「よう毛利、少しは頭もしゃきっとしたか?」
「……貴様などよりも余程我の方が頭が冴えておるわ」
元親が元気よくその場へ踏み込んでゆけば、元就は不機嫌を隠しもしない顔で心底嫌そうに答えを返した。
因みに場所は地下牢である。
「ったくせっかく様子見に来てやったってのによ。…ほれ、酒だ」
「貴様は阿呆か」
心の底からそう思っているであろう元就は、そう言いながらもしっかり酒瓶を受け取っている。
娯楽の無い幽閉生活は、やはり氷の策士である毛利元就にとっても味気ないものらしい。
「悪いが柵越しで我慢してくれよ。…いくら何でもテメェをまだ出してやるわけにはいかなくてな」
「今ここで我を出したら心の底から馬鹿にしてやるぞ」
「憎まれ口は良いから酒開けろよ。俺も飲むんだ」
そう言って柵越しに盃を二つ並べて見せれば、元就は綺麗な形の眉を顰めて見せた。
「大将自らこんなところまできたと思えば敵と酒盛りだと…?貴様頭でも湧いたか」
そう言いつつも瓶の蓋を開ける手の動きは迷いがない。
言っていることとやっていることが食い違っていることに元就は気付いていないのだろうか。
そんな風に元親が苦笑すれば、元就が無駄に優雅な手つきで盃を手にした。
「言っておくが注がぬぞ。手酌で飲め」
「分かってらぁ。柵越しでそんなことまで言うかよ」
盃に並々と注がれたその甘露を目にし、元親も同じように盃を手にしてそれを満たした。酒の芳醇な香りが鼻腔を擽ってゆく。
良い酒だ。
「それじゃ乾杯といくか」
そう言って軽く盃を上げてみると、元就も一応仕草を真似たものの間髪入れず問いが返ってきた。
「何にだ」
「長曾我部軍の勝利を祝って!」
「殺すぞ貴様」
「冗談通じねぇ奴だな…。まぁあれだ、お互いの無事を祝ってってことでどうだ?」
「……貴様の無事は別にいらん」
「はい乾杯」
元就の軽口を往なして盃を掲げて見せれば、乗り気では無かったように思えた元就もきっちり盃を掲げて口にした。一応場に倣うことくらいはやってくれるらしい。
それにしても口にした酒は美味かった。
一口目の口当たりの良さはもちろんのこと、含んでからの酒精の香りと嚥下した瞬間の後味も申し分ない。度はかなり高めだというのに、いくらでも飲めてしまいそうだ。
「やっぱ美味いな」
「うむ、悪くはない」
独り言のつもりで吐いた言葉に意外な応えが返ってきて、元親は僅かに目を見開いた。
元就がこんな言葉を口にするということは、この酒はかなり美味いということになる。
「そりゃあ良かった」
思いのままにそう口にすれば、盃に口をつけたままの状態で、ほんの少しだけ元就も笑んだように感じた。あいにく盃で肝心の口元が見えないが、それを計算しての今の表情なのだろう。
無駄なところで計算高い男である。
しかしそんなことは嫌という程知っていたので、元親は気にせず問いを口にした。
「で、サンデー毛利とやらはもうどっかいったのかよ」
「……………………………。」
元就の沈黙が長い。
「おーい、聞こえてんのか」
「聞こえている」
元親の催促の声に応えた元就の声は地を這うように低かった。
しかしここで怯んではいられない。
「腹立つのは分かるがな…仕方が無ぇだろうが。こっちは問題山積みで一個一個片していかなきゃならねぇんだよ」
「じゃあせめてこれは後回しにしろ」
「馬鹿言ってんじゃねぇよ、…目下の問題は九州のザビー教だろうが。他こそ後回しだ」
そう言って僅かに残っていた盃の酒を一息に干すと、再度その中へ酒を注いだ。
「ったく…俺はこういう頭を使うことは苦手なんだよ。一気に片付いてくれりゃあ楽なんだが…」
「そんな都合よく事が進むか」
「いや、まぁ全部とは言わねぇから、せめてザビー教とあの真田の幽霊騒ぎだけでもなぁ…」
元親がため息交じりにそう零せば、元就が意外そうな顔をした。
「何故ここに真田の名が出てくる?あれはただの噂であろう」
「噂は噂でも家康がやけに気にしててな。ダチとしちゃあ助けてやりたいじゃねぇか」
「…はっ、お人好しめ」
そうやって鼻で笑った元就は、蔑むような目で元親を見つつ盃を傾けた。何やらそんな仕草が無駄に似合っていて嫌になる。
「あーあ、どうにかして一辺に片付かねぇかな」
「まだ言うか、貴様は」
「煩ぇよ。お前頭良いんだから何か頭捻れって…」
「はっ!ザビー教徒の真田の幽霊でも出ればそれも可能かもしれぬな」
小馬鹿にした態度を隠しもしない元就はそんなあり得ないことを口にした。
普段は冗談など一言も口にしない面白みのない男だというのに、やはり酒がきいているのだろう。いつもより明らかに口が軽い。
元親はあまりの珍しさに思わず苦笑を洩らしつつ、その口元を隠すように盃を傾けた。
しかしその瞬間、地響きのような音とともに数人の部下たちかこの地下牢へと転がり込んできた。
「?!」
その様子の必死さに思わず元親が目を丸くすると、その部下達は一斉に切羽詰った声でこう叫んだ。

「ザビー教に入信した真田幸村の幽霊が浜に…!!」



何とも間抜けなことに、元親と元就は同時に酒を噴き出した。




























































その男は、元親を見るなりいやに綺麗な仕草で頭を下げ、凛とした声で名を名乗って見せた。
「某は真田幸村と申すもの。突然の訪問失礼仕る」
「……お、おう」
一応答えは返したものの、元親は現在混乱の真っ只中だった。
まず真田幸村と名乗ったこの幽霊もどきの服装だ。
ザビー教に入信した真田幸村の幽霊、とかいう色んな噂が混ざったであろう子分たちの報告は正直半信半疑のままで聞いていたが、実際目にしてみると確かにそのまんまだった。
詰襟の黒衣はあのザビー教徒の服装を彷彿させるし、ここいらでは見かけない南蛮の履物もその姿の異質さをより際立たせている。
そのくせ幽霊という割にはその存在ははっきりしすぎていて、その口から放たれる言葉はただの礼儀正しい若者のものだ。
仕草の一つをとっても元親が意識して崩している武家の作法をきっちりと守っている。
武器の類いは見た感じ持ってはいないものの、凛とした空気は武人そのもの。
何を基準にこの男を測って良いのかがまるで分らない。
そうやって元親が沈黙を続けていると、真田幸村と名乗った男は相変わらず凛とした声を響かせた。
「貴殿は長曾我部元親殿とお見受けする。…何度か遠目でお会いしたことがござったかと」
「…あったな」
肯定の言葉を口にした瞬間、周囲に集まっていた子分たちがどよめいた。
元親も口にしてから気付いた。
今の言葉が真田幸村の存在をそれと認めるものだということを。
しかし元親はつい自然に答えを返してしまった。理由は分からないが、元親の根底の部分はこの男を真田幸村だと認識しているらしい。
覚えているのは、遠目で目にした印象深いあの姿。
とにかく声がでかくて無駄に暑苦しくて、やたらと真っ直ぐな目で人を見る男。
一番鮮明なのがその身を覆った赤揃えの色彩で、元親と同じ炎の異能が生み出した紅蓮とも相俟って目に焼きつくような鋭さで記憶に残っている。
今目の前に佇んでいる男は赤など一つも身につけてはいないのに、何故かその色を纏っているかのように感じた。
「真田幸村、ね…」
装いはおかしくとも、その存在は名乗った名の通りの人間だと元親の記憶が告げている。
そして肌で感じる気配も。
しかしだ。
「なぁあんた、…俺の記憶が正しけりゃ“真田幸村”は先の戦で死んでるはずなんだが」
そうなのだ。
どれほどこの男が真田幸村らしくとも、当の本人は既に故人である。
この男が幽霊ならかろうじて道理は通るが、それにしてはこの男から死の気配が全く感じられない。
晴れの国の太陽はから発せられる陽の光はこの男の上にも燦々と降り注ぎ、地へと確かに濃い人影を落としている。そして足はしっかりと二本存在しているし、踏みしめている浜の砂は確かに人一人分の重みを受けて跡を残している。
どこから見ても幽霊には見えない。
つまり、この男はただのそっくりさんか、真田幸村の名を語る偽物ということになるのだ。
だというのに目の前の得体の知れない男は元親の言葉を聞いて困ったように笑い、まっすぐに元親を見据えながらこんなことを言った。
「ここが某の死後だということはさっきお聞きした。…某もこのような体験は初めてで」
「………。」
自分が死んだという事をこうもあっさりと口にする人間などいるのだろうか。
一瞬元親はそんなことを考えたが、自分が死んだことを他人に話すことなどまず不可能なことだと気づいた。何せ話す口が無いのだから。
「おいおいおい…俺ぁ冗談を言ってるわけじゃないんだがな。それともザビー教の人間ってのは死なんてもんを超越してるとでも言いてぇのか?」
ほんの少し目に怒りをのせてそう告げれば、真田幸村と名乗るその男は分かりやすいほど嫌そうな顔をした。
「長曾我部殿までそのようなことを…。改めて申し上げるが、某はザビー教とは一切関係ござらん!」
「っていってもその格好じゃ説得力が全く無いってのをあんた気付いてるか?」
「だからこれは学校の制服でござる!!」
「ガッコウ?」
「学び舎のことでござる」
「マナビヤ?」
「学術を学ぶところで…」
「あー…つまり、教団の洗脳拠点ってことか?」
「だから違ぁぁぁうッ!!」
吼えるように叫んだその男は、悔しそうに頭を掻いている。さっきも思ったが、この空を割るような絶叫は本当に真田幸村そっくりだ。
もしかしたらこの男がうろうろしていたせいで、あの幽霊騒ぎなんてものが巻き起こったのかもしれない。
これなら本物と見間違えることもあるだろう。
「長曾我部殿!この服がそのような誤解を招くのであれば今すぐここで脱いでみせましょうぞ!」
「いや…まぁ脱ぐのは別にかまわねぇが、あんたがその衣を着てたってことは変わらないんじゃねぇか?」
「うぐっ…」
袷に手を掛けていたその男は「しまった」とばかりに動きを止めた。得体の知れない人物ではあるが、どうにも憎めない男らしい。
「まぁ…それについてはおいおい聞いていくとして、とりあえずあんたの身柄は…、」
預からせてもらうぜ。
そうやって元親が続けようとした瞬間のことだった。
いきなり空気が揺れた。
「…?!」
ざざんざざんと絶え間なく響く波の音がその動きを一瞬だけ間違えたように途切れて、どくりと波間が脈打つように蠢いた。
空には太陽が輝いているのに、人の作った影の部分から闇が侵食してくように広がりかけ、青かったはずの空がほんの僅かに暗く陰った。
鮮やかだったはずの色彩がその色を徐々に失ってゆく。
「何だ…?」
いきなり豹変した景色に皆一様に警戒を強めたが、元親は真田幸村と名乗った男の様子が他の人間と違うことに気付いた。
その男は、信じられないものでも見るような目で辺りを見回し、薄く口を開いて酷くゆっくり息を吐いた。
その息は微かに震えていて、泣き出す寸前のようにも思えた。
「?」
その表情の理由が分からずにその顔を注視していると、その男は祈るように何かを呟いた。
「   」
多分、音にはならなかったのだろう。
空気を震わせずに呟かれたその言葉は、多分まだ誰にも届いてはいない。
けれど元親はその口が呟いた言葉が何だったかを、目にしてしまっていた。
かろうじて読めるか読めないかという程の微かな唇の動き。
見間違えのようにも思えた、その言葉。
それは一人の男を指す、何の変哲もない只の名前ように見えた。

さ、す、け。

この男は、そう口にしたはずだ。
こんな訳のわからない現象が起きている中、たった一人他と違う反応を見せたこの男。
暗く陰りはじめた空を感じた瞬間に、弾かれたように周囲を見渡した反応の素早さ。
そんな男が、こんな泣きそうな顔で口にした『さすけ』という名前。
それが誰を指すかなんて、考えるまでもなく。
「ああ…そうか」
さっきよりさらに暗くなり始めた空の下、元親は穏やかな声でそう呟いた。
原因が分からなければひたすら不気味な空だが、その原因が分かればなんてことはない。
周囲の闇という闇を全て引き摺るように乱れたこの気配。
力の放つ先を見失ったように暴れるそれの正体。
それをあんな僅かな間で気付くことなど、元親には出来なかった。
けれどこの男はそれをして見せた。
「…ったく、偽物と本物を見分けるには、手っとり早いのがあるじゃねぇか」
呆れたような声でそう言うと、元親は手に握っていた長槍を無造作に持ち上げた。
穂先に付着していた砂がぱらりと散って、浜へと還ってゆく。
目の前には未だに周囲を見まわしている男の姿。
胸糞悪いザビー教徒のような出で立ちで、一心不乱に何かを探している。
すぐ傍で武器を振りかぶっている元親の姿に目もくれず、遠くへ必死に目を走らせて。
あいつは何故、これを見て姿を現さないのか。
「傍迷惑な奴だぜ」
さっきと変らぬ呆れを含んだ声でそう言うと、元親はすうと息を吸い込み、そのままぶおんと音を立てて一気に槍を振り下ろした。
「…っ!!」
息を呑んだのは周囲の人間と、目の前で元親の槍の餌食となりかけている人物だった。
真田幸村というある意味伝説的な武人の名を名乗った癖に、避けられない状態になってからこれに気付くとはどんな神経をしているのか。
それともあいつを探すことに気を取られ過ぎて、他の全てを放棄したのか。
どちらにせよ、振り下ろした槍は止まりはしない。
元親は、目の前の男を本気で殺すつもりだった。
ほんの僅かな躊躇いも無かった。
しかし響いたのは肉を裂く音ではなく、骨を砕く音でも無く、耳に鋭く響く金属の音だった。
「…っ」
手にびりりと走った痺れに息を詰めると、元親は自分の予想通りに事が進んだ様を口元を歪めつつ見据えた。
目の前には、振り下ろしたと同時に飛び込んできた一人の男の姿がある。
特徴的な髪と、黒揃えの忍び装束。そして身に纏う全ての色彩よりも尚濃い闇の塊が、ぎらぎらと不気味に光る刃を手に元親の長槍を受け止めていた。
あの男を背にして立つ姿はまるで盾のようで。
かつて見た戦場での姿がほんの少し脳裏で閃く。
「…ほぉ」
ぎぎぎと不快な音を立てるのは間で鬩ぎ合うお互いの得物。
そして口から漏れ出たのは賞賛を含んだ元親の声だった。
相手は無言。
あの高さから振り下ろされたこの巨大な槍をこうも容易く受け止め、その上雇い主相手にこうも壮絶な殺気を放ってみせるとは、やはり。
「よぉ、佐平次?」
元親が呼びかけた声に、その男は答えなかった。
ぴくりとも反応しなかった。
けれど。

「佐助」

掠れた声でその男の背後、元親の目の前で放たれたその名前に、その男は今にも壊れてしまいそうなほどに苦しげな顔をして見せた。
心ごと今にも千切られそうな気配と、色んな感情を全部ぶちまけたような目で虚空を見て。
その癖全身全霊でその呼びかけにこたえるような、そんな表情。
「やっぱりな」
元親はそう言うと、腕に力を込めて未だに合わせていた刃を弾いた。
そして周囲で息をのんで固まっている子分たちに向かってこう言った。

「どうやらこいつ、本物の真田幸村みたいだぜ」













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やっと会えた。
(09.6.3)