世界がぶれる事がある。
例えば道を歩いているとき。アスファルトで舗装された道路が突然雑草の生い茂る畦道へ姿を変える。
鮮明な緑を照り返す光が一瞬目を焼いて、つい今まで脇を通り過ぎていたはずの車のエンジン音が中途半端に途切れ、変わりにさわさわと木々のざわめきが聞こえる。そして、排気ガスで濁っていたはずの空気が山中のように澄んだものに入れ替わる。
頭で考える前にその清涼感溢れる気配に五感が反応して、いつも初めに感じるのは心地よさばかり。
けれどその状態をおかしいと頭が認識した瞬間、その世界がいきなり閉じてしまう。
瞬きの瞬間の僅かな合間の、見間違いのような変化。
映画で間違って一枚だけ別のシーンが紛れ込んでしまったような、そんな一瞬のぶれ。
見間違いかと目を凝らそうにも、次の瞬間には慣れ親しんだ景色に戻っているのだから、一体これが何なのか未だに分からない。
初めは白昼夢でも見たのかと片付けていたけれど、こうも何度も同じことが起こればいい加減無理が出てくる。
だから漠然と、世界がぶれているのだ、なんていう表現で今は片付けてしまっていた。
そんな日常と非日常が変に交差した生活の続く、高校二年の秋。
「世界がぶれる、ね」
人の気配の消えたがらんとした教室の中、ぽつりと声だけが響く。
言葉を発したのは軽薄な印象を人に抱かせる風体の男で、考え込むように手を口元へ持っていきながらそんなことを言った。
つい今しがたまで幸村が四苦八苦しながら説明していたあの不思議な現象を、復唱した形になる。
普通こんな話をされたらまず信じないだろうし、人によっては馬鹿にするだろう。それなのにこの男は真剣に考え込んでいる。
見た目から受ける印象に反して、内面はとても真摯な男だ。
そんな男の名は猿飛佐助。
幸村との関係を説明するとなると、それはもうたくさんの言葉が必要になるが、あえて代表的なものを上げるとするなら幼馴染という言葉と、もう一つは元部下、なんていうこれまた変わった言葉が必要になる。
高校生でなんで元部下?と問われると答えに窮する為、人には口にしない過去の関係ではあるが、それでも確かにこの猿飛佐助は昔、幸村に仕えてくれていた。
今の生ではなく、随分前に生きていた時のことではあるけれど。
一度、もしくは何度か死んでなおこうやって幸村の傍に在ってくれるのだから、この忠義の厚い男との関係を語る上で、元部下なんていう変わった言葉はどうしても消えないのだ。
そんな風に幸村が佐助を見つめていると、当の佐助は思考に一区切りつけたのか、ぱちりと一つ瞬くと幸村へと視線を合わせてきた。
「それさ、具体的に何が見えるの」
「具体的?」
「そう。聞いたところによると、長閑な田舎の景色が見えんだろ?他に何か特徴とか無いの?」
「特徴…」
口に出しながら今まで見たものを頭の中で反芻してみる。
見えるのはいつも自然溢れる長閑な風景と決まっていて、今のところ車や電灯など近代的なものは一度も目にしたことが無い。
人の姿はまだ一人も見ては居ないが、人が住んでいそうな建物は目にしたことがある。何処にでもありそうな古びた平屋で、質素な建具や井戸などが目に付いた。
井戸の傍には洗い物のような布の固まりもあった気がするし、やはりあれは人が生活していた空間なのだろう。
そんな内容をぽつぽつ説明していくと、佐助はまた難しい顔をして考え始めた。
「聞いた限りじゃ昔の俺らが見慣れた光景っぽいし…でも音も空気も丸ごと変わるってことは昔の記憶じゃないんだろ?」
「まぁな。流石に五感で感じたもの全てを記憶、と片付けるのは無理があるだろう」
佐助も幸村も、不意に昔の…生まれる前の記憶を思い出すことはある。うっかり忘れていた断片の一部が突然浮き上がってくる感覚で、それに気を取られすぎて現実を一瞬忘れてしまうのだ。
けれどそれとこれとは明らかに違う。
世界がぶれる何ていう表現がしっくりきてしまうほどの、完全な変化。それを“記憶を思い出す”なんて小さな表現ではとてもじゃないが足りない。
「んー…じゃあ何だろ。テレポートとかの方が近い?」
「テレ?…ああ、どこかへ一瞬で飛べるという便利なアレのことか」
「わぁ…なんつーか斬新な解釈」
今まで真剣だった表情を佐助がいきなり緩めてそう言うものだから、幸村は自分が何か失言でもしてしまったのかと思わずうろたえた。
「あ、別に悪い意味じゃないって」
慌てて佐助がフォローのようなことを口にするが、笑いながら言われても説得力は無い。
「せめてその笑いをやめてから言え!」
「なーに言ってんの。俺様のこの笑いは標準装備です」
「やめんか気持ち悪い!」
「うっわ酷!こんな男前つかまえてそういうこと言う?!」
「…阿呆!」
心外だ、と真剣に抗議してくる佐助に思わず笑って返せば、佐助もからからと声を立てて笑った。
そんな風に、少し沈みかけた空気を払拭するように笑いあっていた瞬間。
それは来た。
「…ぇ?」
体の全ての感覚が一瞬、完全に麻痺する心地。
行く宛を無くした意識の端子が無意識のうちに確固たる場所を探して虚空を彷徨い、その行為自体を己が認識する前に感覚が戻る。
そして捉えたのは、ふつりと糸が切れるような頼りなさで切り替わった己を取り巻く空間全て。
埃っぽい教室の空気は欠片も見当たらず、変わりに濃い水気を含んだ森の空気が肌を撫でてゆく。その水気のせいか、肌を粟立てるような冷気が下の方から這い上ってくる。
そして、つい今しがたまで目の前にあったあの男の心地よい笑みは掻き消え、変わりに見たこともない男たちの姿が目に入る。
「ひと…?」
ぶれた世界のその先で、初めて目にした人の姿。
だんだん慣れてきたこの現象のせいで、突然切り替わった世界に驚くよりも、今目に映っている男たちの方に驚いてしまう。
幸村のほんの5メートルほど先にぽかんと口を開けて突っ立っている男たちの出で立ちは、ところどころほつれた簡素な和装。髪はやや解けているものの、皆一様に後頭部で髷を結っている。
本来幸村が居るべき場所、つい今までいたあの世界では見慣れない、酷く古めかしいこの恰好。
やはり、ここは。
そんな風に今のこの空間に対して確信めいたもの感じて、幸村はその男たちに向かって一歩踏み出した。
近づけば他にも何か分かるかもしれない。もし分からなくても、何か言葉を交わせば僅かなりとも収穫は得られるだろう。そう思っての行為だった。
しかし次の瞬間、肌を焼くような激しさを孕んだ空気を後ろに感じた。
今ではもう遠い記憶だと思っていたのに、懐かしさすら感じてしまう独特の空気。
それは淀んだ叫び声とともに、ぞわりとこの身を震わせた。その震えを自覚すると同時に、無意識のうちに体が動く。
無造作に振り返る様な仕草で体を反転させ、拳を固めた片腕を横凪ぎに振るい、それを弾く。
「……。」
確かに腕に感じた手ごたえと、「ぎぇっ」と情けない声とともに吹っ飛んで行った一人の男の姿。
そしてぬかるんだ大地へ突き立った一本の刀。
刃はもとの清廉な姿を一切感じさせず、ぎざぎざと不格好に刃零れしてしまっている。ところどころ茶色く濁っているのは手入れを怠ったのか錆びが大きく刀身を覆ってしまっていた。
これではもうまともに斬れないだろう。そう思って、そこでこの刀の使い道を『人を斬ること』という一点のみに限定してしまっていたことに気付き、平和呆けしているはずの己の頭を疑った。
未だにそんな考えを当り前の様に思い浮かべてしまうということは、現代で生きるこの身を十分に異端と映してしまうのだ。
気付きたくもなかった己の本質を自覚してしまった幸村は、そのまま己を嘲るような笑みを口元に浮かべ、地へ突き立った刀へ手を伸ばした。
柄に触れれば、こんなぼろぼろの刀とも呼べぬような武器の慣れ果てだというのに、一瞬血が疼くような心地がする。
「…しかし、」
手には馴染まない。そう口の中で続けて、噛みしめるように声を抑えた。
過去にこの両腕の如く操っていた二槍を思い浮かべてしまえば、さっきよりも更に血が疼いてしまう。
炎の明かりを照り返し美しく閃くあの刃と、すらりと腕に沿うた朱塗りの柄。
目を閉じるだけで、瞼の裏に鮮やかに思い描けるというのに、今手元にはこんなぼろぼろの刀が一本あるだけ。
それが酷く惜しい。
いくらぬるま湯のような平和な日々に身を浸そうと、やはりその性は戦人。魂の奥深くに絡みついた熱く滾る衝動は、いくら押し隠そうとこんな他愛のないことで浮き上がってくる。
「不甲斐無い」
身の内の熱すら御せぬのは、死を経てなお未熟な確かな証拠。
師の熱い言葉と、それ以上に熱い拳の感触を思い出して、幸村は縋るように握ったその手をひと思いに刀から外した。
今のこの手に馴染むのは、武器では無く学校で使う筆記用具で、生きている場所は戦乱の世では無く太平の現世。
戻るべき場所には、あの男がいる。
そう思って、森の空気を振り払うように腕を振ると、あの明るい髪を描くように思い浮かべた。さっきまで瞼の裏に映っていたあの二槍よりももっと、鮮明に描くことのできるそれ。
すると、それを待っていたかのようにあの感覚が訪れた。
一瞬だけ行く宛をなくす己の五感。
一番はじめに感じたのは音で、その次に肌で周りの変化を何となく感じとる。それとほぼ同時に空気の変化を感じて、最後が視界。
糸が切れるように変わる景色は、一番最後にこの目に飛び込んでくる。
今見えたのは、切羽詰った表情を浮かべた、大切な男の顔。
「旦那!!」
鋭く響いたというのにこの声を耳に心地よく感じてしまうのはどうしてだろうか。
もう一度呼んでくれないかと思ってしまい、幸村は無言でそっと耳を澄ます。
「旦那っ?!」
今度はさっきよりももっと焦燥の濃くなった鋭い声で呼ばれて、聞くだけでなくちゃんと答えを返そうと口を開いた。
「ああ、どうした」
「どうしたじゃねぇよっ!!今、あんたっ…」
間髪入れずに帰ってくる答えは、この男らしく冷静さを欠いている。
それは言動だけでなく行動にも表れているらしく、力加減を間違えたような粗雑な手つきで幸村に肩をがっちりと掴んできた。
「佐助?」
名を呼べば、一瞬びくりと震えた手が感触を確かめるように肩を滑ってゆく。
「お前、どうした?」
再度問いかければ、佐助は喘ぐように息を吸い込むと一つこんなことを言った。
「あんた今、消えてたよ」と。
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この辺で展開読めた人もいるかもしれない…。
(09.5.8)