※微破廉恥注意。
あんな表情の佐助は初めて見た。
感情の制御を忘れないこの男が、あそこまで感情を乱して、涙まで流して。
体は細かく震えていて、息は浅く不規則だった。
触れた体は信じられないほど冷たくて、それなのに伝わってくる鼓動は恐ろしいほど早かった。
そして、声。
何度も佐助が口にした「何故」という問いの言葉。
どうして生きているの。
あの時確かに死んだはずなのに。
死んだはずなのに。
どうして生きているの。
どうして。
生きていることを否定して、記憶の死を確かめて、そして目の前にある現実を見て「何故」と問いかける。
とぎれとぎれに繰り返されたその言葉は、途中で切り替わって「旦那」になった。
確かめるように呼ばれて、触れられて。
会いたかった。
全身全霊で、そう言っているように聞こえた。
それはまるで慟哭のように、心ごとすべて引き裂くかの様な声で、幸村へと響いた。
あんな佐助の声を、幸村は知らない。
あんな風に泣く佐助を、幸村は見たことがない。
これが、知りたいと思っていた、幸村が死んだあとの佐助の姿。
知りたくとも聞けなかった、あの問いの答え。
“自分が死んだら、佐助は悲しんでくれるだろう?”
そんな認識でこれを済ましていた自分をぶん殴って燃やしてしまいたい。
これはそんな言葉で片づけて良いものではない。
もっと悲痛で、絶望的な。
そうでなければ、あんな顔するわけがないのだ。
この矜持の高い男が、あんな顔を。
そして幸村は思う。
やはり自分は、佐助より先に死んではならなかったのだと。
元親の計らいによってとりあえずは客人という扱いであの場を収めて貰ったものの、やはり幸村が身に付けている学生服はいらぬ混乱を招きかね無い。
それならいっそ着替えてしまえ、ということで幸村は佐助に小袖を借りることになった。
幸村が着替えている間に、元親は幸村の扱いについて家臣たちと簡単に話を付けてくると言っていたので、それまでは大人しくしているように言われている。
監視役にと付けられた佐助は、幸村にとっても佐助にとっても監視とは名ばかりの存在なので、それは元親が気を利かせてくれたのだろう。
あんな状況でここまで心を砕いてもらえるとは、誠に懐の深い人物だと幸村は感服した。
しかしいざ佐助に連れられて部屋までやってきたものの、その部屋は閑散とし過ぎていて何処を見回しても何もなかった。着替えるためにやってきたというのにその着替えすら無いというのはどういうことなのだろうか。
「…さ」
「着替えはここ」
名前を呼ぼうとすれば、幸村の問いかけの内容を分かっていたかのように佐助が小袖を手にしていた。
どこからそれを取り出したかは不明だが、着替えさえあればこの何もない空間でも目的は果たせる。
とりあえず着替えようとボタンに手をかけつつ、後ろに立っている佐助へと目をやった。
「ここは一体なんのための部屋だ?」
無言というのも変な感じがしたので間を持たせるつもりで口にした言葉だったのに、返ってきた答えは予想外のものだった。
「ここ、俺様の部屋」
「お前の…?」
そう言われてもう一度周囲を見渡してみるが、特に何も見当たらない。
もともと人が使うために作られた部屋ではなく、多分物置か何かだったのだろう。明かり取り用に設えられた高い位置にある小さな窓と、余計なものが何もない簡素な板張りの床。
こんな場所を自分の部屋だというのだから、変な話だ。
「その割には物が全く見当たらんな」
上着を脱ぎつつそう答えを返せば、当たり前のようにその上着を佐助が受け取った。
「…まぁ、俺は物を持たない方だから」
「せめて寝具くらいはあっても良いと思うが?」
「んー、まぁそのうちね」
適当な言葉ではぐらかされているのを理解しつつも、幸村はその話題をそこで切った。
次は何を問いかけようかと逡巡しつつ、胸に小さく校章の入った白いカッターシャツを脱ぐとそれも佐助に手渡す。カッターシャツの下には赤いTシャツを着ていたが、それは別に脱ぐ必要は無いだろうと判断してそのまま小袖を受け取った。
「変わった衣だね、それもこれも」
「ん?」
佐助の問いかけに視線を小袖からシャツへと移すと、どうにかして畳もうと蹲って四苦八苦している佐助の姿が映った。
和服は和服で畳み方があるが、カッターシャツなどは襟を避けて畳まなければいけないため、いくら器用な佐助と言えど慣れなければ難しいだろう。
「わざわざ畳まずとも丸めておけばいい。上着もその辺に放っておけ」
「って言ってもなぁ…、皺になっちまうじゃないの」
そう言って苦い顔をした佐助の姿と、あっちに残してきてしまった方の佐助の姿が不意に重なった。どちらの佐助もこんな風に妙なところで真面目なところは全く変わらない。
それがどうにもおかしくて、何処からか温かい感情が込み上げてくる。
「お前はやっぱり変わらんな」
そう言って感情のままに笑みを浮かべれば、それにつられるようにして佐助も口元を緩めて見せた。
「旦那の方こそ、全然変わってないよ」
「そうか?」
そんな風に断言されるほど自分は昔と変わらないのだろうかと考えつつ、小袖をぱらりと広げて袖を通す。
麻の生地では肌触りが悪いが、この衣が佐助のものかと思えば何故か嬉しかった。思いのままに口元をほころばせると、佐助が帯を手にして寄ってきた。
「ほら、そういう締まりのない笑顔なんて特に」
「お前のその憎まれ口もな」
意地悪く笑んでそう言ってやれば、佐助も似たような表情を返してきた。
「あんたのこういう大雑把なところも、困ったことに全然変わってないねぇ」
そう言って佐助は幸村が無造作に引っ掛けた小袖の合わせを丁寧な手つきで整えていく。
しかも溜息まで一緒に付いてくるのだから、仕草がわざとらしいことこの上ない。
「…お前の世話焼き気質の方こそ全然変わっておらん」
不貞腐れたように幸村がそう言えば、佐助が目を伏せながら不意にその笑みを崩した。
「はは、世話焼きとか…!俺がこんなことするのはあんただけに決まってんでしょーが」
「そ、そうか」
何故かそれを嬉しいと思ってしまい、幸村は思わず口ごもる。昔の幸村ならこういう時はもう少し違った反応を返していたかもしれない。
けれど今はもう無理だ。自分の中にあるこんな独占欲をはっきり自覚できる程に、その感情は形を持ってしまっている。
佐助が他の誰かにこんなことをするのは、嫌だと思う。
軽口を叩いて笑い合うことも、この近しい距離でのやりとりも。
そして名前一つさえ。
「なぁ、佐…」
そう名前を呼ぼうとして、先ほど元親が口にしていた言葉を思い出す。
佐助に向って元親が呼びかけていた、幸村の知らない名前。
確か佐平次といったか。
あれはいったい何なのか、それが酷く気になった。
「佐助、長曾我部殿が呼んでいたお前のあの名は何だ…?」
純粋な疑問として問いかけたいのに、己の声に何故か責めるような色が混じり、それを慌てて誤魔化そうと苦笑を浮かべてそれを押し隠す。
聡い佐助が、幸村のこんな拙い仕草に誤魔化されてくれるのかは分からないが。
しかし佐助は幸村のそんな態度に反応することはなく、つい今しがたまで浮かべていた笑みを掻き消すと、不意に目を閉じた。
「佐助?」
いったいどうした?という問いかけの意味で名を呼ぶと、佐助はまるで痛みでも走ったかのような表情で、この距離で無ければ分からなかったくらいのささやかさでその身を震わせた。
「その名前」
「名前?」
「うん、俺の名前」
「“佐助”?」
呼んだ瞬間、佐助は目を開けて幸村へ視線を合わせてきた。
いつもは感情を読ませない目をしている癖に、今は酷くまっすぐ幸村を見てくる。
佐助は一呼吸分そのままの状態で沈黙すると、不意に何かを思い出すような表情を浮かべてこう言った。
「その名前は、あんたの首と一緒に埋めたはずだった」
告げられた言葉に、思わず硬直する。
この首とともに、その名を埋めた?
それはどういった意味を持つのか。
「あんたってば、最期の言葉で俺に“生きろ”なんて残すんだもんなぁ…」
生きろ?
自分の最期の言葉は、そんな内容だっただろうか。
酷く曖昧なその部分の記憶は、生憎己の首を佐助へと託したところまでしか残っていない。
残っていないが、その途切れた記憶の部分に存在していたというやりとりの中に、この男をこの世に繋ぎ止める言葉があったのだ。
確かに幸村としては佐助に生きていてもらいたいと思っていた。主という枷が消えたのなら、せめて自由にと。
けれど、今は。
「しかも一方的に言ってそのあとすぐに死んじまうし」
恨みがましい目をして言われたその言葉が、出会った瞬間の佐助の様子を思いださせる。
我を失ったように幸村の生を確かめてくる必死な様子と、声にならぬ“会いたかった”という意思の涙。
あんな激情を抑え込ませた上で送る、その生とは一体、どれほど苦しいものだったのだろうと。
それはもう、痛いほどわかってしまった。
幸村は佐助より先に死ぬべきでは無かったと。
そして何より、後追いを禁じるべきでは無かったのだ。
避けようのなかった幸村の死は後悔しても無駄で、あの時は死以外に選ぶ道などなかった。
だから、せめて死なせてやれば良かったのだ。
首を託し、すべて終わらせたあと、お前も一緒に来いと。そう言ってやれば良かった。
けれど幸村は佐助にそれを許さず、一人、あんな思いをさせてまで無理やり生かした。
そして佐助は、一人生きた佐助は、幸村の首を埋める時にさっき言った“名を埋める”という行動に出たのだ。
形ある物を共に葬ることを己に許さず、たった一つ名前だけを共に埋めて。
許されなかった死の代わりに、猿飛佐助の存在を殺すかのように。
「佐助」
名前を呼べば、すぐ目の前に立っている佐助がまたもほんの僅かに震えた。
そして佐助は伏し目がちに笑う。
「名前くらい良いだろ。…あんたと一緒に、死なせても」
「……っ」
言われた言葉に、胸のあたりが引き裂かれるような痛みを覚えた。
その痛みが訴えるままに、すぐ目の前の体を引き寄せる。
「佐助」
「うん」
「佐助…っ」
名前を呼ぶたびに、泣きたくなった。
後悔と、深謝と、良いようのない愛しさと。
言葉にならない色んな感情がぐるぐると渦巻いて、その全てがめちゃくちゃに絡み合う。それが次から次へと溢れてくるのに、出口はどこにもなくて胸が苦しい。
その苦しさに耐えるように、引き寄せた体を強く抱きしめた。
「俺のいない生は、お前を苦しめたか」
「さぁね」
「死にたかったか」
「どうだろうね」
そんな風に軽く返される言葉に、涙が溢れてくる。
その雫は頬を伝う前に瞼からこぼれ落ち、ぽたりと佐助の肩に染みを作った。その染みが瞬く間に広がっていく。
涙が止まらないのだ。
そのままどうやっても堪え切れない涙をぼたぼたと零し続けていると、佐助の手が慰めるように幸村の頭へと触れてきた。
「あんたの言を借りる訳じゃないけどさ」
ぽんぽんと幼子でもあやすように幸村の頭を撫でながら、佐助は穏やかな声音で続けた。
「俺が今生きてるのも、あんたが俺に“生きろ”って残したのも、全部今あんたに会うためだったんじゃないの?」
だからもう良いのだと。
言外にそう言われて、また涙が溢れてきた。
「相当恥ずかしい台詞吐いてるとは思うけどさ、何かもうそれでいいんじゃない?」
「そうか」
「うん」
「俺に会うためか」
「うん」
迷うことなく肯定されるその言葉に、とくとくと鼓動が速くなってくる。
「佐助」
確かめるようにその名を口にすれば、佐助が耳元でくすりと笑った。
「恥ついでに言っとくと“その名前で俺を呼んでいいのは真田幸村だけだー”なんて恰好つけたりもしてるんだけど」
茶化して言われたその言葉に、さっきよりさらに鼓動が速くなる。
この男はそれを分かって言っているのだ。
こんな風に密着していれば、感覚の鋭い佐助が幸村の鼓動の早さに気が付かないはずがない。
けれど言われた言葉の内容はやはり嬉しく、自分だけ感情を掻き乱されて悔しいのに鼓動が早まるのを抑えられない。
標準の範囲内だと思っていたはずの独占欲は、実はかなり深いものなのだとこの時改めて実感した。
「お前は、どこまでも俺を自惚れさせる…」
「何が」
耳元で響いた佐助の声は、酷く楽しげだっだ。
「佐助」
「何?」
「約束しろ」
「ええ、いいですよ」
約束の内容を聞く前に、佐助は肯定してしまった。
答えの分かっている約束を、幸村は口にする。
「俺以外に、その名を許すな」
「当たり前でしょ」
すぐに返ってきたその肯定の言葉にそっと口元を緩めると、幸村は更に続けてこう言った。
「だから俺も約束する。…もうお前より先に死んだりはしない、と」
「……っ」
幸村の口にしたその約束に、佐助が息を呑むのがわかった。
一瞬強張ったように身を震わせて、怖々と息を吸ってゆっくりと吐く。至近距離だからこそその動揺がより鮮明に伝わってくる。
昔はこんな風に佐助の変化を読み取ったりは出来なかった。
けれど今はそれが可能になっている。
それは幸村が昔より成長したからなのか、それとも佐助が気を緩めているからなのかは分からない。
けれど幸村の言葉一つでこんな風に身を震わせて、とくりとくりといつもは静かな鼓動を速める姿はどうしようもなく愛しく思ってしまう。
「お前を残して、死んだりしない」
あっちに残してきてしまった佐助にも言った言葉を重ねて約束すれば、不意に佐助が吐息のような笑い声を洩らした。
そしてどこかやけくそのような声音で言葉を続ける。
「はは…何かそれ、愛の誓いみたい」
「………!!」
その言葉に、思わず幸村は顔をがばりと上げてしまった。
顔を上げた先にはどこか悪戯っぽい笑みを浮かべた佐助が居て。やはり、その表情と記憶の表情が重なる。
しかも、発言まで同じとは。
「…っく」
幸村は堪え切れずに噴き出してしまった。
仕草や表情は変わっていないと思っていたが、こんな切り返しの言葉まですべて同じだとは。
「お前…やっぱり昔から全く変わっておらんのだなっ!!」
笑いの衝動のままにそう言って、さっきの名残だけでは無いであろう涙を拭えば、佐助が面白くなさそうな顔をした。
「何その反応…。いくら何でも笑い飛ばされるとは思ってなかったんだけど?」
「いやなに、ついこの間同じことを言われたばかりでな」
そう言って笑えば、佐助は何故か急に表情を硬くした。
「…同じこと?」
「佐助?」
ぼそりと呟かれた言葉がうまく聞き取れず名を呼べば、一瞬の沈黙の後、佐助は変に明るい笑みを浮かべてみせた。
「俺と同じことを言われたってことはさ」
「は?」
いきなり変わった態度に付いていけずに幸村が間抜けな声を洩らせば、佐助はそれを無視して更に続きを口にした。
「いるんだ?あっちとやらに、あんたの想い人」
「…え?」
想い人と言われて、このとき幸村の頭の中にはしっかりと佐助の顔が浮かんだ。
そして当然のようにその顔と目の前の顔とが重なり、何で本人がわざわざそれを聞くんだ?と至極もっともな疑問を浮かべてしまった。
しかしそれを知らない佐助は無視して更に問いかけてくる。
「その子、可愛い?」
「はぁ?!」
幸村は混乱した。
可愛いかと聞かれた対象は幸村の想い人であって、つまりは佐助だ。そして佐助が可愛いかと言われれば、どうにもその単語と結びつかず。
世間一般で言う可愛いというのは、ふわふわもこもこした小動物だとか、無邪気に遊ぶ子ども達とか。
幸村の頭の中での“可愛い”と印象を抱く対象は大体そんな感じだ。
その上今の問いかけをそれらしく変換すれば「俺様可愛い?」になる。
間違っても可愛いと答えたくはない。
「ねぇ、可愛い?」
「…う、んん?」
可愛いとは答えたくない幸村に向かって、佐助は妙な迫力をもってそう問いかけてくる。
身を乗り出して問いかけられたその言葉に後ずさりしつつ、幸村はつい迫力に負けて答えを返してしまった。
「かっ可愛げは全くないが…。ところによっては…っ可愛いと思えないことも、無いというか、その…一応頑張ってみる、が」
しどろもどろで何を口走っているのだと自己嫌悪に陥りかけたが、佐助は何の感情も映さない鏡みたいな目で幸村を見ていた。
その目を見て幸村が僅かにたじろいだのに、佐助は何故か問うことをやめない。
「じゃあ、美人?」
「び、びじん…??」
可愛いの次は美人と来たか。
何故こうも自分を称するのに相応しくない単語ばかり選んでくるのだと文句を言いたいが、佐助の様子は冗談を言っている時のものではない。
「違うの?」
「い、いや…整った顔をしているとは、…思う。というか、美人というよりも、男ま…いやいやいや何でもないっ」
何でこんな尋問みたいな雰囲気の中で本人を目の前に告白めいたことを言わされなければいけないのだ!と幸村は憤慨したいが佐助は未だにその作り物めいた表情をやめない。
「その子のこと、好きなんだ」
「好…っ?!」
この直球の発言には流石に幸村も頬を染めた。
自分でも分かるくらいかぁっと頬に熱が昇ってきて、心臓がとくとくとその鼓動を速める。
口はぱくぱくと酸素を求めるように無意味に開いたり閉じたりしていて、自分でいうのも何だがかなり間抜けな様子だろう。
しかしすぐ目の前にいる佐助は、そこでいきなり表情を消し去った。
さっきまでの不思議な笑みが嘘のように、あっというまにその表情は霧散した。
残ったのは人形のような無表情のみ。
そしていやに低い声で、こう告げた。
「ああ…言わなくても、今の反応で分かったよ」
「な、何が…?」
問いかけられた内容に反して佐助の表情が硬過ぎる。
一体この男は何が分かったのだろうか。と幸村が思案したところで佐助はまた一歩幸村へと近づいてきた。
何故かその動きに言い知れぬ気迫というか、得体のしれない重圧のようなものを感じてしまい、幸村は再度後ずさった。
しかしそこでとん、と軽い音を立てて壁に行き当たる。
初めから壁際で着替えていたのだから、すぐに壁に行き当たるのは当たり前のことだ。
しかし目の前の佐助の様子がどうにもおかしくて、ついつい後ろに下がりたくなってしまう。
「さ、佐助?」
ぴたりと壁に張り付きつつ、そうやって名前を呼べば。
佐助は何とも言えないような表情を浮かべてみせた。
笑おうとして失敗したような、それでいて泣きそうで、それを必死に堪えた様な表情。むしろそれすら失敗して、無表情を装おうとして、けれど抑え込もうとした感情が大きすぎてそれすら出来なくて。
何でそんな顔をする。
幸村はそう問いかけようとしたけれど。
その瞬間、今まで見えていた佐助の顔が見えなくなった。
見えなくなったというより、近すぎて顔と認識することが出来なくなったと言った方が正しいか。
それと同時に、問いの形をとりかけていた唇も塞がれていた。
「……っ!!」
噛みつくような、と形容するに相応しいその感触に思わず肩が震えた。
とりあえずこの間交わした口付けのお陰で前ほど混乱することはないものの、やはり頬に熱が集まってくる。
というか、どうしてさっきの流れでこんな事になるのかが幸村には理解できない。
いきなり想い人がどうとか言いだして、更には「その子可愛い?」なんて頓珍漢な内容をまるで他人事のような口調で問いかけてきて。
そこまで考えて、幸村は不意に引っ掛かりを覚えた。
何が重大な見落としをしていないだろうか、と。
しかし次の瞬間、更に頭が真っ白になるようなことが起こった。
「……んんっ」
触れ合わされている唇から、何かがぬるりと入ってきたのだ。
何だこれは?!何だこれは?!何だこれは?!と頭が真っ白になり、無意識のうちに叫び声を上げようとする。
しかし口は佐助に塞がれていて声は出せず、変わりに口が開いた分その何かが更に奥へ入ってくる。
「ん、ん、んっ…」
ちょっと、待て、何だ!と訴えてみるがもちろん言葉にならない。
とりあえず押し返そうと舌で抵抗してみれば、はっとそれの正体に気がついた。
佐助の舌だ。
なぁんだ、舌か。と思わずホッとして力を抜くと、押し返そうと伸ばしていた舌を絡め取られた。
音を立てて吸われる感覚に頭の奥がじんと痺れる。
「ん、…っ!」
とりあえず呑気にほっとしている場合ではない。
我にかえって何か行動を起こそうとするが、この場合どんな行動をとれば良いのかがまず分からなかった。
恥ずかしくて自分が死にそうなのは分かるから、口を閉じてしまいたいのは確かだけれど、そうするには佐助の舌を噛んでしまうことになる。
流石にそれは痛いと思うので却下だ。
じゃあ他にはどうすれば。
そうやって何か他に手はないかと考えようとしたところで、何も考えられなくなってきた。
自分のもので無い舌が好き勝手口の中を動き回っているという感覚は何とも言えないもので、体が無意識に逃げようとするのを佐助が片腕で戒めてくる。
腰のあたりを腕ごと抱きしめられて、その腕の感触にさえ鼓動が速くなった。
それも手伝ってか、酷く息が苦しい。
酸素を求めて自由な方の腕が無意識に宙を彷徨い始め、それは佐助の肩を押し返そうと動いた。しかしその腕を佐助が掴んで、ぎゅうと壁へと押しつける。
「…?」
佐助らしくないその行動に、幸村は状況も忘れて思わず首を傾げてしまった。
しかしそのおかげで僅かに唇が離れ、息ができるようになる。これはチャンスとばかりに息を吸おうとすると、自分のものではないような声が口から洩れて、さっきよりも更に恥ずかしくて死にそうになった。
そうしている間に、また口を塞がれる。
幸村だってこんな風に意味の分からないまま好き勝手されるつもりはない。
しかしどう行動してもそれが裏目に出ているような気がして、まともな抵抗が出来ないのだ。
身を捩れば捩るほど腰へと回された腕に力が込められ、その分佐助との距離が近くなる。
腕が自由にならないなら足で、と足をばたつかせると、今度は足を膝で割られて壁へと体を押し付けられた。
この状態では動くことすらままならない。
こうなったらせめてもの抵抗ということで、耳朶を打つ発狂しそうな水音を必死に聞かなかったことにして、至近距離で感じる熱っぽい吐息もとりあえずは頑張って無視した。
微々たるものだが、今の幸村にはこれで精いっぱいだった。
そしてもう一つ、熱に浮かされた思考の片隅で、何とも間抜けなことを考えてしまう。
人間の舌ってこんな風に動くものなのか、と。
逃げても逃げても絡め取られて、やっとの思いで引っ込めれば歯列をなぞられる。
それに身を捩っても抑え込まれて、もがこうとした時にはまた絡め取られて。
音を立てて吸われれば、泣きたくなるような羞恥と、それと一緒にぞくりと背筋を這うものがある。
苦しいと訴えて声を上げようにも、自分のものではないような声が出るだけで、恥ずかしさに拍車がかかるだけで。
そして一番の問題が、これが不快では無いことだ。
絶対に口にしたくはないが、恥ずかしくて恥ずかしくて死にそうになるこの行為は、どれだけ認めたくなくとも確かな快楽を感じているのは事実。
ぞくりぞくりと背筋を這い上る悪寒にも似た感覚は佐助が動くたびに強くなる。
腕を掴んでいない方の佐助の手がその悪寒を辿るように腰から首筋へと肌を撫で上げてきて、それだけで頭が真っ白になる。
息苦しさも相俟って意識が飛んでしまいそうだ。
そう思った瞬間、足から突然力が抜けた。
かくんと情けなく崩れた膝は、重力に抗うことなくこの身を下へと落としていった。
佐助が掴んでいる片腕が伸びるように上へと引っ張られる。
ああ、このまま下に逃げてしまおうか。
そんな甘い考えを思い浮かべれば、下には行き止まりと告げるように床があって。
ずりずりとそこへ座り込んでしまえば、それこそ完全に逃げ場が無くなった。せめて膝を抱えて頭を抱き込めばまだ逃げられただろうに、崩れるがままに身を下したせいでもうそれも出来ない。
「ふ…さす、け」
少し慣れてきた口付けの合間に名を呼べば、答えるように髪を撫でられた。
幸村に了解も取らずにこんなことをしている癖に、その仕草には優しさしか感じられない。
そう、佐助は優しいのだ。
ついこの間交わした触れるだけの口付けだって、幸村が音を上げたせいで佐助はそれ以上求めはしなかった。
今のこの行為を経て改めてその優しさを実感する。
こっちの佐助がこんな物凄いことを出来るのだから、あっちの佐助が出来ない訳がない。
ということはあの時佐助はこういう行為を我慢したのだ。
幸村だって健全な男なのだから人並みにそういう欲は理解しているつもりだし、あの時佐助がその欲を押し込めてくれたことも分かっている。
その理由の全ては、幸村にあわせてくれたからだ。
「さ、す…んっ」
呼吸の合間に再度名を呼ぼうとして、それを阻まれる。
この間は幸村に合わせてくれたのだから、今度はこっちが合わせる番なのかもしれない。
だんだん熱を上げ始めた体に促されるままにそう思って、もう逃げるなんてことは放棄してその感触に身を任せた。
されるがままだった行為を受け入れて、未だに強張っていた体から完全に力を抜いていく。
すると突然佐助が唇を離した。
あれだけ身をよじっても放してはくれなかったというのにだ。
もしかしたら力を抜いていく幸村が意識を飛ばしたのかと勘違いしたのかもしれない。
「は…、」
荒い呼吸を繰り返す幸村の前で、佐助も同じくらい息を乱していた。
濡れた唇が目に入り思わず目を逸らすが、よく考えてみれば自分の唇も似たような事になっているに違いないのだ。
それに気付いて慌てて袖で拭おうとした。
しかし佐助が未だに拘束を解いておらず、腕が口元まで届かない。
反対側の手も壁に押し付けられたままのため動かない。
「う…」
どうしよう、と視線を彷徨わせれば、佐助がまた顔を近づけてきた。
さっきの続きがくる…!
そう思ってぎゅっと目を閉じると、佐助はぺろりと幸村の唇を舐めるだけで離れていった。
「…?」
何だろう今の動物のような行為は、と思って目を瞬かせつつ、自分も同じことをやった方がいいのだろうかと思案して、何を考えているんだ自分は!と頭を振ってその考えを振り払う。
そんな百面相を幸村が繰り広げていると、佐助が声を掛けてきた。
「…あんたさ、口吸いとか慣れてないみたいだけど」
「……!!」
真正面からそう露骨に口にされて、ぐわっとまたも頬に血が上った。
羞恥の意味ももちろんあったが、慣れていないと言われたことが何故かかなり屈辱だった。しかも幸村と違ってこの行為に慣れている佐助に一番腹が立つ。
しかし佐助は幸村の様子などお構いなしに続けた。
「その想い人と…あんたはこういうこと、しないの?」
どこか切なげに響いたその声色が気になったものの、その疑問を上回るほどの激情に駆られて幸村は反射的に怒鳴った。
「今、したわっ…この馬鹿っ!!」
慣れていなくて悪かったな!と無性に腹が立って仕方がない。
その上もう本当に恥ずかしい。
思い出すだけで顔どころか体中から火が出そうになるのに、佐助の顔が真ん前にあるせいで嫌でもさっきの感触やら声やら吐息やらを思い出してしまい、転げ回りたくなる。
窓の外には海があるようだから、今から飛び込んで力の限り泳いできてやろうか、なんてぶっ飛んだ考えすら浮かんでしまうくらいだ。
しかし佐助はひとり恥ずかしさに震えている幸村とは対照的に、何だか変な表情で固まっている。
「な、何だお前っ…?そんな未知の生物でも発見したような顔をして」
多分佐助は幸村が「甘いものなんか大嫌いだ!!」とでも言ったらこんな顔をするかもしれない。
「いや、今あんた…」
そこで言葉を失ったように佐助が沈黙する。
何事かを考えているのは見て分かるが、幸村としては早くこの体勢をどうにかしてほしかった。
片腕は相変わらずがっちりと壁に抑えつけられたままだし、背に回された佐助の手はさっきから位置を変えていない。
目の前にある顔もだ。
「さ、佐助…。そろそろ放さぬか」
幸村がそう言って身じろぐと、佐助は未だに妙な表情を浮かべたままやっと拘束を解いた。
膝立ちで圧し掛かるような体勢から床へとぺたんと座りこみ、またも黙考しはじめる。
「佐助…?」
その様子があまりにも不自然で呼びかけると、佐助がくるりと目を幸村の方へと向けた。そして唇を戦慄かせる。
「なぁ、あんたの…。あ、あんたの想い人って」
誰。
最後は聞き取れないほど小さく呟かれた言葉に、幸村は眉根を寄せた。
「は?」
何をこの男は今更。
そう思った幸村は、はっと佐助の真意に気がついた。
この男は、幸村の口から“好きだ”と言わせたいのだと。
「お、お前はまたそんな狡いことをっ…!!」
なんて男だろうか。
そう言えばこの間だってあんな風に唇だけ奪っておいて結局は確実な言葉を口にはしてこなかった。幸村だって似たようなものだが、先に仕掛けてきたのは佐助のほうだ。
「お前っ自分が言っていないくせに俺に言わそうとするな!!」
「ちょ、ちょっと待った。俺が、何を言ってないって…?」
「だからそれが狡いと言っている!!お前から仕掛けてきたのだからここはやはりお前から言うべきだ!」
「や、待って。何か会話がおかしくない?」
「おかしいのはお前の頭だ!!」
「お、おかしくても良いからっ、とりあえず教えてくれよ!」
「だからお前が先に言え!!」
「それが分かんねぇから聞いてんでしょーがっ」
「こっの!!お前はぁぁっ!!」
「うわっちょっと!怒んないで!!と、とりあえず、俺の何が狡いのかだけでも教えてくれよっ!」
叫ぶように言われた言葉に、頭に血が上った幸村は反射的に答えを返した。
「俺から先に好きだと言わせようとすることに決まってるだろうが!!」
言ってしまってから、それが思いっきり告白になっていることに気がついた。
意地でも口にするものかと気を付けていたのに、ついつい佐助の口車に乗せられてしまったのだ。
悔しすぎる。
しかし口にしてしまえばもう止まらなかった。
「…あああ、あんな風に唇だけ奪っておいてっ一言も無しとはお前は一体どんな神経をしておるのだ!確かに俺もまだはっきりと言葉を返した訳ではないが、お前っあれだけ真っ赤になっておったのだから俺の想いくらい気付いただろう?!しかもこっちに来たら来たでお前はあんなっ、くっくっ口吸い…を、〜〜〜〜っ慣れてなくて悪かったな!!」
そこまで一気に叫んで、ぜえはあと肩で息をする。
もう本当に、向こうでもこっちでも佐助に振り回されてばっかりだ。好きだと自覚してからもうこんな思いばかりしている気がする。
そうやって幸村が、自分だって佐助を振りまわしていることを棚に上げて胸の内で独り言ちた瞬間。
そもそもの根本的な間違いに気付いた。
「……ッ!!!!」
顔からはさーっと音を立てて血の気が引いてゆく。
つい今しがたまで、本当に直前まで、幸村は向こうの佐助とこっちの佐助を一緒にして考えていた。
いつから混同してしまっていたかは定かでないが、とにかく一緒にして考えてしまっていた。
しかし実際は違うのだ。
向こうでのあれやこれやをこっちの佐助は知らないし、さっきの狡い云々のくだりもこっちの佐助には八割方責任のないことだ。その前にまず想い人の件に関しても何を言われているか分からなかっただろう。
というか、まさか自分だとは思いもよらなかったから、佐助はあんな風に的外れな問いばかり投げかけて来たのだ。
可愛いとか、美人とか、好きだとか。
あれは完全に頭の中に女の子を思い描いた上での問いかけだった。そして勘違いして、幸村の想い人とやらに嫉妬して、あんな。
「………っっ!!」
さっきのあの貪るような行為の理由に思い至り、全身の血が沸騰するかと思った。
嫉妬。
あの佐助が嫉妬。
感情の制御に長けていて、いつだって飄々としているこの男が。
自分の言葉が足りなかったばかりに、あんな表情をさせてしまったことはかなり申し訳なく思ったが、これはこれで嬉しいとか感じてしまうのはもう頭がおかしくなってしまっているのだろうか。
「いや、待て」
そこで幸村は更にもう一つの可能性に気付いた。
こっちの佐助と向こうの佐助が別だというのなら、今のこの感情もさっきの行為も、世で言うところの…。
「ううううう浮気じゃないぞっ!!!!」
幸村はとりあえず叫んだ。
そうだ、向こうの佐助とこっちの佐助が別だというなら、やっぱりそういうことになるようなならないような、いや、やっぱりなるような。
「ならない!!!」
自分の思考を自分で否定しつつ、幸村は何も聞こえないとばかりに耳を塞いだ。
「ちっ違う!これは違うぞ!逃がしてくれなかったのは佐助なわけであって…!そう、俺は俺なりに抵抗した!かなり頑張った!」
その努力は報われなかったけれども。
「いや…っというかまず、あいつがこれを覚えていたら何も問題ない。結局自業自得ではないか…!!」
はははは、と無理やり空元気のような笑い声を洩らしつつ、幸村は塞いでいた耳から手を放した。そして佐助がいる方向へ顔を向けると、一息に宣言する。
「お前、覚えてい…ろぉぉぉっ?!」
宣言しようとしたが、無理だった。
目を向けた先には、佐助が実に様になった仕草で腹を切ろうとしていた。
そう、どこからどう見ても幸村の記憶にある通りの切腹の所作を取っていた。
「ちょっ…佐助ぇぇぇぇっ?!」
慌てて幸村が飛びついて小太刀を弾き飛ばすと、佐助はそれを拾おうとでも言うのだろうか、素早い身のこなしで幸村の拘束から逃れようとする。
「邪魔しないでくれ!!頼むから!!」
「ちょっと待てっ!話が見えん!!」
「や、もうこれ死んで詫びます。マジでごめん旦那っ」
「余計に意味が分からんわっ!!」
力一杯暴れてくる佐助をこれまた力一杯幸村が抑えつけると、佐助は自棄っぱちのような笑みを浮かべた。
「あっはは畜生何なのこの夢?!旦那がマジで本物っぽいんですけど!」
「ゆ…夢?!」
何を言っているのだろうかこの男は。
幸村はそう思ったが、佐助はどうやら本気のようである。馬鹿力に関しては定評のある幸村の拘束をものともせず、床に転がる小太刀の方へ飛びだそうとしているのだ。
「佐助!!やめんかっ!これは夢なんかじゃない!!」
幸村が必死に抑えつけながら叫ぶが、佐助の耳には本当の意味ではその言葉が届いていない。
「うわぁっ畜生、何でこんな良い夢な訳?!旦那が俺のこと好きとか、何だそりゃ!夢見るにもほどがあるっての!っていうかなんつー夢だ!何かもうここまで鮮明ならいっそ食っちまうか?…とかいう俺の煩悩消えろぉぉぉっ、ああもうっマジで消えろっ!うぁあもうっ旦那、マジでごめんっ!こんな夢見てほんとごめん!!」
そう言って尚も佐助は抵抗をやめない。
しかも全力で幸村へと詫びながらだ。
詫びるくらいならこの抵抗をやめてほしいというのに、佐助はもう完全に思考が吹っ飛んでいた。
そして幸村の方も、これまた吹っ飛びそうだった。
佐助と違って思考の方では無い。
『忍耐』という二文字がだ。
「こぉんのっ…!!」
腹の底からそう声を出せば、ぶちりとどこかの緒が切れた音が聞こえたような気がした。
これは多分堪忍袋の緒なのだろう。
そうやって頭の隅に残った冷静な部分で考えつつ、幸村は拳を握った。
そして衝動のままにそれへと力を込めると、裂帛の気合いとともに思いっきり突き出してやる。
「大馬鹿者がぁぁぁぁぁぁっ」
拳と一緒に腹の底からそう叫けびつつ、幸村は全力を持って佐助を殴り飛ばした。
13へ戻る ・ 15へ進む
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
長い。
(09.6.13)