真田幸村にはいつも驚かされっぱなしだが、今回のは特に驚かされた。
あんな風に一瞬で掻き消えて。
何の痕跡も残さずに、まるで今まで夢でも見ていたのかと錯覚しそうなほどに、あれは完全な消失だった。
可能性としては、これは佐平次の仕業でまた何か忍術でも使ったのだろうと、そんな風に笑って済ませられるような冗談ということも考えはしたけれど、元親が苦笑いしながら目を向けた佐平次の様子はそんな雰囲気じゃ無かった。
何もかもを諦めたような表情で、今まさに幸村が掻き消えた場所、ついその一瞬前まで存在していた場所をただじいと見つめて立っている、その姿。
突然消えた幸村に驚いて騒然となる周囲の音すら置き去りにして、佐平次は…否。猿飛佐助はただ茫然と立ち竦んでいた。
もしあのまま幸村が戻って来なければ、あの忍は一体どうしていたのだろうと。そんな途方もない考えが浮かんだりもしたけれど、そんなことを考えられるのは全部幸村が戻ってきてくれたからだ。
ただじっと動かず立ち竦むあの忍に声を掛けられる者は誰一人としておらず、元親ですら何も言うことが出来ずに、ただ騒ぎを収めるために動くしかなかったあの状況。
そんなどうしようもないほどに張り詰めていた空気を動かしたのは、やはりあの幸村だった。
消えた時と同じように突然ぱっと姿を現して、実に自然な仕草であの忍に抱きついて。
周囲には聞こえないような声で忍といくつか言葉を交わす、つい今さっきまで確かに消えていたはずの幸村。
そしてどうしようもないような表情で、僅かに笑みをこぼした佐平次の表情。
その瞬間まで元親は、幸村が何度か口にしていた“あっち”とやらを信じていなかった。しかしこれを機に完全に信じることにした。
安定した二人に見えていたはずなのに、こんなにも突然に崩れてしまうような二人の関係。
“あっち”の存在を肯定した瞬間に、今があまりにも脆く儚いものだと気づかされてしまった。
あんなにも穏やかに笑い合っていた二人なのに、実のところは本当にぎりぎりのところで傍にいたのだ。
しかしそれが分かっても、元親に出来ることは何も無かった。どんな問題があるにせよ、脆く危うい現状だったとしても、あとはあの二人だけで結論を出すのだろう。
ならば、元親は邪魔をしない程度にその辺でどっしりと構えていれば良いのだ。
出来うる限りあの二人を無情が引き裂いてしまわないことを祈りながら。
それよりもまず第一に、今現在元親は戦のことで手一杯なのだ。
…そんなこんなで、元親は今地下牢にいる。
「っつーわけで、めちゃくちゃ驚いたぜ」
「馬鹿を言うな。…どうせ貴様のことだから飲み過ぎて幻覚でも見たのではないのか」
「そんなに疑うんならよぉ、お前も来りゃあ良いって言ったじゃねぇか。もう俺はこの言葉を嫌になるほど繰り返したぜ?“鍵は空いてる”“部屋は用意させてある”ってな」
「貴様の方こそ何度言ったら分かるこの鳥頭。戦を前に敵の将を自軍の中で野放しにする馬鹿がどこにいる?…ああそう言えば今現在我の目の前にいるな、誠に遺憾だが」
「別にお前が九州とか中国に帰りさえしなけりゃ何処をうろちょろしようがうちの連中は気にも留めねぇよ。むしろお前白い上に細っこいんだからよ、もっと外に出て運動したほうがいいんじゃないのか?」
「余計な御世話だ…っ」
視線だけで見る者全てを射殺せそうなほどの迫力で元親を睨みつけると、元就はふいっと背を向けて牢の奥へと引っ込んでしまった。
長いこと元就がこの地下牢の中で過ごしているせいか、もはやここは牢というよりはちゃんとした部屋のように作り変えられてしまっている。普通は岩がむき出しになっているはずの床にはいつの間にか畳が引かれているし、奥の方にはどこから持ってきたのか衝立まで置いてある。
僅かな明かりとりの窓は綺麗に掃除されて以前よりも外からの光がたくさん入るようになっているし、寝具一式まできちんと揃っている。一体誰がこんなに快適な空間をこの場所に作ってしまったのだろうか。
ここがもっと居心地が悪い場所なら、元就も意固地にならずに外へと出てきたかも知れないのに。
「下手すりゃ俺の部屋より部屋らしいかも…」
「………。」
小さく呟いた元親の言葉は、こんな閉鎖空間の中ではかなり大きく響き、元就の耳にも届いてしまったようだ。
暗くて見えにくいが、奥の方で頭を押さえて溜息をついているのが何となく見える。
「あー、まぁ…何だ。戦が終わったら中国に戻してやっから」
場を誤魔化すように元親はそんなことを言った。
今元就を中国に返せないのは、毛利の一族が治める中国の微妙な力関係にある。
あそこは元親が考えるだけでも頭が痛くなってくる程にややこしいのだ。はっきり言って、この頭の切れる元就にしか管理できないとすら元親は思っている。だから元親は中国は元就に丸投げしてしまいたいのだ。
そこで更に絡んでくるのが九州の問題。
元就があんな風に、そりゃあもう笑えるほどに劇的な変化を遂げてきたあの九州のザビー教にはかなり根深い因縁があるだろう。それは中国だけでなく四国も同じだ。
しかしだからと言って手を組んで九州を攻めれば、今度は四国と中国で、どっちが九州の覇権を手に入れるかでもめるだろう。
色々恩義のある元親の方に決定権があるのは間違いないが、元親は九州の統治もあの鬼島津へ丸投げしようと思っているのだ。そんなことをすれば毛利が黙っているはずがない。いくら元親が丸投げしても、投げたものを毛利が掻っ攫ってゆくくらいはするだろう。
それを防ぐために、今のこの状態になっているのだ。
中国が勝手に出兵してしまわないために、旗頭である元就を手元に留めておく。そうすれば兵力の未だに整わない毛利軍が無茶して攻撃を仕掛けることもないし、先日のザビー教の一件で私怨云々と言いだすのを言いくるめることも出来る。
だからこの戦さえ何とかなれば、元就を中国へ返してやれるのだ。
客観的に見れば特に悪いことをしている訳ではないが、元親の都合で元就をこの場へ留めているのだから、せめて居心地のいい場所くらいは用意するくらいなんでもないのに。それが元親の本音だ。
しかし元就は見た目に似合わぬ頑固さを発揮してこんな地下牢にずっと留まっている。
「なぁ、元就」
そう言えばこの男を名前で呼ぶようになったのはいつからだっただろうか。初めは確かに“毛利”と呼んでいたはずなのに、いつの間にかこんな風に…聞きようによっては親しげな呼称に随分慣れた。
「元就」
確かめるように再度口にすれば、元就が苛立ったようにこちらへ振り向いた。
「何度も呼ばなくても聞こえている…っ。一体何なのだ、用件をさっさと言えっ」
「いや、用件っつーか。…酒?」
元親だってこんな出陣前の時間ぎりぎりまで用件を溜めこんでおくほど怠惰な人間ではない。真面目な用件など無くとも、酒を持ってのんびり言葉を交わすくらいのことはやっても良いと思うのだ。
「夜が明けたら俺は出陣だしな、まぁ水杯にゃあちょいとキツイだろうが…」
そう言って酒瓶を振ると、元就が奥からゆっくりと近づいてきた。
以前も思ったが、意外とこの男は酒好きらしい。
が、しかし。
「水杯…だと?」
「え…おお、まぁ中身は水じゃなくて本物の酒だが」
どうにも様子のおかしい元就をいぶかしみつつも、元親が酒瓶を示すように再度振ると元就は一瞬激昂したように声を荒げた。
「貴様はどこまでっ…!!」
しかし元就はそこで言葉を切ると、無理やり言葉を押し込めるようにぐっと堪え、ゆるゆると息を吐きつつまるで呪詛でも唱えるように低い声で笑った。
「も、元就…?!」
焦る元親を余所に、元就は何かをふっ切ったようにくつくつと笑い続ける。そして宣戦布告でも叩きつけるような態度で元親へと向きなおった。
「ふふ…、まあ良い。貴様のその顔を二度と見ないで済むというのなら清々する。水杯の代わりというなら付き合ってやろうではないか」
さっきの低い笑い声もかなり怖かったが、元就のこの射殺すような目の方も同じくらい怖い。
元親は元就のその態度の変化の意味が分からず困惑していたが、元就の方は彼らしくもなく粗野な仕草で盃を元親からひったくった。
理由は分からないが、酷く苛立っているように見えるのは気のせいだろうか。
「おい、お前なんか怒って…」
「煩い、黙れ、鳥頭」
やっぱり怒っているじゃないか。
そう思いはしたけれど元親は賢明にも口には出さず、手に持っていた酒瓶を傾け、当然のように盃を構えている元就の杯へとその甘露を注いでやった。
初めて酒を持ってきた時から何度かこうやって酒を酌み交わしてはいるけれど、そのどれもがこの無骨な柵越しの酒盛りとなっている。
動きを阻害する木製の柵をよけて手を通し、そこから酒を注ぐという面倒な仕草にも不服ながら慣れてしまった。しかし慣れたといってもやはり対面して酒を飲むのにはこの柵はかなり邪魔だ。何て言ったって相手の顔がよく見えない。
「柵、そういう意味じゃやっぱり邪魔か」
ぼそりと呟けば、元就は無言で酒瓶を手にし、今度は元親の杯へと酒を注いでくる。
何というかそういう仕草も無駄に様になっていて、何故こんな男と己がこうやって酒を酌み交わしているのかと改めて不思議に思えてくる。こう言っては何だが、元親と元就は明らかに相容れない性格をしているだろうから。
「元親」
「え、うおぁっえ?何だ?!」
突然名前を呼ばれてうろたえれば、盃を構えた元就がまっすぐこちらを見据えていた。
「貴様も構えろ」
「お、おお」
言われるがままに元親も同じく盃を構えると、元就は手にしていた盃を少しだけあげて見せた。
「…貴様の流儀に倣ってやる」
「?」
「貴様はいつも無駄に乾杯をしたがる」
「いや、無駄って…」
元就の言葉に言い返そうとすれば、それを遮るように元就が声を通した。
「今回だけだ」
「は?」
「今回だけ」
「だから何…、」
「長曾我部軍の勝利を祈って」
元就は静かな、しかし確かに通る声でそう一言告げると、元親が呆けているのをいいことに一口で盃を空けた。そして空になったその盃を床へとコトンと音を立てて置くと、そのままふいと背を向けて奥へと引っ込んでしまった。そんなに広くはない空間だというのに、衝立があるせいで元就の姿は外からでは確認できない。
「おい、元就」
「煩い、去ね」
しかも取りつく島もない。
「あーその、何だ…」
とりあえず声を掛けてみたものの何を言えばいいか分からず、その上さっき言われた言葉も実は夢だったりするのではないかと半信半疑だ。
いつもいつも口を開けば殺伐とした単語ばかり飛び出てくる元就の口からあんな言葉が出てくるとは。
やっぱり夢じゃないかと思ってしまう。
「ほとんど飲んでねぇのにやっぱ俺酔ってんのか…?」
一番可能性の高い現実を口にしてみれば、奥から扇が飛んできた。どこでこんなものを手に入れたのかとか言う前に、頭に直撃して痛い。
痛いということはやっぱり夢じゃない。
「……痛ぇ」
再度額のその痛みを確認すると、元親は手元の盃を満たしているその酒を見据えた。扇を投げつけられても根性で手から離さなかった酒だ。
それを元就の居る方向へそっと掲げて笑みを浮かべると、言葉は発すること無くその中身を一息に干した。
喉を酒精が焼いて通り過ぎてゆく。胃の内に火が灯ったかようにカッと熱が湧き上がり、ぼんやりと霞がかかっていた頭が綺麗に晴れてゆく。
本来ならば人を酔わすはずのそれが、何故かこの身をしゃんと引き締めていった。
「元就」
「煩い、とっとと去ね」
名を呼べば相変わらずの答えが返ってくる。
本当にこれだけ聞いていればさっきのあの言葉が聞き間違いだったのかと思えてくるのも無理はない。
しかしさっきのあれが現実だと今は分かっている。
元親はくつくつと笑いながら、言われた通りに元就へ背を向けると、その場から立ち去る前に元就へと一つ言葉を残した。
「それじゃ、俺が帰ってきたら今度はうちの勝利を祝って酒でも飲もうや」
あとから小さく響いてきた、元就の「一人でやっていろ」という言葉は、とりあえず耳に届かなかったことにしようと一人小さく嘯いて。
19へ戻る ・ 21へ進む
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
次からやっと戦。
(09.07.31)