見る者全てを飲み込んでしまいそうな夜の海は、暗く重たく底知れぬ闇を溶かしたような色合いをしていた。
波の音は昼間と変わらず、ただ鳥たちの声が聞こえないだけで酷く静かに感じる。
陸では虫の音が響いているとしても、ここまでは波の音にかき消されて届いては来なかった。
寄せては返し、寄せてはまた返す。
暗い闇を纏った海だろうと、その波の音は酷く優しい。
その身に乗せた死者を悼む送り火を、そっと届けるように緩やかに流れてゆく。
元親は今、灯篭を海へと流していた。





















































今回の戦で亡くした部下の数は軽く百を超える。
常よりも少ない犠牲だったとはいえ、亡くしたことには変わりない。その人数が多かろうが少なかろうが、心にずきりと痛みが走る。
守れなかった部下達へ元親が出来ることといえば、心の底からその死を悼むことと、黄泉への道行きが安らかであるようにとこんな風に送り火を流すことくらいだ。
ゆったりと流れてゆく灯篭は柔らかい光を放ち、暗い闇が横たわるその海を穏やかに照らしている。
この灯篭が流れつく先が黄泉の国。
ともには往けぬこの身に代わって、彼の者達と共に歩めるように。そんな願いを込めて、この身に宿った火の異能より生まれたその灯りを緩やかに流してゆく。
「どうか、安らかに」
ぽつりと零したその言葉も、波の音に呑まれて消えていった。
その言の葉の一欠片でも海に溶けていたら、逝ってしまった部下達へと届くのだろうか。
不意にそんな思いを抱いてしまい、いつもよりも随分感傷的になってしまっていると苦笑した。
多分子分たちが今の元親を見ていたら、きっとこう言うだろう。
“兄貴には笑ってる姿が似合いますぜ!”
元親自身でもそう思う。こんな風にしんみりするのは空気が重くなっていけない。
人の上に立つ人間はどんな状況であろうと自信満々で、何も不安など感じていないような顔をしていないといけない。それが大将のつとめ。
それを元親は理解しているから、今、一人なのだ。
こんな姿は誰にも見せない。見せるのは、死者にだけだ。
だからこの時ばかりは誰も寄ってはこないのだ。
しかし元親が完全に一人だと思っていた空間に、どこか間延びした声が響いた。
「わ、綺麗なもんだねぇ」
「………。」
しんみりとした空気を台無しにするようなその声は、考えるまでもなくあの忍のものだった。声を発するまで元親に気配を悟らせなかったのは流石である。
しかしこの忍はつい最近まで床に伏して死にかけていたはずなのだが。
「もう起きて大丈夫かのかよ」
「起きれるからには大丈夫なんじゃないの」
ひょいと肩をすくめて答えたその忍は、元親が立っている場所よりも随分高い位置に座っていた。普通の人間なら上るのに苦労しそうな場所だというのに、この忍は病み上がりの体で当たり前のようにやってのけている。
やはり読めない。
「医師からはまだ絶対安静って聞いてるんだがな…」
「んなの俺は聞いてないけど?いいじゃないの、普通に歩けたし」
「ま、後であのじじいから好きなだけ説教食らえばいいさ」
そう言って元親が笑ってやれば、忍は「うへぇ」と首をすくめて見せた。相変わらずふてぶてしい忍だと思う。
しかしこの忍は本当についこの間まで死にかけていたのだ。
体はあり得ないほど冷たくなり、顔色は死人みたいに白かった。脈は弱く、呼吸はとても浅い。それなのに医師に見せても大したことは分からず、出来たことと言えば、滋養強壮の薬を含ませることと、安静にさせるだけ。
看病した者はずっと気が気でなかっただろう。
しかしいざこの忍が目を覚ますと、誰もが予想もしなかったことを口走った。
忍が見せた覚醒の兆しを固唾を飲んで見守る仲間たちの中。この忍はぼんやりと目を開いてゆっくり周囲を見渡し、何かを確かめるように視線を彷徨わせたあと、まるでこの世の終わりのような顔でゆっくりと目を閉じた。
そして、今にも泣き出しそうなほどに震える声でこう言ったらしい。
“むさ苦しい…”
確かに目を覚ました瞬間、目の前に並んでいたのが野郎ばっかりであったらそう言いたくもなるだろう。
だが世界の終わりのような声でそんなあほらしいことを言わなくても良かったのではないか。
元親はそう思う。
何て言ったって侍医がぷんすか怒って死にかけていた患者に向かって怒鳴りかかるくらいだ。
心配していたのも相まって相当な大騒ぎになったらしい。
「だってのにこうやってぴんぴんしてるしよぉ…」
「んあ?俺様のこと?」
耳ざとく元親の独り言を捉えた忍は、目を灯篭から逸らすことなく気の抜けたように問いかけてきた。
以前と変わらないその締まりのない態度は、何処から見てもこの間まで死にそうになっていた人間のように見えない。
「お前、本気で体大丈夫なんだろうな…?」
「大丈夫大丈夫、だってあれ術のせいで疲れただけだから」
「あの状態を“疲れた”の一言で済ますんじゃねぇ。見てるこっちが気が気じゃねぇよ」
「いやぁでもさぁ、ホントに疲れただけなんだけど…。ほら、なんか寝たら治っちまったし」
元親の問いかけに答える忍の声は明るい。
しかし何故だろうか、“治った”という本来なら喜ばしいはずの言葉が、こんなにも苦しげな響きを持っているように聞こえるのは。
「てめぇ…」
そう言えばさっきからどうにも引っ掛かっている。
この忍はずっと灯篭の群から目を離さない。
魅入られたようにその一点だけを見続け、眩しいものを見るかのように目を眇めている。
どうしてずっと、灯篭の流れ行く先から目を逸らさないのだろうか。
流れゆく幻想的な灯りの群はとても綺麗で、眺めていたくなるのも分かる。
しかしそれを見る忍の目は何かがおかしい。
光を映しているのにその目は暗く、その色はむしろこの海の色に近い。
夜の闇すら到底及ばぬ程の、底のしれない淀んだ黒さ。
この男が見ているものは、本当に灯篭の光なのだろうか。
あんな苦しそうな目をしてまで、見るようなものなのだろうか。
見ることすら痛みを伴いそうな、そんな色を湛えた目で。
ではもし、そうでないとしたら?
あの先には何がある?
灯篭が流れゆく、送り火の流れつくその先。
元親が願いを込めて流す、その送り火とともに往く彼の者達の終着点。
そうだ、あの先には。

あの先には黄泉の国しかないはずだ。

それに思い至った瞬間、元親は体に冷水を浴びせかけられたような衝撃を覚えた。
良く考えてみれば、もっと前からずっと何かが引っ掛かっていたのだ。
あの不思議な雷の術とやらを使った瞬間の、縋るような目。
あれは生への渇望では無い。そして未練でもない。
むしろ真逆の、死へ必死に手を伸ばすような、そんな絶望的な目。
やはり、この忍は。
「忍」
「何?」
呼びかけても、忍はずっと灯篭の群から目を離さない。
「忍」
「だから何だよ」
「お前、」
そこで言葉を切り、息を深く吸い込んだ。
一瞬止めて、腹に力を込めるように耐える。
ここで言葉を止めるな。
そう言い聞かせて、思いきるように、その続きを口にする。
「死にたいのか」
「………。」
そこで初めて忍が元親を見た。
合わせた視線の先で、夜の海よりも深く暗く陰った闇がぐるりと渦巻いていた。
その闇の、なんと深いことか。
「何言ってんの?」
しかし響いた忍の声は、その目に反していやに明るい。
表情もへらへらと締まりなく笑うあの見慣れた飄々とした笑みで、目だけがおかしかった。
「俺様が死にたい?…あり得ないね」
にやりと口元を笑みの形に歪めてみせるその皮肉げな姿が、何故か酷く儚かった。
「こんな必死に生きてる奴を相手にその台詞はないよ。…ったく、俺様はめちゃくちゃ頑張って生きてんの。そういう気が滅入ること言わないでくれる?」
「あ、ああ。…悪かった」
「分かれば良し」
そう言ってまた視線を灯篭の群へと戻した忍は、さっきみたいな危うい表情を完璧に消し去り、ただ無感動な目だけをそれへと送っていた。
一瞬見えたように思えたこの忍の本質は、こうも容易く隠されてしまう。捉えたと思えばまやかしで、垣間見たと思えば勘違い。
理解しようにも表面すら読み取れなくて、何が本物かが分からない。
けれど、一つだけ確かなことは。
「忍」
「何」
さっきよりも無愛想な声が返ってくる。邪魔をするなとでも言いたいのだろうか。
しかし元親は気にせず続けた。
「もうお前、あの術使うなよ」
「…どの術だよ」
「雷を降らしたあれだよ」
「ああ、あれ」
何でもないように答える忍は知らないのだ、あの後の仲間の心配ぶりを。
奇跡みたいな方法でひとつ残らず破壊されたメカザビーに歓声を上げた仲間たち。
そして驚き喜ぶ人間たちの中で、ゆっくり傾いでいった一人の忍の姿。
地に伏して動かなくなった姿を信じられない思いで見送ってしまい、慌てて駆け寄った時にはもう完全に意識が無かった。
そこでもう、死んでしまったのかと思ったのだ。
それが何かの奇跡でこうやって回復してくれたから良いものの、あんな姿を見るのはもうごめんだった。
元親も、仲間たちも、本当に身の削られるような思いで心配したのだ。
「絶対使うなよ」
「頼まれても出来ないって。今度こそ死ぬから」
当り前のように口にされる“死”という言葉が元親に突き刺さる。
しかしこの男はそれほど重いものを掛けて、仲間を助けてくれたのだ。
それだけは何があろうと揺るがない事実。
「忍、名前教えろよ」
「いきなり何?」
「良いから教えろ」
「えー?別に今まで通り“忍”で良いって。慣れちまったし」
「んなのどうでもいいんだよ、とりあえず名前だ名前」
「だから“忍”で良いっての!」
なかなか頑固な忍に元親は切れた。
「〜〜〜あのなぁっ!てめぇがぶっ倒れた時に俺は愕然としたんだよ!今にも死にそうなテメェに向かって呼びかけようにも、出てくる言葉は“忍”だぁ?…ふざけんじゃねぇっ!!命掛けて俺らを助けてくれるような仲間に向かって、俺は呼びかける名前すら知らねぇ!なんつー大将だ!」
そこまで一気に怒鳴って元親は言葉を切った。
箍の外れた感情はなかなか収まってはくれず、息がどうしても荒くなってしまう。本来なら、こんな風に怒鳴って聞くようなことではないはずなのに。
しかしそんな剣幕の元親の様子を見ても、忍は浮かない顔をしていた。
怒鳴ってなんとなるようなことだとは端から思っていなかったので、元親にも一応妥協案はある。
「つーかよ、お前俺に正体ばれてんの分かってんだろ?前のままでいいんならもうそれでも構わねぇよ…“猿と、”」
「待った…っ!!!」
元親の声を遮るようにして、初めて聞くような忍びの鋭い声が響いた。
殺気さえ孕んでいそうな目で元親を見据え、それ以上言うな、と全身全霊で語っている。
「…悪ぃ」
触れてはいけない部分だったか、と思わず元親は謝罪を口にしたが、それに続いて忍が口を開いた。
「“佐平次”」
「…は?」
「…名前だよ、そう呼んでくれりゃいいから」
「お…おお」
一体何の名前だろうと思ったが、それには触れず元親はうなずいた。
そして名前を聞きたかった本来の目的を果たすべく、居住まいを正す。襟を整え真っ直ぐに立ち、忍が…否、佐平次が座っている場所へ向きなおって、そしてゆっくりと口を開いた。
「佐平次、今回の戦での働き…心から感謝する。あんたのお陰で大勢の仲間が死なずに済んだ。…そんで、命なんてもん懸けさせちまって本当にすまなかった」
そう言って元親はぺこりと頭を下げた。
本来なら、仲間は元親の手で守ってやりたかった。この得体の知れない忍も含めて、すべて。
しかし実際はそうはいかず、この忍の命を削るような術を持ってあの難を逃れた。
あんな思い、もうたくさんだ。
そんな思いを込めての、感謝と詫びの言葉だったのだ。
しかし正面には今までないほどにこの忍が慌てた気配を感じた。
「う、わわっ…大将が頭なんて下げないでくれよ!ちょっと!」
本気で焦っている声に顔を上げてやれば、情けない表情でおろおろしている佐平次の姿が見えた。
この男が何に動揺するか、全く読めない。
常から飄々とした態度でどんな相手にさえも平然と軽口を叩いたりするかと思えば、こんなことで動揺している。一体何を基準にはかっているのか。
「ああ?…んじゃ、今回の給料は期待しとけ」
仕方なく雇い主っぽいことを口にしてみれば、これまた今まで見たことがないような顔をしていきなり忍が立ちあがった。
「え、おい、…佐平次?」
「……何でもない」
「そんな悔しそうな顔して言われても説得力なんてまるで無ぇんだが」
「いや、何でもないから。…給料期待してるんで」
そう言って佐平次が視線を投げた方向は、やはりあの灯篭の群。
その先に向かって“一回くらい聞いてみたかったなぁ”とぼんやり呟いた佐平次の声を耳が拾って、何となく合点が行った。
思い浮かんだのは、真田幸村のこと。
この一癖も二癖もある忍を従え、死んで尚こんな目で偲ばれるような人物。
そして給料関係では厳しかったであろう人物。
一体どういう主だったのだろうと改めて興味が湧き、叶うなら一度、酒でも飲みながら話してみたかったと思った。













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(09.6.1)