浜に転がっているのは十人、二十人…いや、それ以上か。
数えるのも面倒なほどの男たちが思い思いの場所で地面に転がり、意識を飛ばしている。かろうじて意識のある者は空を仰ぎながら呻き声をあげていたり、もしくは砂の大地へ突っ伏し小さくもがいている。
そしてそんな男たちの中央に仁王立ちしているのが、紅。
海から吹き込む浜風に煽られて翻るのが目を引く紅の鉢巻きで、その身を包むのも紅の装束。そしてその手に握られた一対の槍もまた紅く、ちらりちらりと空で踊る炎もまた紅。
更にはじりじりと肌を焼くその覇気も、あえて色に例えるなら紅だった。
炎の色、紅蓮。
己を彩るのもまたそれだが、これは存在ごと炎だった。
もともと武人としての名声の噂と共に二つ名は聞いていた。獰猛な獣のそれと、己と同じく鬼の名を冠したそれ。
紅蓮の鬼、真田幸村。
それこそまさしくこの男を表すに相応しい名だと。確かに噂に聞いた通りの武人だった。
今からつい三日ほど前のことだったか、元親の子分の数人が面白半分に幸村へと手合わせを願い出たのはそれくらいだったと記憶している。その申し出を心良く引き受けた幸村は、槍を握ればやはり凄かった。
報告では刀も相当使えると聞いていたが、やはり槍には天から与えられた何かがあったらしい。一瞬の内に全員を叩きのめし、本人は涼しい顔をしていた。
そこで元親は頼んだのだ。「他の奴らとも手合わせしてやってくれ」と。
それにも快く引き受けた幸村はその日から毎日こうやって長曾我部軍の兵を相手にやり合っている。
そして今に至るのだ。
これは余談だが、真田幸村が纏っている衣はあの忍がどこぞから調達してきたようで、元親が聞いたところによると「いつまでも俺の小袖何か着せてられっかよ」とのことらしい。
だからと言ってここまで本格的な戦装束を何処から調達してきたのかは全くの不明だが、赤揃えの拵えは真田幸村によく似合っていた。流石付き合いが長いだけある。
「よう、幸村!やってるじゃねぇか」
「元親殿!」
元親の声に幸村がぱっと顔をあげて答えた。
さっきまでの人を圧倒する戦人の覇気は一瞬で掻き消え、邪気のかけらも感じられないような陽の色の笑顔を向けてくる。
この表情だけ見ていれば、さっきと別人だ。
そして呼び名も、ここ数日でかなり砕けたものとなっていた。いつの間にか幸村がこの長曾我部軍にめちゃくちゃ馴染んでいたので、呼び名も無意識のうちに変わっていたらしい。幸村の方に関しては“長曾我部殿”という呼び名がかなり言いにくいのでまだ分かるが、こっちまで幸村を名で呼んでいることに気付いたのは正直驚いた。
それほどまでに幸村は、ここにかなり馴染んでいるのだ。
「切りの良いところで仕舞いにして来いよ?そろそろ昼飯の時間だからな。今日も活きの良いのが上がったとさ」
砂浜に見事に伸びている者達を眺めながら笑ってそう告げれば、幸村は嬉しげに顔を綻ばせた。
「まことにござるか!ではここまでにしておきましょうぞ!」
喜色満面といった様子で幸村は浜に伸びている男たちへ声を張った。しかしそのまま屋敷へ足を向けるのかと思えば、当の本人は館とは逆方向へと歩き出した。
「どこ行くんだ…?」
元親がそう呟いたところで、幸村が空へと呼びかけた。
「佐助!」
「はーいよ」
どこに潜んでいたのか知れないが、呼ばれたその忍は一瞬にして幸村の前へと姿を現した。
「昼餉前に、一手頼む」
「へいへい…」
その二人のやり取りに度肝を抜かれたのは浜で伏していた男たちだ。
どこにそんな体力が残っていたかという勢いでがばりと顔を上げ、合図無しで打合いを始めた二人の姿をぽかんと口を開けて眺めている。
確かにそんな反応をしたくなる気持ちもわかないことはない。あれだけ派手に動き回っておいて、更にあの忍を相手にもう一戦とは。
「ありゃあ体力底なしかよ…」
幸村の実力も忍の実力もある程度は知っている元親にしてみれば、そんな感想しか出てこない。
「佐助ぇぇ手加減無用!」
「こっちはこれからまた仕事なんだよ!無茶言いなさんな!」
しかもこれだけ激しい打合いだというのに、そんな会話まで聞こえてくる。
その会話を聞いた浜にいた子分達は、がっくりとうなだれてこう呟いた。
「あいつら、人じゃねぇ」と。
それが元親がこの幸村に出会ってから四日目の日常の風景だった。
幸村に会った瞬間の佐平次のあの様子…いや、ここは佐助の様子と表わす方が正しいのだろうか。
ともかくその佐助の様子から考えて、決して幸村の傍から離れないのだろうと元親は予想していた。しかし元親のその予想はあっけなく外れることになった。
戦前の緊迫したこの状況で一体この忍がどう出るのか様子を見ようと決めたところで、本人は既に九州へ偵察に出てしまっていたのだ。
確かに幸村が来るまで佐平次にはそれを一任していたが、あれほど佐助が取り乱すほどの出来事があったのだから、そう簡単に以前の日常には戻らないと思っていたというのに。
「仕事熱心なのは良いことなんだが…」
やはり、あの取り乱しようを見た後ではどうにも解せない。
壁に背を預けつつ、元親の座す床下を波がさざめく外へと呟けばそれに答えが返ってきた。
「佐助のことでござるか?」
声に釣られて視線を部屋へと移せば、元親のすぐ傍に座している幸村の精悍な顔が目に入った。大抵一緒にいる佐平次…否、佐助の姿は今は無く、どうやらまた敵方を探りに出ているらしい。
そして幸村の方はどうやら食事を終えた後らしく、綺麗に平らげられた皿の上にはまるで解体したかのような見事さで魚の骨のみが残っていた。
海に生きる者たちにとっては最も好ましい魚の食べ方だ。こういった面も幸村がこんなに早く長曾我部軍へ馴染んだ理由の一つだろう。
「美味かったか」
「それはもちろん」
問いかけに対してかすりもしない話題の問いかけを返したというのに、幸村はそれはもう嬉しそうに答えを返してきた。その屈託のない笑顔にこちらまで釣られて笑みが浮かんでくる。
「あんたの飯の食い方はいっつも綺麗だよな」
「魚が美味いからでござるよ」
「そうじゃなくて、食う時の仕草って意味もあるんだよ。…ったく、俺が崩してんのが馬鹿らしくなってくるじゃねぇか」
「それは申し訳ない。…しかし染みついておりまして」
「謝るなって。一応これでも褒めてんだ」
元親がそう言って笑うと、幸村は至極真面目そうな顔をして「そうなのでござるか…それはかたじけない」などと呟いている。
こういう真っ直ぐで純朴な反応は荒くれ者の集う長曾我部軍の人間とは違った清々しさを持っていて、話をするだけでも快い。寧ろ笑ってぐしゃぐしゃと頭を掻き交ぜてやりたくなるような楽しげな感情すら湧いてくる。
これが素の真田幸村の様子だというのなら、あの忍が心を傾けるのも分かる気がするのだ。
「なぁ、幸村」
「?」
元親が呼びかけると幸村は海へと向けていた視線を元親へと合わせてきた。
その真っ直ぐな視線をこちらも同じく真っ直ぐに受け止めると、元親は話題をさっきのものへと戻した。
「あんたのあの忍は、いったいどんな奴なんだ?」
その問いに対し、幸村は何故か笑みを深めると、すぅと一つ深く息を吸い込んだ。
「…佐助は、」
そこで幸村は一旦言葉を切った。
しかし元親は、この後今の問いかけを心の底から後悔する羽目になった。
理由はもう、たった一つだけ。
出るわ出るわ自慢話の数々。
多彩な術の見事さがどうとか、普段の軽い装いに隠された誠実な仕事ぶりだとか、想像もつかないような忍の身のこなしがどうとか。
幸村本人にその自覚があるのか無いのかは不明だが、良くそこまで言葉が出てくると感心するほどその褒め言葉は尽きない。
しかも同じ言葉も何度も繰り返される。
『忍の中の忍』『あやつに敵う忍などおりませぬ』『空を駆けるという二つ名が…』
他にもうようよ出てきたが、暗記してしまっていることに気が滅入りそうになってくるのでもう思い出さない。
けれど幸村の話は止まない。
今は確かそう、何故か忍としての技能では無く、掃除洗濯家事甘味…といった良く分からない技能についての話だったか。
山一つ越えても団子が柔らかいままだとか。うん、とてもどうでもいい話だ。
流石に気の良い元親でもそろそろ遮ってやろうかと思ってきているほどその話は何故か聞いていてむず痒い。
そうだ、こんな思い出話よりも最近始めた画期的な漁の仕組みついて話している方が余程ためになる。
そう、元親が別の方向に吹っ切れた瞬間だった。
「折れてこその矜持、地に落ちてこその名」
そんな言葉を、幸村が口にした。
「…は?」
さっきの思考も忘れて元親が思わず聞き返すと、幸村はさっきとは違い低く抑えた静かな声音で話し出した。
「佐助本人に言われたのでござるよ。“それが俺たち忍の生き方だ”と」
血に塗れてこその躰、蔑まれてこその力、闇に埋もれ消えゆくからこその命。
それが、忍だと。
「元親殿や某のように武士の価値観の下で生きている者にとって、忍の生き方は地を這うが如く感じるやも知れませぬ。しかしそれこそが忍の矜持なのだと、佐助はそう申しておりました」
幸村はそこまで言い終えると僅かに落としていた視線を海へと投げ、波間が照り返す陽光に目を細めた。
「その矜持というものが、某には未だにしっかりと理解できませぬが…。いつここから消えるとも知れぬ某から離れて仕事へと走るのも、その矜持のせいやも知れませぬな」
海を見ながらそう言った幸村は、その視線をゆるりと左方向へと流した。その方角は西。ここから見えはしないが、その先には九州がある。
佐助が偵察へと出ている九州があるのだ。
「何だ、あいつに傍に居てほしいのか?」
幸村の言った言葉に少し恨むような響きを感じた元親は、特に深く考えずにそう問いかけた。
しかし幸村は笑って否定する。
「…いえ。というよりも、今あっちに帰る訳にはいかないなと、自分では制御出来ぬ現象を少々心配しておりまして」
「ああ、あっち…ね」
正直その“あっち”とやらを元親はあまり信じてはいないが、ここに生きている幸村のことは信じている。良く分からない現象はもう良く分からないままで構わないと思うし、今ここに幸村がいるならそれを肯定するだけだ。
「ま、あんたが居たけりゃ好きなだけここに居りゃあ良いさ。少々物騒な状況ではあるがな」
戦前のこの状況を“少々物騒”などという言葉で片付けるには言葉が軽すぎるが、冗談めかして元親が口にした瞬間、幸村は不意に表情を引き締めた。笑っていればまだ童子の面影すら覗かせるゆるりとした雰囲気が掻き消え、変わりに凛とした武人の気配があたりの空気ごとがらりと変えてしまう。
「どうした?」
幸村が何かを言う前にこちらから問いかけると、幸村は姿勢を正し、そっと口を開いた。
「次の戦のことで、お願いがございまする」
「ほぉ、聞こうじゃねぇか」
一体何を願い出ようというのか。
幸村の立場があやふやだからこそその言動には予想がつかない。その行動の理由に必ず絡んでくるであろうあの忍の存在も含め、元親は僅かな好奇心とともにその答えを待った。
多分己は、幸村のこの“お願い”とやらが余程突飛なものではない限り、是と答えるのだろうと確信しながら。
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(09.7.11)