丁度陽が昇るか否かの頃合い。
幸村と佐助は断崖絶壁の小さな足場にのんびりと突っ立っていた。
「ふむ、確かにここなら見つからぬな」
「ま、普通はこんなとこに侵入者が隠れてるなんて思わないよな」
「うむ、流石は佐助。忍の中の忍だな」
「へっへー、やっぱり?なんつって」
実に呑気な会話を繰り広げているが、足場としてはかなり最悪な場所である。
一歩間違えれば海へと真っ逆様。狭い足場は人間が二人立てているだけでも奇跡と言っていいほどの広さしかない上、長年海風に晒されてきたせいで罅が入っている。そのため少しでも衝撃を加えれば直ぐ様崩れてしまいそうだった。
そしてそれよりもまずこの場所。敵に見つかる見つからないとかの前に、人間が降り立てるような場所では無い。激しく打ち寄せる波が下からの侵入者を阻み、そびえ立つ断崖絶壁は近づく者を突き刺すかのように牙をむいている。そんな場所に降り立てる生き物など、鳥や虫くらいしかいないだろう。地を行く生き物にはまず近づくことすら不可能な場所だからだ。
しかし生憎だが、佐助には翼があった。
闇に溶けるような色合いの翼を広げ、武装した人間を二人も抱えて空を舞ったのは佐助の忍鳥。忍に門など無用とはよく言うが、それに加えて世間一般的に不可能とされていることでも結構可能に出来たりもするのだ。
「そいじゃ、無事潜入もうまくいったことだし…」
「うむ、そろそろ行くか」
佐助の言葉を引き継いで幸村がそう告げた。それと同時に佐助が幸村の腰を攫う。
罅の入った足場を蹴って佐助が上へと跳躍すれば、その衝撃でさっきまで二人が立っていたところがガラリと崩れた。しかしそれを気にした様子もなく足場を次々と変え上へと昇ってゆく。
周囲から吹きつける海風は本来なら動きを阻害するはずのものだろうに、佐助はそれをものともせず、寧ろその風の力を借りて体を上へと押し上げてゆく。
何か術でも使っているのだろうかと幸村は思案したが、その答えを見つける前に城壁の中へと辿り着いてしまった。
二人して危なげなく地面へと着地し、そのままぐるりと周囲を見回すと、開けたその場所は何かの庭園のように見えた。佐助の調べによれば、この時間帯はこの場所を見張りが通ることはないらしい。
幸村は人影がないことを確認すると、背に括りつけた二槍を解き、手に持ち替えた。この槍は穂先も柄も目立ち過ぎるほど目立つので、全体に布を巻いてある。布越しの柄の感触は慣れないものだが、それでも掴んだ部分からふつふつと闘志がわき上がってくるのが分かる。
「行くぞ」
込み上げてきた思いのままにそうやって手の中の槍“炎凰”へと語りかけると、すかさず佐助が横やりを入れてきた。
「こらこら、もうちょい落ち付けって。そういう気合いが入った感じのは後で!」
「む…」
「只でさえあんたの気配は強烈なんだから、それに加えて炎凰なんかと呼応されちまうと俺様でも隠しきれねぇ」
「わ、分かった」
慌てて幸村が心を鎮めると、佐助は苦笑しつつ幸村を先へと促してきた。
実は今現在二人とも、いつのも慣れた戦装束の上から黒の長衣を羽織っている。幸村がはじめに身に付けていたあの学ランに似せてつくられた衣だ。
くすんだ金のボタンは目立つので取り付けられていないが、詰襟の首元といい、西洋の衣特有の締まった袖といいほぼ学ランのように見える。着脱をスムーズに行うためにマント状になっているので袖は通してはいないが、下に着ている戦装束よりも目立つことはないだろう。なんて言ったって、この衣はザビー教の信者の装束にも見えるのだから。
「何度も言ってるけど、誰に会ったとしてもあんたは絶対喋らないでくれよ…?」
「分かっておる」
佐助はどうやらそれが相当心配のようで、ここへ着くまでの間に何度も同じことを言ってきた。幸村だって自分が隠密行動に不向きなことと、腹芸や咄嗟の誤魔化しなどが苦手なことくらい分かっている。
「ほら、行くのだろう。俺は黙ってついて行くからさっさと先導しろ」
「はいはいっと、それじゃこっちね」
身軽な動きで前を行った佐助を幸村も足音を極力消して追いかけると、庭園から上がったすぐの廊下は見たこともないような形をしていた。
その上色彩までもかなり奇抜なものだ。こんな風に逼迫した状況でさえなければ思う存分眺めて楽しんだり出来ただろうが、今はそんな場合では無い。
目がいくものと言えば人影の有無だとか、身を隠すことが出来そうな物影だとか。
ありがたいことに今は既に陽が昇っているため、佐助と違って夜目がそれほど利かない幸村でも辺りを十分見渡すことができる。それに視力は良い方だ。
「旦那、止まって」
佐助が小さな声で幸村へそう告げてきた。
幸村は最後まで聞き切る前に足を止め、すかさず壁に身を寄せる。
「足音からして二人…。待ってて、逸らしてくる」
こちらを見ないで言われた言葉に首肯で答え、幸村はその場で待機した。
幸村達はザビー教の居城内に潜入しているが、元親は今正面に船を構えているはずだ。この城からなら海を埋め尽くした長曾我部軍の船団の姿が嫌という程良く見えるだろう。そのため丁度その裏手に当たるこの場所の警備はかなり手薄になっている。幸村が見たこともないような巨大な砲台をのせた元親の船が真正面に構えているのだから、そちらを心配するのは当たり前だ。敵の目がそっちへ向くのは幸村達にとってありがたいので、思う存分こちらの仕事を果たそうと思っている。
そうやって幸村が周囲を警戒しつつも待機していると、どうにかして敵を黙らせてきたのか、佐助がひょいと幸村が身を隠す物陰へと顔をのぞかせた。
「それじゃ行こうか」
「殺したのか?」
「まさか。適当に言いくるめてあっちに行って貰っただけだよ」
殺したら死体隠さなきゃならないだろ、と困ったように笑んだ佐助はそれだけ言って身を翻した。その背を追って幸村も歩き出す。
先をゆく佐助は足音一つ立てはしない。歩くというよりも走ると表してもいいほどのスピードで足を動かしているのに、足音どころか絹ずれの音までしないのだ。
それはもう目を離せば感覚が追い切れず、見失ってしまいそうになるほどに。
しかし黙ってついていくと宣言した以上、声をかける訳にはいかない。幸村は無言で佐助をしっかり見据えると、見失うものかと足を速めた。
「ん、その角曲がる前に外に出て屋根」
指で示されたその地点を確認すると、そこまで真っ直ぐ進み、佐助が身軽な動きで窓を飛び越え外へと身を躍らせた。それを同じく窓を飛び越えて追いかける。窓の外の地面へと着地すると、さっきよりも大分奥まで来たので外の景色もかなり様相が変わっていた。
緑溢れる庭などではなく、ずらりと並んだ奇抜な色の石畳。この時代には見慣れぬ煉瓦だろうと、幸村は当たりを付ける。その丁度真ん中あたりにかなりの大きさの彫像がでんと居座っていた。近くで確認するまでもなく、あれはザビーの彫像なのだろう。
思わず幸村が呆れた目でその像を眺めていると、いきなり腰を攫われ、幸村諸共佐助が上へと跳躍した。
「……っ」
こうなることは予想出来ていたはずなのに、とっさのことで息が詰まる。
「悪い、旦那」
「いや、平気だ」
短くやりとりを終えると、今度はさっきよりも随分速度を上げて先へと進んだ。屋根の上は人が通るような場所では無い為足場としては駆けるに相応しくはない。幸村も佐助のように足音を消せればいいのだけれど、なるべく小さく抑えるので精いっぱいだ。しかも身を低くして駆けねばならないので、余計に難しい。
しかし建物の中よりも人の目を気にする必要がないため、その点に関しては随分楽だ。
「旦那、ちょっと壁寄って」
言われた言葉に声は返さず、体を壁に寄せることで答えとした。どうにもそろそろ目的の場所が近いようで、佐助はさっきよりも神経を鋭く研ぎ澄ませているようだった。まるで360度見えているかのように周囲を把握し、僅かな視界にさえこちらの姿が映らないように気を配っているのだ。
幸村が感じる限りでは、距離から考えて壁越しに数人と、足元の屋根の下に数人。どれだけ感覚を研ぎ澄まそうと、幸村にはそこまでしか分からない。しかし佐助は今進んでいる屋根の向かい、その建物の中の人間にこちらの姿が見えないように気を配っているのだ。
やはり佐助は凄い。
己の感覚で捉えきれないそれらを佐助にまかせつつ、幸村は言われた通り壁際ぎりぎりを静かに駆けていると、前を行く佐助が動きを止め、幸村の方へ振り向いた。
「旦那、見えたぜ」
抑えたその声とともに親指で前を示されて、幸村は佐助の体越しに前を窺い見た。
するとそこには、少し変わった形の建物が並んでいた。
「………。」
無言でそれらを一通り目に収めると、頭の中に無理やり詰め込んできた情報と照合する。
「手前が武器庫、そんで後のが火薬庫な」
まるで佐助は幸村の頭の中が見えているかのように、ちょうど今幸村が今思い浮かべていたことを口にして見せた。
「…狙いは火薬庫の方だな」
「一応武器庫の方にもいくつか仕掛けといたし、上手くいったら引火するでしょ」
「わかった」
いつのまにそんなことをやっていたのかという問いは封じ込めて、幸村はまず纏っていた学ランそっくりのマントを脱ぎ棄てた。万が一見つかった時に、ザビー教徒に紛れるための衣だったが、ここまで来てしまえばもう必要はない。
人目を惹くのが目的でもあるし、これから行う撹乱では佐助が隠行をやってくれる。
幸村の役目は、外へ布陣している元親へ強烈な合図を送ること。
「では、行くか」
「お供しますよ」
当然のように幸村へとそう告げてきた佐助も、既にいつもの忍装束姿となっていた。
腰に携えた二振りの大手裏剣も健在だ。一瞬陽光を照り返した手裏剣の刃の煌きを目に受け、幸村も愛槍を包んでいた布を一息に取り払った。
目に入ったのは、朱塗りの柄と、白銀の刃。目に鮮やかなその二つの色彩が陽の光を受けて明るく照り返す。
そして幸村がぎゅうと手に力を込めれば、白刃の部分には空気すら焼きつくす勢いで炎が踊った。
「炎凰、行くぞ」
声に応えて手の中の炎がごうと鳴った。
「佐助」
「はいよ」
「俺の背中は任せたからなっ」
「はいはい任されましたっと!」
佐助の返答を聞き終わると同時に足に力を込めると、今度は足音も気配も人の目も、何もかも全部気にすることなく、己の全てを漲らせて駆けだした。
着地の場所は敵の目の前。
まずはこの場所へ穿つのだ。真田幸村はここにいるという証を。
屋根の縁を蹴り去って空へと身を躍らせると、風がこの身を包んでいった。耳を通り過ぎていくのはごうごうと鳴る風の音と、一瞬の沈黙の後に響いた多数の人間の叫び声。
その全てを掻き消すかのように、腹の底から声を絞り出した。

「我が名は真田源二郎幸村!!この炎、しかと受けてみせよ!!」

さあ、戦の始まりだ。













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あれ、戦の筈が…
(09.08.10)