佐助が幸村に聞いたところによると、どうやら“あっち”とやらにも猿飛佐助は存在しているらしい。
こんな戦国の血生臭い日常何かではなく、例えるならばぬるま湯のように心地よく、平和な世界で。
それは佐助という存在にはとても似つかわしくない世界だと心底思うけれど、そこに幸村が存在しているのなら似合う似合わないなんて問答は必要無い。それだけで何故か“あっち”とやらの佐助の存在を納得してしまえるのだから、己の存在理由の軽さと言ったらない。
そして今、こっちにいる幸村も本来ならそのぬるま湯のような平和な世界で生きているはずの人間だ。
なのに、ここにいる。
こんな乱世の真っ只中の、戦直前の軍の中に。
しかも、その上。
「なんで、あんたまで出陣の準備してんのっ…?!」
「出るからだろう」
「いや、出るって!」
こんな風に当たり前のような顔をして答えられても困る。
本来ならここにいるはずのない人で、戦なんてものがない世界から来た人で、その上この世の誰よりも死んで欲しくない人だ。
間違ってもこんな戦に巻き込んではいけない。
「俺は今鬼の旦那に雇われてっから出るのは当たり前だろーけどさ、…何であんたまで出るんだよ。そんなことする理由なんて無いだろうが…っ」
切羽詰った思いを抑えて淡々と言い聞かせるが、幸村はどこ吹く風だ。
「理由など探せばいくらでもあるぞ?ここまで飯を食わせてもらったのもそうだし、寝床まで用意していただいた。それだけでも礼をするのに十分な理由だというのに、立場を危うくしてまで徳川から匿って頂いている」
どうだ?とばかりに得意そうな顔をして幸村が上げていく理由の全ては筋が通っている。だとしても、佐助は納得することが出来ない。
「恩返しってんなら他にもやり方があるでしょうが。ほら、皿洗いとか薪割りとかさ…」
「お前な…」
半眼で幸村が睨んでくるが、構うつもりはない。
「もう…マジで自分の身をもっと大事にしてくれよ。また、…また死んじまったら、あんた一体どうすんだ?」
ぐしゃぐしゃと頭を掻きながら佐助が顔を伏せると、幸村は妙にきっぱりとした口調でこたえた。
「俺は死なん」
「ふざけんなよ…。あんた一回死んだってこと忘れてない?もうそう言う言葉に説得力なんざこれっぽっちも無いんだけど?」
それに間髪入れず佐助も返して、幸村の答えを待つ。
しかし幸村は、当たり前のような表情で、こんな馬鹿みたいなことを言った。
「お前こそ忘れたのか?約束しただろう…“お前より先に死んだりしない”と」
「は…?」
「お前より先に死なないし、実はあっちの佐助にも同じ約束をしているからな。…どうあっても俺は死ねぬ」
「いや、だから…。それじゃ余計に戦なんて出ない方が、」
良いでしょーが。
そう続けようとした佐助の口を、幸村が無造作に手で押さえた。喋ろうとすればまだ出来ないことはないけれど、唇への接触は何故かそれを躊躇わさせる。
別に唇で触れられた訳でもないのに、そこから感じる熱だとか、武器を振るう人間特有の硬い掌の感触だとか。それら全てが佐助から言葉を奪い、視線までもそっちへ攫っていく。凛とした目が佐助を射抜き、会わせたその目の奥にゆらりと炎が見えたような気がした。
そして幸村が、命令を口にする。
「佐助、死ぬ気で俺を守れ」
ここで口にできる答えの選択肢がこの世には沢山あったのだとしても、佐助は「是」以外のものを答えられるはずもなかった。
「普通こういうお祝いって、戦の後にやるもんじゃないの…?」
「俺もそう思うが…まぁ、楽しそうだからいいのではないか?料理も酒も美味いし」
「戦前なんだからあんまり飲むなよ」
「こーんな小さな盃に舐めるほどしか注いでおらぬ」
「へーへー、わざわざ盃の小ささを強調してくれてありがとうね」
「そういうお前は盃すら持っておらぬではないか。…使うか?」
「飲みませんよ。景気付けに口だけは付けたんでもうそれで勘弁」
「なんだ、つまらぬ…」
そう言って幸村が差し出していた盃を収めたところで、さっきまで騒ぎの中心でわいわいやっていた元親が円から外れてやってくるのが見えた。手には酒瓶を手にしている。
「うおーいお前ら飲んでっか」
ぶんぶんと振られるその酒瓶は中身が満杯なのか、重苦しい水音が鳴っている。一応ここで予想されるこの後の展開としては、まず酒を勧められるだろう。だが、戦前にそう言った嗜好品は口にしたくはない。
「う…」
佐助が口ごもると、幸村はあっけらかんと口を開いた。
「ありがたく頂いておりまする!」
「おお、そうか!まぁとりあえず腹いっぱい食っとけよ!」
「かたじけない!」
「………。」
何だか佐助が身構えたことが馬鹿みたいに思えてくる程さっぱりした会話だった。
元親の手に握られた酒瓶はこちらへ勧められることなく、たぷんと音を立ててその手の中に収まったままだ。もしかしたら何処かへ持って行くための酒なのかも知れない。
「佐平次、お前もしっかり食っとけよ!」
「へーい…」
一応返事は返したものの佐助は明日進軍を開始するというこんな日に腹へとあまり物を入れたくはない。出来うる限り粗食で過ごし、体から贅沢を締め出してしまいたいのだ。
しかも今回の作戦、佐助も幸村も確かに相当体力を消費する役目につくことになっている。佐助と幸村の二人だけ本隊から離れて別行動とか言うかなり無茶な作戦だったりするので、たった二人で大量の敵を相手にすることになるのだ。考えるだけで死にそうである。
しかし一応は見つかりさえしなければそれまで好きに動けるということで、人数的にはこれが最上だったりもする。佐助単品ならどこへでも潜り込めるが、他者を隠すとなるとそれは一人が限界だからだ。
しかもその隠す対象が幸村なのだから、余計にその作業が難しくなる。こんな存在ごと光源の塊のような人を目立たないように気配ごと埋没させるのはかなり大変な作業だ。出来うる限り見つからないように行動して、いざ見つかったらもう好きなだけ暴れるだけか、というような半ばやけくその考えすら今の佐助は思い浮かべている。
「ま、とりあえず明日のために英気はしっかりと養わせて貰っときますよ」
「おう、まぁ好きにやんな」
元親は佐助に干渉するつもりはないのか、そう言って笑っただけで後ろへと足を一歩引いた。やはりこれから行くところがあるのか、場を辞する仕草で手をぱたぱたと振っている。
それに佐助も僅かに笑んで答えたものの、本来ならきっぱりとした口調でなにかしら言葉を発するはずの幸村から一言もない。それを不思議に思って幸村の方へ視線を向けると、なぜか幸村は緊張した面持ちで一点を見つめていた。
「旦那…?」
「駄目だ、」
思わず呼びかけた佐助にそう短く答え、幸村は再度「駄目だ」と呟いて佐助の腕を掴んだ。それと同時に今まで手にあった盃が床へと転がる。
「旦那、どうし…」
どうしたんだよ。
そう問いかけるはずの言葉は、腕を掴むしっかりとした幸村の握力がどうにもおかしいことに気付いて途中で不格好に途切れた。
二の腕辺りをがっちりと掴んでいる幸村の手は佐助の目にも見えている。しかし、その握力が時折ふつりとふつりと感覚を置いて掻き消えるのだ。
そう、今もまた。ほんの一瞬だけ。
「旦那…?!」
「まだ、まだ駄目だ!俺は、俺はまだ!!」
佐助の言葉が聞こえていないのか、幸村は虚空へ向けてそう叫んで、もう片方の手もこちらへと伸ばしてきた。
しかしやはり、腕を掴むその手の感触は何度も何度も、ほんの一瞬だけ掻き消える。
「旦那っ、あんた…まさかっ」
「違う!」
佐助が口にしようとした言葉を、幸村の鋭い声が遮った。
しかし途切れ続ける幸村の触れている感触は止みはしない。
今も何度も。
もはや、撫でるような儚さしか感じられないほどに。
「おい、どうしたんだよお前ら」
そこへ元親がこちらの様子がおかしいことに気付いて引き返してきた。
しかしこの状態をどう説明して良いのかが分からない。
「その…真田の旦那が」
消えちまいそうで。
どうにも言葉にできず、佐助が言い淀んだ瞬間。
「俺はまだっ…帰る訳にはいかぬのにっ!!」
切羽詰まった幸村の声が佐助の耳許で聞こえて、消えそうだと思っていた幸村の感触が一瞬だけ強さを増した。
全身を抱き込むようにぎゅっと腕を回されて、息すら詰まりそうなほど強く。
その力の強さにひゅ、と肺が圧迫されて息が不規則に揺らめいた。頬を擽るのは髪の感触で、眼下には己が揃えた真田幸村の赤揃えの戦装束が見えた。そして目を焼くのが鮮明な赤鉢巻。
それが一度だけ翻って。
「旦…、」
今までの全てがまるで夢だったというかのように、ほんの一瞬で何もかも、何一つ残さず佐助の目の前から消えてしまった。
体温の離れた腕の中が、ぽっかりと穴が開いたように酷く寒い。
17へ戻る ・ 19へ進む
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
(09.7.17)