あの人の、声を聞いた気がした。
「だから違ぁぁぁうッ!!」
天を裂くようなその馬鹿でかい声は、確かに空気を震わせて響いた。
そして佐助の耳にも届いた。
その声を捉えて、声の主を思い出して、体震えそうになって。
けれど聞き間違いだと言い聞かせる。
あの人はもういない。
佐助の目の前で死んだのだ。
もう、死んだのだ。
何度も繰り返し言い聞かせて、乱れかけた内側を必死に抑え込んだ。
なのに。
「長曾我部殿!」
その声は止むことが無く、未だに響き続ける。
あの人はもういないと頭では分かっているのに、体がその声の方向へ向かって行ってしまう。
どうせ行ってもあの人はいなくて、声がただ似ているだけの全然知らない人間がいるだけなのに。
こんな風に声にすら縋って、あの人の影を追い求めて、この世にはいないという事実をこの身に更に刻みに行く。
なんて愚かな行為だろうか。
またあの奈落に突き落されるような感覚を覚えるだけだろうに、それでも向かってしまうなんて。
まるで自分の体に何度も刃を突き立てているみたいだ。
耳に届く声は近づけば近づくほどあの声に似ていて、本物と錯覚してしまいそうになるほどそっくりだ。
聞かなくなって久しいから、本物の声を忘れてしまったのかもしれない。
偽物と本物の違いすら分からないほど、もう自分は狂ってしまったのだろうか。
焦がれて、焦がれて、焦がれて。
本当はこの声はあの声と似ても似つかないようなもので、ただ自分があの人の声を聞きたいから、こんな声になってこの耳に届くのかも知れない。
それでも足が向かうのは、止められない。
頭では分かっているのに体が言う事を聞かない。
この先にいるのが似ても似つかないような人物なら、自分はまた一つ思い知って耐えるのだろう。
そしてあの人の最期の言葉の通りに“生きる”のだ。
思い焦がれる死から目を逸らしながら。
そう思って、半ば覚悟を決めてその声の発生源を目にした瞬間だった。
なんだ、あれは。
耳ばかりでなく、目までおかしくなってしまったのかと思った。
視線の先にあの人がいる。
あの人がいる。
死んだはずなのに、動いて、話して、あんな風にくるくると表情を変えて。
「旦…、」
駄目だ。
死んだはずだ。
あの人は死んだはずだ。
この手で首を斬った。
あの感触を思い出せ。
思い出せ。
忘れるわけ無い。目を閉じれば震えが走るほどに鮮明に思い描ける。
思い出せ。
何も映さなくなったあの虚ろな目。
思い出せ。
熱の消えてゆく体。
思い出せ。
息をしなくなった喉。
鼓動を止めた心の臓。
思い出せ。
けれど、駄目だ、どれだけ否定しても、目の前にあの人がいる。
死んだと言い聞かせても、あの人の姿は消えない。
これは夢なのだろうか。
それとも己の願望が見せた幻?
いや、もうどっちでもいい。
幻でも、白昼夢でも。
どっちでも変わらないのだ。目の前にあの人がいる。
目が逸らせない。
何もかもがどうでも良くなって、体からぞわりと何かが這いだしそうになる。
訳の分からない衝動がぐるぐると暴れまわり、身の内と外でぐちゃぐちゃに絡む。
「旦那」
体が言う事を聞かない。
さっきよりももっと酷い。
全部の感覚があの人に引き寄せられるように向かって行って、音も色も空気も全部消えた。
傍に行きたいのに体は動かなくて、それなのにあの人以外の全てが分からなくなって。
「旦那」
出し方の分からない声が、勝手にそんな言葉を形作った。
その呼称を向ける相手はきょろきょろと周囲を見渡していて。
その表情の意味は何。
視線を向けるなら、こっちにして。
そんな思いを抱けば身を焦がすような激情が沸き立つのに、体は動かない。
近づきたい。
けれど出来ない。
消えてしまいそうで、ほんの少し瞬きでもすれば、幻のように掻き消えてしまいそうで。
ここから少しも動けない。
なのに、あの人の口が何かを呟く。
「 」
何て言ったの。聞こえない。
口の動きを読もうにも、すぐ傍に立っている障害物が邪魔で良く見えない。
何て言ったの。
もう一度言って。
そんな思いは、次の瞬間霧散した。
掲げられた槍が目に入って、その下にいるのがあの人で。
一心不乱に何かを探しているその目にはすぐ傍の強靭が映っていない。
駄目だ。
あの槍が、振り下ろされたら、あの人が。
その考えに至るのは、体が動き出した後だった。
灼熱のような真っ白な思考の中、唯一つの揺るぎない意思が音を立てて燃え上がる。
そうだ、いつも佐助はこうやって生きてきた。
無茶ばかりするあの紅蓮の背を追って駆け、影となり、盾となり、あの炎を守る。
それが佐助の生き方だった。
あの人の死とともに忘れていたその感覚は、記憶というより体が覚えていたらしい。
無意識のうちに動いたこの体は、魂と一緒に消えかけていた心まで揺さぶって、咆哮を上げる。
誰の許しを得て、その人に傷をつけようというのか。
己の存在の根底にあるその思いは、信じられない速さで体をそこへと運んだ。
耳障りな金属音と、腕にびりりと走った衝撃。
肩ごと持っていかれそうな重さのそれを真正面から受け止めて。
「…っ」
相手が息を呑むのを感じつつ、この巨大な槍を受け止めたはずの腕は確かに痺れたはずなのに痛みは感じなかった。
痛覚など無視しろ。
己の痛みすら殺せ。
必要なのは目の前の敵をどうするかということと、背に感じるあの人の息遣いだけが全て。
敵を排除して、この人を守るのだ。
「よぉ、佐平次?」
目の前の男が何かを言った。
けれどその言葉の意味が分からなかった。
だから何も答えは返さず、手の中の得物に力を込めた。早くこの敵を無力化してしまおうと。
なのに。
「佐助」
こんな時に、どうしてその名前を呼ぶ。
たったそれだけで、何も考えられなくなるのに。
目の前に敵がいるのに何も見えなくなって、感覚全てが後ろに集まっていく。
そんな場合じゃ無いのに泣きそうになって、息の仕方が分からなくなった。不格好に肺が変な音を立てて、喉がきりきりと痛む。
心臓はあり得ない速さで脈打って、さっきまで確かに見ていたはずの景色が眩んでいった。
手していたはずの武器の感触もいつの間にかなくなっていて、確かな重みを伝えていたはずの大手裏剣が鈍い音を立てて浜の砂へと転がった。
それを拾わなくちゃいけないと思って、下へ意識を向けようとした瞬間。
焼けつくような熱を感じた。
それが何かと思えばあの人の手で、こちらの腕をがっちりと掴んだその手がこの身をぐいと引きよせる。
「…っ」
抗おうにも体に力が入らず、引かれるままに体が反転させられた。
そして目に入ったのが。
「…旦、那」
「佐助」
自分の口から出た頼りない声と、目の前の人の口から放たれた声が重なった。
呼ばれれば体が震える。
もう聞けないと思っていた声で、この人と一緒に埋めた名前を呼ばれる。
もう、訳が分からない。
この人は確かに死んだはずだ。そうやって何度も繰り返した思いを飽きることなく反芻する。
今佐助を映しているこの大きな目は、あの時確かに光を映さなくなって。
こうやって名を呼ぶ口は呼吸を止めた。
なのに、どうして。
死んだはずだ。
死んだはずなのに、今こうやって目の前に立っている。
どうして。
死んだはずなのに。
痛いほど何度もそう言い聞かせてきたのに。
「なん、で…」
何で生きてるの。
そう言いたいのに上手く話せない。
声が不格好に震えて、さっきから息すら上手くいかない。
「なんで…、生きて」
「佐助」
身を裂くような問いかけは、幸村が呼んだ名前に遮られた。
たったこれだけで頭が真っ白になる。
完全に諦めていたものをこんな形で目にして、耳にして。
これを本物だと認めてしまったら、もう駄目だ。
声が本物で、目にした姿も本物で、こうやって目を合わせただけで、全部分かってしまう。
この人は、真田幸村だ。
焦がれて、焦がれて、焦がれて。
ずっとぎりぎりで、限界で、我慢なんてものはもう利かなくなっていて。
「旦那」
そう呼んで、焦がれるままに手を伸ばしたら、その人は笑って伸ばした手を握り締めた。
最後の記憶の手の感触とはまるで違って、その熱すら震えが走るほど大切すぎて。
「真田の旦那っ…」
この人が、生きている。
死んだはずなのに、こうやって生きている。
触れれば熱を感じた。
話しかければ声が返ってくる。
それを改めて確かめれば、また喉が引きつるような痛みを訴えてきた。
「佐助」
呼ばれた声に答えを返したいのに、不格好に引き攣る喉からは声が出ない。
「佐助、…泣くな」
そう言われて、頬のあたりを指で拭われた。
自覚は無かったけれど、目の前にある幸村の顔が僅かにぼやけているのは涙のせいなのだろう。
そんなもの、流し方すら既に忘れたはずだったのに。
「佐助、俺は生きておる。…だから泣くな」
困った顔をした幸村が、何度も頬を拭ってくる。
幸村の言うとおり涙を止めたいが、流している自覚すら無いので制御は無理だ。
むしろどうやったら止まるのかを教えてほしい。
「なぁ佐助、どうやったら止まる?」
「さぁ…分かんねぇ」
本気でどうやったらいいのか分らずそう言えば、ますます困った顔で幸村がぐいぐいと頬を拭ってくる。
佐助の涙にかなり動揺しているらしい。
「目を閉じてみたら止まるんじゃないか?」
「やだよ」
「何故だ?」
「あんたが消えちまいそうだから」
そう言って目の前にあった体をぎゅうと抱き込めば、そこには確かな熱があった。
抱きしめた体は確かに脈打っていて、呼吸もしていて、温かい。
生きていることを何度も何度も確かめて、泣きそうになる。
否、今現在泣いているのだ。
「なぁ、なんで生きてんの?この首、なんで繋がってんの?…俺、夢でも見てんのかな」
「夢ではない」
「じゃあ、何で生きてんの?」
「俺にもよく分からん」
「何だよ、それ」
「知らぬ。…知らぬが、いつの間にかこっちに来てしまっただけだ」
「こっち…?」
それではまるで、あっちがあるみたいではないか。
「あんた、何処から来たの」
混乱する頭で声だけは冷静にそう告げれば、幸村の声も酷く落ち着いていた。
「…詳しくは分からんが、この世ではないことは確かだな」
「何それ…、あの世か何か?」
「分からぬ」
「どうやって来たの」
「分からぬ」
「何でこっちに来たの」
「分からぬ」
「何でここに来たの」
「分からぬ」
「じゃあ、いつか元居たところに帰るの」
「ああ」
その問いにだけは、幸村は明確な答えを返した。
「…そう」
佐助は幸村の背に回した腕から力を抜くと、ようやく止まり始めた涙に濡れた目で再度幸村を見た。
そしてやっぱり幸村は、手を伸ばしてまたも佐助の頬を拭ってくる。
お世辞にも丁寧とは言えない手つきだが、その乱暴な仕草も相変わらず皮膚の固い指の感触も、全部記憶の通りで。
この人は真田幸村だと、そうやってまた実感する。
いきなり現れたと思えばいつか帰るなんて、実に酷い言葉を告げたというのに、こんなことをされれば問おうとしていた言葉すら溶けて消えていくではないか。
佐助がそんな思いを抱きながら大人しく涙を拭かれていると、幸村が動きを止めずに唐突に口を開いた。
「俺はあまり海とは縁がないのだ」
「……?」
相変わらず突飛なことを口にする人だと、そう思いつつも佐助は動かない。
「普通こういう時は己にとって最も近しい場所に還るのが道理なのだと思っておった。俺の場合長野…、いや、上田か甲斐かそれとも大阪か。…とりあえずその辺りだろうな」
そうやって幸村は言葉を続けるが、何を言いたいのかは分からない。
だが佐助はひたすら無言で続きを待った。
「うむ、ずっとそれが引っ掛かっておったのだが、今やっとわかった」
そう言って幸村は一人納得したように頷くと、ひと際晴れやかな笑顔を浮かべて続きを口にした。
「俺がここへ来たのは、お前がいるからだ」
「…え」
一瞬何を言われたかが分からなくなって呆けると、聞き逃すことなど許さないとでもいうように幸村が言葉を重ねて言った。
「俺はここに、お前に会いに来たのだろう」
「………………っ」
ああそうだった、と佐助はこの時まで忘れていたことをはっきりと思い出した。
真田幸村は、大真面目にこんな殺し文句を口にする人間だった、と。
生と死の理すら曲げてここへとやってきた理由が“お前に会いに来た”とは、これほどの殺し文句など他に知らない。
それだけでも威力が半端ないというのに、佐助の状態もまずかった。。
つい今までずっと会えなくて、しかももう会えないと思っていて、それでも会いたくて会いたくてどうしようもなくて、それなのに後を追うことすら出来ないでいた、なんていうこれ以上無いほどの枯渇っぷりだ。
この状態で理性何てものを保てていたらそれはもう人間などではなく菩薩か何かだ。
そんな半ば飛び掛けた思考の中、佐助はもう無意識で幸村へ手を伸ばした。
この体を掻き抱いて、そう、何でも良い。
痕を刻みつけたい。
そんな獣じみた考えが頭を埋め尽くした瞬間、外野から声が掛った。
「おーい、お二人さん。感動の再会は良いがもうちょっと時と場所を弁えてくれねぇか。…つーか俺らを無視すんじゃねぇ」
その間延びした声に、幸村が慌てて反応した。
「おお…これは長曾我部殿!申し訳のうござるっ!!」
呆気なく離れてゆく幸村の熱が腹立たしいほど虚しい。
そして普段なら悪い印象を抱くはずもない長曾我部元親という男の存在が、殺意を抱きたくなるほど邪魔だった。
「…恨むぜ、鬼の旦那」
ぼそりと感情のままに呟けば、耳ざとくそれを聞きつけた元親が声を荒げて詰め寄ってくる。
「何言ってやがんだ佐平次!お前がなっかなか出てこねぇから俺がわざわざ泥被ってやったってぇのによ!」
その言葉に、さっき幸村に武器を向けた人物がこの男だったのかとそこで初めて気づいた。
「ああ…あれ、あんただったのか」
「おっ前本っっ当に可愛くねぇなっ!!!」
「いや、すんません…あん時この人しか見えて無かったんで」
そう言って幸村の方を指させば、幸村まで物凄く真面目な表情で元親へ頭を下げ始めた。
「申し訳ない長曾我部殿!佐助が某しか見ておらなんだせいでそのような汚れ役を…っ!!これからはもう少し視野を広くするよう厳しく言い含…」
「だからテメェもいい加減にしろ!!!何だお前ら!面倒臭ぇな!!」
頭をがしがしと掻き毟りながらそう叫ぶ元親の態度にいつもの感覚が戻ってきた佐助は、平時の飄々とした声でそれに軽く返してやった。
「ちょっとそれは聞き捨てならないんだけど?真田の旦那がちょっとアレなのは認めるけど、俺様までそれは無いんじゃない?」
「なっ…佐助ぇぇぇ!!お前アレとは何だアレとは!!」
幸村に胸倉を掴まれて怒鳴られたところに、元親まで怒鳴りかかってきた。
「ああああもうっお前らがいたら話が進まねぇっ!!!いい加減にしやがれ!!」
「も…申し訳ない」
飄々と悪びれない佐助とは違い、根は素直な幸村がしゅんと項垂れたところで元親が佐助を見た。
つい今しがたまでの激情が嘘のような、凪いだ海のように静かな目だ。
これだけで空気が一気にしまるのだから、やはり大将の座につくような人間は他とは違う。
その元親の目が佐助をじいと見つめ、ほんの僅かの間だけ視線が交差する。
「………。」
何かを言いたかったのかは知らないが、その一瞬だけで元親は佐助から目をそらした。
そして次にその目は幸村へと向けられた。
「おい」
「はい」
こっちには目だけではなく、口で問いかけている。
「あんたの身柄はやっぱりしばらく預からせて貰うぜ」
「…承知致した」
短く返した幸村は、ほんの少し表情を硬くした。
そして元親は更に続けた。
「ついでに、まだ完全に信用した訳じゃねぇから監視もつけさせてもらう」
「分かり申した」
潔く頷いた幸村を見届けると、元親は再度佐助へと目を向けた。
そしてほんの僅かに目元を緩ませつつ、元親は穏やかな声でこう言った。
「佐平次、てめぇが監視だ」
佐助には“二人で話を付けて来い”と言っているように聞こえた気がした。
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アニキは凄い良い人だと思ってる。
(09.6.7)