に消し去って、真剣な表情で口を開いた。
「佐助」
そして何を言うかと思えば。
「俺が好きか」
こんな、馬鹿みたいな問いかけだった。
「何を今更…、」
「好きか」
答えなど言うまでもなく分かり切っていることを、どうして今更。
そう思って佐助が問いかけようとしたのを、幸村が「好きか」と遮った。
答え以外の言葉など許さないと言わんばかりの視線が佐助を射抜き、何かを懇願するような表情でこちらを見ている。
「答えろ、佐助」
重ねて言われた命令の口調の幸村の言葉には、口調に反して鋭い感情は含まれて無くて。
好きかと問われればそんなもの。答えなど決まっている。
あまりにも今更な問いかけだけど、この人が言葉にしろと言うのなら。この人が望むのなら、どんな言葉だろうと。
「…そんなの、決まってる」
佐助はそこで一旦言葉を切ると、困ったように微笑んだ。
そして息を吸い込み、溜息とともに告げる。
「惚れてますよ、…心底ね」
あんたがいなければ、もう息すら出来ない程に。
言葉にするには想いの方が深すぎて、どういう言葉を選んでいいのかが分からないから。だからとりあえず己の知っている言葉を口にした。
好きだという言葉が欲しいのなら、言いなおしたって良い。
こっ恥ずかしい言葉だろうが、何だろうが。いくらだって言ってやる。好きかと聞かれて答えを返すのに、どんな言葉を尽しただって足りやしないのだから。
しかし幸村は佐助が答えを口にしたというのに、何も言おうとはしない。
何か返事を返してくれるでもなく、ただ一言「そうか」と呟いただけで。その後に何かしら言葉が続くのかと思えば、仕草一つ付かない無言が落ちるだけで。
こちらにそんな問いかけを投げたのだから、自分だって言うのが筋というものだろう。佐助はそう思ったけれど、やはり幸村はただ黙っているだけだ。
せめてどういった感情でそれを口にしたのかだけでも読み取れないかと、幸村の表情に目を凝らしても、何かを堪えるように目を閉じているだけで感情が読み取れない。
日頃からあれほど感情が顔に出やすい主だというのに、こんな時だけそんな複雑な顔をするのは狡いのではないかと思う。
「旦那は?」
もうそれなら聞いてしまえ、と佐助が口を開くと、幸村は閉じていた目を見開いた。
そしてぱちりぱちりと二度瞬きをして、まさかの言葉を吐いた。
「次に会った時に言ってやろう」
「………、」
佐助はもちろん絶句した。
今のこの、幸村がここにいるということさえ泣きたくなるような奇跡であり、それももうどれだけもつかも分からないのだ。
次なんて、ある訳がない。
「何、それ。狡過ぎない?」
「ああ、狡いな」
「ちょっと、開き直んないでくれる?」
せめてこんな時くらい、答えをくれたっていいのに。
そんな思いで佐助が憮然とした表情を作ると、目の前の幸村は何故か苦しげ表情を浮かべて見せた。
そしてゆっくりと佐助の喉元へ手を伸ばして、ゆるりと首に指を滑らせると、まるで頸動脈の場所を探るかのように首筋のあたりを撫で上げた。
普通なら、人間の指に比べれば首のほうが体温が高いに決まっている。なのに首に感じた幸村の熱は、どうしてか温かい。
「佐助」
「何」
「答えが聞きたいか」
何を当たり前なことを。
そう思って口を開こうとすれば、何故か幸村の表情が今にも泣き出しそうなほどに歪んでいて、思わず答えを引っ込めた。そうやって佐助が言葉に詰まっている僅かな間に、幸村が先を続ける。
「答えが聞きたければ、追って来ればいいのだ」
「は?」
一体どうやって。
あんな風に一瞬で消えてしまう相手を追う術など、佐助には無い。
「追って来れば、良い」
「や、でもどうやっ…て………」
訳が分からず問い掛ければ、途中で佐助のその声が途中不恰好に途切れた。
理由は、佐助の首に添えられていた指に不意に力が込められたから。
言葉を阻害するほどの力ではなけれど、僅かに込められた指への力。気道が少しだけ圧迫されて、その分普段は静かな己の鼓動の音が、急に大きく聞こえた。
一般的にこれを、首を絞めるというのでは無いのか。
そしてそのことに気付いたと同時に“追う”という言葉の内に含まれた本当の意味を、そして幸村の表情の意味を理解した。
「…旦那、」
首に掛かっていた指が離れて、呼吸がほんの少し楽になって。そのせいで漏れ出た吐息と一緒に、滑り落ちるように名を呼んだ。
しかしその佐助の声を遮るようにして、幸村の鋭い声が響く。
「俺はっ…、今でもお前に生きて欲しいと思っている」
さっきからずっと変わらない泣き出しそうな顔はそのままで、けれど涙はこぼさない。
その馬鹿みたいに愛しい矜持。
「上手く言えぬが、そう。世間一般で言う…幸せな生を送ってくれれば良いと、俺は今でも思っている」
主という枷が無くなったのだから、こんな命のやり取りとはかけ離れた穏やかな暮らしを送り、人並みの幸せを手にして、そう、家庭を持っても良い。幸せになってほしい。
幸村は捲くし立てるようにそう続けてくる。
さっきまでの戦闘ではほとんど乱さなかった息を、今は全力疾走の後みたいに乱して。落ち着かない視線を彷徨わせて、まるで懺悔のように。
けれど途中で言葉が尽きたのか、幸村は喉が詰まったように小さく呻いた。そしてがくりと項垂れ、泣くのを堪えるかのように佐助の肩に目元を押し付けてくる。
しかしそこに涙は無い。
「佐助、俺は今から最低なことを言おうとしておる…」
「そう?」
「腹が立ったら殴って良いからな」
「まぁ、考えとく」
嫌だと言ったらややこしくなりそうなので、あたりさわりの無い答えを返しておけば、幸村は佐助のその飄々とした言葉に落ち着いたのか、強張っていた肩から少しだけ力を抜いたようだった。
そして一度だけ深く息を吸い、ゆるゆると細い息を吐いた。
「少しでも嫌なら聞かなくて良いぞ」
「うん」
「じゃあ…」
そこでさっと顔を上げた幸村は、それはもう強い目で、こちらを射殺しそうなほどの目で睨んできた。
そして口では、本当の意味で殺しの言葉を口にする。
「お前がもし、望むなら」
世間一般で言われる幸せというものよりも、穏やかな生活よりも、何よりも。
「さっきの答えを聞きたいと思ったのなら」
俺に好きだと言わせたければ。
「その命を、断て」
追って来い、佐助。
死の先には俺がいる。
ああ、それはなんて殺し文句だろうか。
「旦那」
「う」
呼べば、びくりと幸村の肩が震えた。
「…あんたを追いかけるのは、骨が折れるんだよ」
「そう、か」
「いっつもいっつも俺の制止を振り切って突っ走って行ってさぁ」
「…すまん」
「今だって、どんだけ望もうが手の届かないほどめちゃくちゃ遠いところに行っちまってるし」
「う…申し訳ない」
「ほんと、お馬鹿さんだよな」
「うぅ…」
耳に痛いであろう言葉を次々と浴びて、だんだん幸村が小さくなってきてしまっている。
佐助はそんな幸村を見てにやりと笑うと、幸村の肩へと手をかけた。
「なぁ旦那」
「?」
呼びかけに答えて、項垂れていた顔を上げた幸村に。
「……、ん」
ひょいと一つ口付けて。
「………、……?」
「………。」
見事な程に固まっている幸村を眺めること一呼吸。
自力で硬直から抜け出した幸村は、飛び上がるように叫び出した。
「なっ?!え?!ちょっ…おま!!!」
「はは、面白え顔」
「わわわわ笑ってる場合か!!」
真っ赤になって後ずさりしつつ、口を手で覆っている幸村がそう叫んだ。いつもの煩いほどの声は、口元を覆っている手のお陰でそれほどのものではない。
佐助はそんな必死な幸村の様子を気にすることなく、それはもう意地悪く笑って言ってやった。
「そっちの佐助に伝えてよ。“ごちそうさま”ってな」
「…っ!!!!」
佐助の声を受けて一瞬目を見開いた幸村は、口を覆っていた手を振り上げて佐助へと飛びかかってきた。
「わっ、俺様が怪我人っての忘れてない?!」
「うううう煩いっ!」
振り下ろされた拳を何とか受けとめつつ、今度は力でねじ伏せられそうになるのに必死で抵抗する。
「良いでしょ別にこんくらいっ。今から俺様三途の川に直行だぜ?!」
「それとこれとは別だぁぁ!!」
「ご褒美くらいちょーだいよっ!」
「ご褒美って何をおま…………っ」
その瞬間またも幸村は固まった。
ぎりぎりと拮抗していた力の鬩ぎ合いが止まり、お互い均衡を崩しかける。それを佐助は踏みとどまって転ぶのを回避し、ついでに頭が真っ白なせいで転びそうになっているの幸村の方も抱きとめておいた。
片腕に引っ掛かるようにして硬直している幸村は、己の体勢など頭からすっ飛んでしまっているのか、茫然とした表情でこちらを見上げている。
「佐助」
「はいよ」
「追いかけてくるのか」
「そりゃね」
やっぱり気付いて無かったのかと、ある意味幸村らしい一面を見れて、佐助は苦笑した。少々の意地悪はしたが、たったあれくらいでこんなにも取り乱すとは計算外だった。
「未練などは、無いのか」
「そんなもんがあったら忍なんてやってないよ」
「だが、いや。…そうか」
数度口ごもった幸村は、突然力が抜けたように地面へと座り込んだ。
釣られて佐助も膝をつく。
「そうか…、追ってくるのか」
それが幸村にとって嬉しいことなのか、それとも悲しいことなのか。泣き笑いのような表情で言われた言葉はどの感情を含んでいるのかが分からない。
けれど、切なげに響いたその声は誰かに聞かせるためのではなく、幸村が自分自身に語り掛けている言葉だということは分かる。
だから佐助は答えを返さずに、幸村のすぐ傍に一緒に座り込んだ。さっきのこともあって、触れれば殴られるかもしれないとも思ったけれど、あとどれだけ時間が残されているのか分らないのだからと開き直ってぴたりと身を寄せた。
けれど。
「…ぁ」
その声が漏れたのは、佐助の口からだった。
だって、感触がないのだ。
腕も、足も、肩も、頬も。
手を伸ばして触れても、腕を掴んでも。
「旦那」
「…っそろそろのようだな」
触れる感触はないのに、幸村の声だけはしっかりと響く。
「旦那」
「会えて良かった」
「旦那」
「未来で待ってる」
掴んだ腕を引き寄せようとすれば、幸村はそう言って笑った。
そしてその表情のまま顔を近づけてくると、額へと何かが押しつけられたような気がした。
けれど感触が無い。
感触がないのに、額がじわりと温かいような気がするのは何故だろうか。
「旦那」
こんなのじゃ足りない。
そう言おうとしたら、幸村が先に口を開いた。
「餞別だ」
どうせなら口にしてくれればいいのに。
そう思って、言葉では返さず行動で返してやろうと身を乗り出せば。
もう、そこには誰もいなかった。
目には、柔らかく笑んだ幸村の表情がまだ残っている。
けれど、もう何もない。
誰もいない。
「…旦那」
つい今まで幸村の腕を掴んでいた片手を己の方に引き寄せて、感触も体温も残らぬそれを、ぎゅうと反対の手で抱きしめた。
片膝を抱えて顔を伏せれば、額に残った温かな熱が疼く。
その熱が逃げないように、佐助は片手で己の顔ごと額を覆い隠した。
その手を濡らした液体の名前など、もうどうでも良かった。
「あーあ、…消えちまった」
誰もいない空間で一人呟けば、返ってきたのは炎がごうと鳴る音だった。
その音の方向へ視線を移せば、壁に立て掛けられてある一対の槍が穂先に炎を灯している。言うまでもなく、幸村の槍だ。
「炎凰」
その名を呼べば、穂先に灯っていた炎が勢いを増し、その炎の両翼をこちらまで伸ばしてきた。
闇の帳が落ちていたはずの場所が、目を焼く程に眩しく色を変える。
「やっぱり、どこ探してもいないよな…」
ついさっきまで確かにそこに幸村が居た場所へ手を伸ばしても、炎が踊っているだけで何も触れはしない。
空を掴んだ拳が虚しく残るだけで、そこにはもう何も無かった。
「旦那」
呼んでも、答えてくれる声はどこにもない。
「本当なら、…これが普通なんだよな」
そう。
真田幸村はもう死んでいて、今のこの状態が本来のあるべき姿なのだ。
主を失った忍と、使い手を欠いた槍が一対。
「よく、お前も俺様もこんなのに耐えたよな…」
今から思い返せば、よくここまで生きていたものだと思う。
いつ死んでもおかしくないような生活を平気で続けて、でも死なないように気を付けて。
そんな矛盾を抱えた日々を。いったいどれだけ。
「旦那」
記憶をなぞれば、無意識に口がそう呟いた。
未だにそこかしこにあの人の気配が残っているのだ。意識しなくとも、その一つ一つを目が、耳が、感覚の全てが追いかけてしまう。
それで得られるものといえば、ここにあの人がいたという痕跡だけ。
それは、今はもうここにはいないと思い知ることでもある。
「やっぱり、何度経験しても慣れねぇな…」
今回ので三度目だった。
目の前で幸村が消えるのを見たのは。
どれもこれも、体の中から引き裂かれるような心地で、残るものは絶望しかなかった。
一度経験すればもうたくさんだといつも思うのに、これで三度。
我ながら信じられない。
そして、経験するたびに思うのが。
「会いてぇな」
ぽつりと呟けば、その声にこたえるように炎の勢いが増した。
もう佐助からは周囲の景色が見えないほどに炎の勢いが強く、今も熱くて熱くて堪らない。
「会いてぇよ」
噛みしめるように再度そう呟いて上を見上げれば、夜空の色さえ分からない程に炎の勢いが強い。
上も右も左も、全部炎の色。
紅蓮。
「初めてお前に焼かれることを喜べそうだよ」
辺りを包む炎の主、炎凰に一言そう告げると、ぐらりとその体が傾いだ。
碌な手当てもせず血を流し続けていれば、体が限界を迎えるに決まっている。
「多分旦那、気づいてたんだろうなぁ」
佐助が返り血を浴びたのは、自らの出血を隠すためだったのだと。
「ほんと…変なとこで、……聡い」
どうにも力の入りにくい体を地面に横たえつつ、意識せずとも落ちてくる瞼に抗わぬままに閉じると、そこに映る色もまた紅蓮だった。
本来なら眠気とはほど遠い色彩だろうに、強烈な睡魔が襲いかかってきた。
そして閉じた視界の代わりに、音で炎を感じとる。
耳元で、ひと際大きくごうとなった炎凰の炎。
その音すら心地よいと感じて。
そこでぶつりと佐助の記憶は途切れた。
意識の続く限りの、一面の紅蓮。そして炎。
闇に生きた忍の最期としては、なかなかに幸せなものだったのではないだろうか。
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次でラストです。
(09.08.27)