自分にはまだやるべきことがある。
あっちの世界で、佐助と。





















































またどうして自分はいつもこんなタイミングで。
どうにかしてもう一度戻れないかと心が足掻くそんな思いは、ふつりと切り替わった目の前の光景を目にした瞬間、時間ごと止まってしまったかのように停止してしまった。
「…佐助」
ベットの上でひっそりと横たわるその姿。
開け放たれたカーテンはそのままに、外から差す街灯の光を受けて髪の色が際立っている。
恰好は学校から帰ってきて上着を脱いだだけ、とでも言うようにベットの下に学ランとシャツがまとめて脱ぎ捨ててあった。いつもならそういったことに几帳面な佐助はちゃんとハンガーに掛けて仕舞っておくのに。
そんな考えが浮かぶと同時に、ここが佐助の部屋だと分かる。
あいかわらず物の少ない部屋。
シンプルなベットと、モノトーンの四角い小さなテーブルが一つ。
必要最低限の衣服が詰まったクローゼットが壁に備え付けられてあって、床には通学用のカバンが無造作に転がっている。しかもその数が二つ。その内の片方は、見慣れた汚れと皺の具合から見て幸村の物だろう。
あの時佐助が回収してくれたらしい。
あんなタイミングで姿を消してしまったのだから、佐助は一体どれだけ驚いただろうか。
「佐助」
思わず一歩踏み出せば、足についていた砂が床と擦れてざりりと不格好な音を立てた。
これは佐助に怒られる、そう思ったけれど足は止まらない。
そう言えば自分が姿を消してからどれくらいの時間が経ったのだろう。あっちと流れる時間が同じなら、もう一週間近くこの佐助と会っていないことになる。
そんな風に会ってなかった時間が思ったよりずっと長いことを実感して、胸が苦しくなった。
「なぁ、佐助。…向こうで過去のお前に会ったぞ」
寝入ったままぴくりとも動かない佐助に近づいて、抑えた声で語りかける。
眠りがとても深いのか、佐助は一向に目を覚ます気配はない。
「どうにも俺はいかんな、お前に泣かれてしまったぞ」
幸村はベットの縁にそっと腰かけると、流れてもいない涙を拭うかのように佐助の頬へそっと指を滑らせた。
当たり前だが指を濡らすそれの感触はない。けれど、触れた肌がいつも以上に冷たくて驚いた。
「…馬鹿者。こんな季節にTシャツ一枚で寝る奴があるか」
只でさえ寒がりな佐助が毛布一枚かけずにこんな薄着で寝入っていては冷えるに決まっている。慌てて周囲を探れば、ベットの足元部分に毛布が無造作に丸められていた。それを腕を伸ばして引っ張り上げ、表裏を無視して佐助へとしっかり被せる。
これではいつもと立場が逆だ。佐助はまるで童子に言い聞かせるかのようにいつも「あんた寝相悪いんだから、腹出して寝るんじゃないよ」とか言って幸村へ布団を被せてくるのだ。幸村としてはいつまでたっても子供扱いするな、と反論してやりたいが口ではどうやっても敵わない。最近ではもう反論すら諦めていたが、この状況では幸村よりも佐助のほうがよほど心配だ。
「…くそ、こんなに体を冷やして」
頬から手を滑らして首、肩、腕、そして手に触れて、指を絡めてぎゅっと握りしめる。
どこもかしこも体温が抜け落ちたように冷たくて、死んでいるのではと錯覚してしまいそうになる。
「息は…」
胸が上下するのを目で確認しつつ、顔を近づけて呼吸を確認した。肩から流れた髪がシーツに落ちて静かに音をたて、それに絡まるように長い赤鉢巻がぱらりと広がった。
「ちゃんと、息はしている…」
頬を掠めた佐助の寝息は酷くゆっくりで、深く寝入っていることが窺える。近づけていた顔を少し離してその寝顔を眺めれば、穏やかと言うよりはどこか少し苦しそうで、夢でも見ているのか瞼の下で目が時折動いているように思えた。
その目に己を映してほしいと思っても、残念ながらその瞼が開く様子はない。
「ふむ………………ぅ、」
とりあえず息をしていることは分かった。
確かめたかったのはそれだけなので、それさえ確認すればあとはもう離れれば良いだけなのだが。
「………むぅ」
顔が近い。
自分から近付いたのだから当たり前だが、顔が近い。
すぅすぅと静かに寝息を立てているその顔は、見慣れた佐助のもので。これほどの近さで見たのはいつ振りだろうとぼんやり考えたりしつつ、じっとその寝顔を眺めてしまう。
すぐ傍に見えるほんの少し開いた口からは白い歯が僅かに覗いていて、呼吸に合わせて唇が少しだけ動いている気がした。この近さで見なければ分らなかったことだ。
それがどうと言う訳ではないが、なによりもまず顔が近い。
とりあえず幸村は少しだけ顔をあげて、左右を確認した。そして(当たり前だが)誰もいないことを確認すると、そろりそろりと酷くゆっくりな仕草でまた顔を近づけた。
今度はさっきの位置で止まらず、もっとずっと近くまで。
それはもう、触れるほどに近く。
かぁと顔に熱が昇るのを自覚しつつもそのままささやかに佐助の唇を啄んで、幸村は顔を離した。
「いつもは呆れるほど気配に敏いというのに…」
ここで目を覚まされても流石にアレな気はするが、今の幸村には某童話の王子様の気分が何となくわかるような気持ちになっていた。
初めて聞いた時は“寝ている隙に婦女子の唇を奪うとはなんと破廉恥な!”と憤慨したものだが、今ならほんの少しだけ理解できる。今目の前で寝ているのは婦女子でもお姫様でも、ましてや人に助けてもらう程弱くも儚くもない上、可愛げ何て毛ほどもない男だが、とても…そう、とても愛しい相手だ。
目が見たい。
声が聞きたい。
その声で、呼びかけて欲しい。
動いて、触れて、そう。いつもみたいに、あの気だるげな笑みでも良い。
笑顔が見たい。
「佐助」
無意識に口から飛び出たその名は、自分でも驚くほど切なく響いた。
けれどこの声は、佐助を起こすためのものではない。
気配に敏感な佐助がこれほど深く寝入っているのだから、相当疲れているのだろう。きっと、幸村のことを探していてくれたのだ。もしくは、ずっと待っていてくれたのか。
そんな相手をこっちの都合で叩き起すことなど、出来る訳がない。
「なぁ、佐助」
囁くように小さな声でそう呟くと、幸村は再度顔を近づけてこつんと額を触れ合わせた。そして指を絡めたままの手に再度力を込める。
己は馬鹿力だから、と慎重に慎重に力を加減して。
「お前が、好きだ」
そう一つ、目を覚ます気配の無い相手へ聞こえていないのを承知で告げる。
そして起きてはいないのを承知で、再度その唇に口付けた。
さっきも思ったけれど、唇まで冷たい。至近距離で感じる穏やかな呼気には体温を感じるけれど、外気にさらされている部分はこれでもかと冷たかった。
唇は体温を確かめるのに案外便利なもので、瞼、頬、鼻頭、額…と順々に触れていくが、何処もかしこも唇に感じる体温は幸村よりかなり低い。体をずらして流石にここは…と首に触れてみれば、当然ながらそこだけは温かかった。
薄い皮膚越しに感じるとくとくと脈打つその鼓動は規則的に動いていて、この男が確かに生きていることを実感させてくれる。当たり前のことなのに、それが何故か嬉しかった。
幸村はくすりと笑みをこぼすと、身を起してベットの縁から体を滑らし、今度は床に膝をついた。足を覆っている具足が床に当たってゴツンと重い音を立てる。久々に身につけたものの、違和感など感じないほど身に馴染んだそれを今更ここで脱ぐのも面倒だとそのままに、幸村は上体を倒して佐助の胸へと頭を預けた。
耳をぴったりとくっつけるように力を抜いていけば、毛布ごしとは言え心音がしっかりと響いてくる。そして呼吸も。
一定のリズムで響くそれはとても穏やかで心地よく、このまま幸村まで眠りに落ちてしまいそうになる。その眠気に誘われるままに寝入ってしまったら、佐助は朝起きて驚くのだろうか。もしくはいつもみたいに「重くって寝れやしないよ」などと憎まれ口を叩くのだろうか。
そんな考えを頭に浮かべれば、その空気のあまりの穏やかさに、胸が締め付けられるような痛みを覚えた。

あっちに、あんな状態で佐助を置いてきてしまったのに、と。

今幸村は幸せだ。
佐助と離れたと思えば、こうして目の前に佐助が居て。そして命の危険もなく、食べ物も寝床も十分すぎるほどあって、こんな平和な。
それなのに、あっちの佐助は全てがこことは真逆なところにいる。
「…佐助」
思わず名を口にした。
今の呼びかけは、この佐助ではなくあっちの佐助に向けたもの。
そして、その声が空気を震わせた瞬間。
「……ぁ、」
ほんの一瞬、世界がぶれた。
素早く身を起して周囲を確認するが、そこは物の少ない佐助の部屋があるだけで。
しかし今、幸村は確かに見た。
電気の明るさではなく原始的な火の灯りが目を掠め、濃い酒精の香りとそれに混じった潮の匂いを感じた気がしたのだ。
ほんの一瞬。
たった一瞬だったけれど、それはあの場所で。
「まだ、完全に返ってきた訳ではないのか…」
嬉しいのか悲しいのか、自分でもよく分からない感情が胸の内に湧き上がってくる。
佐助には会いたい。会って…ちゃんと。
けれど、佐助と離れたくもない。
想い描く相手は一人なのに、何故同じ人物が二人もいるのだと何かに向かって文句を言いたくなる。
「ああ、くそ。どうしてあっちの俺はもう死んでいるっ」
訳の分からない文句を苦々しげに口にして、幸村はとりあえず行動に移った。
まずは頭に巻いた赤鉢巻を手早く解くと、膝立ちのまま体を少し横にずらす。丁度佐助の頭があるくらいの位置で止まると、さっき幸村が指を絡めたせいで頭の横に投げ出されている佐助の手を取った。
「…やはり、起きぬな」
分かっていたけれど確認の意味でそう呟いて、自分に出来る精一杯の丁寧さでその手に赤鉢巻を巻きつけた。
いつこの場から消えてもおかしくない身なのだから、一度帰ってきたことを佐助に何とかして伝えなければならない。書き置きを残すのも考えたが、何か足りない気がするし、第一この物の少ない佐助の部屋から筆記用具を探し出している間にあっちに行ってしまうかもしれないのだ。やはり書き置きよりこちらの方が手っ取り早くて良い。
それに佐助ならこれだけで絶対に分かるだろう。幸村がここに居たことが。
「後は…どうしようか」
印を残せば後はもうすることはない。いつまたあの現象がくるのか分らないのだから、残った時間の限り佐助の傍にいたいのが本音なのだが。
とりあえず赤鉢巻がぐるぐるに巻かれて固結びされているその手に再度指を絡めつつ、ベットの縁にさっきの体勢で腰かけた。
「………。」
佐助はさっきから寝返りさえ打たずに寝入っていて、全く起きる気配はない。一応先ほどは赤面しつつも唇を奪ってみたりしたのだが、これだけ寝ていれば佐助は絶対覚えていないだろう。
「うむぅ…」
鉢巻だけ残していくのも少し味気ない気がするし、だからと言って他に残すものなど。
そこまで考えて、不意に寝入った佐助の首元が目に入った。時間帯が夜なせいもあるかもしれないが肌の色がひと際白く見える。
そう言えば先ほどここにも口付けたな、などとぼんやりと考えると、吸い寄せられるようにそっと顔を近づけ首元へ埋めた。そして先ほど同じようにそこへと唇で触れて、そのまま少し思案する。
痕を残すのなら、と。
不意に思いついたその考えは、常の幸村なら絶対に行動に移すことなど無かっただろう。
けれど、長くこの佐助と離れていた時間が幸村のその背を押した。
幸村は衝動に促されるままに唇を僅かに開くと、触れたその皮膚をゆっくりと少し強めに吸い上げる。
耳を掠めるちゅ、という音に、またもかぁと顔が赤らんで、心臓が破裂するのではと思う程に鼓動が速くなった。こんなことよりもお互いの唇を合わせる方がもっと恥ずかしいというのに、どうしてこんなことくらいで、心臓がおかしくなってしまいそうなほどに動悸が速くなるのだろう。
そんな風に羞恥のあまり死にそうになりながらも何とかその悪戯のような作業を終えて幸村が顔を上げると、佐助の首元には小さく鬱血の跡が残っていた。
「………。」
そして熱でどうにかなりそうな頭を必死に動かして一つ考え込んだ。
こんなに小さい痕では見落とされるかもしれない、と。しかも何やら虫刺されのように見える上、首など鏡を見なければ分らない位置だ。
「…失敗したな」
馬鹿正直にそんな言葉を呟いた幸村は、さっきよりも少し下に体をずらして再度体を屈めた。そして今度は襟元から覗く鎖骨へと唇を寄せる。皮膚の下に骨がある部分はどうにも首とは勝手が違い、そこには代わりに甘く歯を立てた。歯形を残すような乱暴な仕草では無く、肌を歯で引っ掻くような強さで。
そして更に体を下へとずらす。動きを阻害するTシャツの襟は空いている方の手で引っ張って寛げて、皮膚の柔らかいところをゆっくりと探った。
鎖骨のすぐ下はまだ固い。もともと肉の薄い佐助の体なのだから余計にだ。けれどそれよりももう少し下へ進むと僅かだけれど柔らかい皮膚があった。位置的にも自分の目で見える範囲だから、痕を残すにも問題ないだろう。そう思って、そこへと唇を押し当て、さっきの要領でそっと痕を残した。
「…やはり恥ずかしい、な」
自分でやったとは言え、相変わらずすぅすぅと寝息を立てている佐助を改めて見下ろせば、ぐわっと羞恥心が湧き上がってくる。気づいてもらうために残したものなのに、何故か隠したくなってしまい毛布を首まで引っ張り上げてささやかながらその部位を隠してみた。
「〜〜〜〜〜〜っ」
しばらく一人でその羞恥心に耐えつつこの居た堪れない空気を自分なりに整理し、何とも言えない感情を必死に押し込めると、幸村は気を取り直して改めて佐助を見下ろした。
ここへ戻ってきてすぐに見た表情よりも、寝顔が少し穏やかに見えるのは気のせいだろうか。
「とりあえず、帰ってきたらちゃんと謝るからな」
何に対する謝罪をしなければいいのか分からないほど、佐助への謝罪の理由には事欠かないが、全部終わったら、そう。
全部終わったら沢山の時間をかけてこの佐助に謝ろうと思う。
「だから、すまん。…もう少しだけ待っていてくれ」
言葉に出来ないほどの感情を込めてそれだけ言うと、幸村はさっきから繋いだままだった手に再度力を込めた。
あれほど冷え切っていた佐助の手は、幸村の体温が移ってとても温かい。その熱が冷めないことを祈って毛布の中にその手をそっと仕舞い込むと、その瞬間にまたアレが来た。
まるでタイミングを見計らっていたかのような。
周囲を把握する器官が一瞬にして麻痺する感覚。
窓から差し込む街灯の光が炎のそれへ。
音の無い佐助の部屋の静けさから、喧騒が渦巻くその空間へ。
匂いすら薄いここから酒精と潮の匂いが充満するその場所へ。
足もとのフローリングの床は砂の混じった硬い板張りのものへ変わり、腰掛けていたベットは掻き消えて床に尻もちをついてしまった。
手の内にずっと握り締めたままだった体温も掻き消え、砂が散ったその板張りの床へと手を付いて体を支える。

「旦那」

そして、目の前には。
さっきまで聞きたくて聞きたくて堪らなかったその声と、映してほしいと切望したその瞳に映る己の姿。
そっくりで、同じ人物で、でも己の佐助とは違う、佐助。
「すまん」
目の前で眉根を寄せて、口元だけはほんの少し笑んでいるその男へ一言謝ると、佐助は首を微かに振りながら「いいや」と呟いた。そして体を屈めて幸村へと手を差し出してくる。
その手をがっちりと掴むと、幸村よりは低いが確かに感じる体温があって。
ぐいと引かれるその力を借りて立ち上がると、着いた勢いのままに佐助を思いっきり抱きしめた。
「まだ帰ったりはしない」
「…うん、分かってるよ」
「だが心配をかけた」
「それには慣れてる」
「そうか」
「まぁね」
「明日も、心配をかける」
「死ぬ気で守るさ」
「ああ」
頼む。
佐助との短いやり取りはそこで途切れた。
まるで津波のような勢いで飛び込んできた、元親の「おおおおおおお前今消えてたよな?!忍術とかじゃないよな、マジで消えてたんだよな?!」というとても豪快な声で。













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多分現代佐助は朝起きて色々な意味でめっちゃくちゃ驚くと思う。
(09.07.26)