異国の文化で、忠誠を誓う際に相手の手の甲に口付けるというものがあるらしい。
「ほう…」
「へー」
それが慶次の言葉を聞いた、幸村と佐助の発した第一声であった。
“異国の文化”と“忠誠”という言葉に幸村は興味をひかれたようだが、佐助はどうでも良い、といった態度を隠すことなく相槌を打っただけだった。
「で、それが何?まさかやれっての?」
普段から人当たりのいい佐助にしては珍しく、冷え冷えとした視線とどこか棘のある口調だ。
しまりの無い飄々とした顔はそのままだが、やる気のない態度はどこか不機嫌な空気を纏っている。
しかしそれも無理のないことだった。
上田の城下の茶屋に、大の男が三人。それだけでもずいぶんむさ苦しいというのに、話している内容が口付けとは。
佐助がどれだけ忍耐強く、大抵のことでは動じない精神の持ち主だったとしても、やはり気色の悪いものは気色悪いのだ。
青い少年のささやかな猥談じゃあるまいし、と佐助はとことん冷めている。
幸村さえいなければとんずらこいているところだ。
しかしそんな佐助の態度にもめげず、慶次はにこにこと人好きする笑みを浮かべている。
そしてその笑みのままぐっと体を屈めて親しげに佐助の肩を抱えると、ぼそぼそと何やら耳打ちしてきた。
(ほらこいつって恋だ愛だってそっちの話になるとすぐ“破廉恥でござる!!”の一点張りで進展もなにも無いだろ?だからこうやって興味持ちそうな話題を探して来たわけよ)
(はぁ…で、わざわざ異国のネタ引っ張り出して来たわけね…)
(そうそう。とりあえずはこれで第一段階突破な!!)
(ずいぶん難易度の低い第一段階ね。っていうか放してくんない?何が嬉しくてゴツイ男に肩なんて抱かれなきゃなんないのよ。)
(あっはそれについては俺も賛成)
佐助の素気無い態度など気にも留めぬ様子で快活に笑った慶次は、第二段階へ行動を移すべく幸村へと目を向けた。
しかし。
目を向けた先には誰も見当たらない。
さっきまで幸村が美味しそうに食べていた甘味の皿が残っているだけだ。
熱いお茶の入っていた湯呑もきっちり空になっている。
「あれぇ?!」
素っ頓狂な声をあげて辺りをぐるりと見渡した慶次は、茶屋の奥で目的の紅い人影を見つけた。
何やら店主と親しげに話している。
「おーい!ちょいとあんたいつの間に居なくなってんだよ?」
「おお!ちょうど良いところに!」
「はぁ?」
つい今しがたまでにぎやかに話していたのはどこの誰だ、と続けたくなるような言いようだったが、そんなことよりももっと突っ込むべき問題が目の前で起きていた。
「何これっ?!」
「団子だ」
「いや見たらわかるよそれくらい!」
「聞いたのは慶次殿でござろう?」
「いや、まぁそうなんだけど…、ってそうじゃなくて!!聞きたいのは量!!何この団子の数?!まさか今から食うの?!あれだけ食っといてまだ食うの?!」
慶次が取り乱すほどの大量の団子…いったい何皿分くらいあるのだろうか、とりあえず運ぶのに大の男が2、3人ほど必要なくらいの数の団子が棚の上にずらりと並んでいた。
一人で消費できるような量では無い。
普通の感覚を持っている人間なら見ているだけで胸やけを起こしそうなくらいの量だ。
しかしそんな大量の団子を、幸村は包んでもらっている。
どうやら持ち帰り用らしい。
(あーよかった今食うわけじゃないのかぁ…)
そう思って胸を撫で下ろして深呼吸すると、我に返った。
「いやいやいやそれでも多すぎるから!!こんな量持って帰ってどうすんの?!まさか団子屋でも開く気?!」
慌てて幸村に詰め寄った慶次は、どこか冷やりとしたものを含んだ視線を返された。
もちろん幸村に、だ。
「え、何?!」
「この団子は他の者への土産でござる」
にこりと笑った幸村は、それだけ言って慶次から視線を外すと店主へ向きなおりとんでもないことを口にした。
「お代はこちらの御仁が支払って下さる。」
「え?…え?…ええええっ?!え?!」
「今日のも美味かったぞ」
「ありがとうございます」
「うむ。またくる」
そう言って幸村は颯爽と踵を返して去ってしまった。
しかも信じられない量の団子を一人で軽々と持ち上げて。
慶次は思考が追い付かず固まったままである。
(こちらの御仁?今指差されたのって俺だよな…?うん間違いなく俺だよな?あれ?何で?ちょっと待て?ってことは?何?あの信じられない量の団子の代金俺が払わなきゃいけないわけ?!)
背中を脂汗がだらだらと流れてゆく。
そして顔からは血の気が引いてゆく。
まずは幸村から何故そんな仕打ちを受けなければならないかを考えるべきなのだが。
目の前で人の良さそうな笑みを浮かべる老主人を見てしまえば代金のことしか浮かんでこない。
(持ち金が無い…!!!!)
固まったまま動かない慶次に向って、遠慮がちに店主から声がかかる。
「あのぉ…」
「うわはいっ?!」
声が裏返った。
「お代が足りない場合、そのぅ…体で返していただくようにと、言いつかっているのですが…」
「カカカカッ、体ァ?!」
慶次の脳内に桃色の妄想が駆け巡った。
あはんうふんと悩ましい姿の美女。
白い項と紅をひいた唇。そしてちらりと覗く白い足。
触れれば柔らかい華奢な体。
っていやいや俺それは無理…!!!!
やはり日頃恋だの愛だの言っていると、どうしてもそう言う発想に至ってしまいがちだが、実は店主の言いたいのは純粋に労働力として、という意味だった。
しかし慶次は現在絶賛パニック中である。
目は焦点が合ってないし、顔色は七変化、そして頭はぐらぐらしている。
冗談抜きでぶっ倒れそうだ。
「うううあっそのっ、おおお俺はそういう趣味はっ」
「いえいえちゃんと保護者殿から許可をいただいております…」
「きょきょ許可っ?!何の許可?!って言うか誰の許可?!」
「前田のご夫婦でございます」
「トシぃぃぃいいいいいっ!!大事な甥っ子を売るんじゃねぇぇぇぇええっ!!」
慶次は西に向って絶叫した。
ついでに夢吉も「ききー」と可愛く真似して見せた。
少し場が和んだ。
「おーい風来坊」
そこへ間の抜けた声とともに佐助が店へと入ってきた。
顔が半笑いなことから慶次の勘違いも真相も全て分かっている上で、今まで高みの見物を決め込んでいたことが窺い知れる。
しかし結構面倒見の良い佐助は、見るに見かねて結局顔を出してしまったという寸法だ。
何とも人の良い忍である。
この性格のせいでいらぬ苦労を背負いまくってる今日この頃だが、最近それにも慣れてきてしまったのが現状だ。…人間の適応能力の素晴らしさを痛感する毎日だ。
そんな人の良い忍なのだが、慶次はそんなこと知るはずもない。
知っているのは、説明の無いまま勝手に代金を肩代わりさせられたことと、その加害者は真田幸村であることと、今やってきた忍がその部下であること、そして何故かこの一件に叔父夫婦が噛んでいること、だ。
それだけ分かればやるべき事は決まっていた。
かつてやった要領で、目の前の忍に喧嘩を吹っ掛けたのだ。
「やいてめぇ!説明しろこの野郎!!意味分かんねぇよ!!」
「うわっと落ち着きなって…!!ってこら!店で暴れんな!!」
「煩え!身内に売られた俺の気持ちが分かるかっ!!このっ!!」
「だから違うって!!とにかく聞け!!ああもう…っ」
「このっ避けんな!!くそっちょこまかと…!!」
ひらりひらりと店の中を飛び回り、何とか慶次の拳を交わし続けている佐助だが、それもどこか余裕がない。
それもそのはず、店を庇いながら攻撃を避けているのだ。
棚にぶつかりそうになれば危うい均衡を保ちつつ受け流し、戸をぶち抜きそうになれば別の方向へ誘導する。
そんな器用な真似がそう長く続くはずない。
実際もう限界だった。
優先順位は実は店の方が上。
泣く泣く己の身で拳を受け止める。
「ってぇ…!」
「おーしもう一発〜〜!」
そこで佐助の眼がきらりと光った。
そう何度も殴られて堪るか、と気合を入れる。
そして腹に力を込めて、息を吸い、一言。
「あ、あれ前田の嫁さんじゃん」
忍法、虎の威を借る狐の術(仮)。
使えるものは何でも使えの精神だ。
「そんな手には引っ掛からないぜ!」
当然といえばそうなのだが、やはりこんな胡散臭い言葉では騙されてくれない。
けれど佐助はなおも続ける。
「いやいやほんとだって、あーすいませんこの人どうにかしてもらえます?」
「白々しいぜ!忍の癖に嘘が下手だなぁ」
「俺は嘘ならもっと上手につくよ?」
確信を込めた笑みでそう答えた佐助のすぐ後に、ひとつの声が続く。
「慶次」
鈴の鳴る様な声で、呼ばれる慶次の名。
「はっはっはまつ姉ちゃんの声で名前なんて呼んでも無駄だぜこんなとこにいるわけ…」
「慶次」
その瞬間慶次の動きが見事に止まった。
片方の拳を固めて振りかぶった姿勢のままぴたりと動かない。
少々重力やら慣性の法則やらいろいろ無視している勢いで動かない。
カチコチに固まったままの慶次は、脂汗を流しつつギギギと音を立ててその方向へ顔向けた。
そして視線の先には。
「慶次」
ホントに居た。
店の入り口にホントに立ってる。
魅力的な笑顔といいすらりと美しい肢体といい意思の強そうな目といい、全部本物だ。
何でこんなところに?
そんな疑問は浮かんでこない。
今自分は何をしている?
そう、喧嘩だ。
どこで喧嘩している?
人様の店の中だ。
人様の店の中で誰を殴ろうとしている?
この間さんざ迷惑をかけたと説教された武田の忍をだ。
怒られる…!!!!!!
慶次は確信した。
そしてとりあえず今この状態をどうやってごまかそうかと、もうそれしか頭になかった。
「ああああのまつ姉ちゃんそのハハハハ!」
上ずった声で無理やり笑う慶次に向かって、まつはとても魅力的な笑顔を返した。
にっこり。
美しいのに何故か怖い。とっても怖い。
陽の燦々と降り注ぐ外からの光を背負っているのに、何故か真っ暗な何かが後ろに見える。
多分夜叉とか修羅とか何かとんでもないものな気がする。
怖い。
「慶次?」
「ははぃいっ!」
慶次はガッチガチに固まったまま動けない。
見てて可哀想になってくる程のびびりっぷりだ。
そんな張り詰めた空気の中、佐助は慶次に掴まれたままだった胸倉を「よいしょ」と外し、まつへと向きなおった。
「どーも。」
いつもどおりのへらりとした緊張感の無い笑顔だったが、よく見ると微かに悪戯っぽいものも含まれている。
慶次のあまりのびびりっぷりを愉快に思っているように見えなくもなかったが、それにしてはささやか過ぎた。
どちらかというと何か企んでいるような微妙に黒い笑いである。
「さーてこれでやっと話ができるねぇ」
間延びした声でそう告げた佐助は、入口に佇むまつへと合図を送った。
なんと、手をひらひら振ってまるで犬でも追い払うかのように退出を促したのだ。
無礼極まりない態度である。
愛妻家の旦那に見つかれば槍で串刺しにされてもおかしくないような行為だ。
否、それ以前に大名の奥方に対して一介の忍ごときがすることではない。
しかし驚いたことに、まつは怒ることも怒鳴ることもしなかった。
微かに頷くと、音もなく一瞬で姿を消したのだ。
「なっ…?!」
絶句する慶次を余所に、空気はすぐに日常を取り戻す。
あとには何も残っていない。
そこに確かに立っていたはずなのに、それすら夢だったのかと疑いたくなるような何の変哲もない入り口。
慶次は目をごしごし擦り、頭を二度三度振ってからもう一度入り口を凝視し、それでも信じられないようで頬を思いっきり抓っていた。
途中夢吉が便乗して慶次の頬を一緒に抓る。
場が少し和んだ。
「はいはい風来坊。まぁ驚くのも無理はないと思うけどとりあえず落ち着いて」
「落ち着けって言われても、これは無理だろ普通っ?!」
「だから全部説明してやるって言ってんの。ほら早く座った座った」
慶次はしぶしぶと茶屋の座席の一つに腰かけると、佐助は少し距離を置いて隣へと腰掛けた。
その距離が少し嫌味たらしい。
「…で、一体どういう理由でまつ姉ちゃんが出てきて、しかも一瞬で消えちゃったわけ?んで俺が関係無い借金背負いこむ羽目になったのは?」
「あーはいはい今から話すって…。あんた愛だの恋だの言ってる割には辛抱足りないんじゃないの?もてないよ?」
「煩せー!!とにかく早く説明しろよっ!あんたらが訳わからんことばっかするからだろ!」
「はいはい。えーっとまぁそれじゃ、まずはじめに。一番気になってるのはあんたの叔母さんの事だと思うけど」
「うん。まつ姉ちゃんだったってあれは」
「それが残念ながらあれは前田の奥方じゃなくてね」
「?!」
「俺様の部下の一人。腕の良いくの一だよ、化けてたの。」
「えっ…?!ええええええ?!嘘だぁ?!」
慶次が目を見開いて驚きも露わに詰め寄るのに対し、佐助はあっけらかんと「ほんとだって」と答えた。
事実、あれは佐助の配下の一人で、真田忍隊に所属する腕利きの忍だった。
変化の術を得意としている人間は他にも多数いるが、その中でも特に卓越した技能をもった者だ。
名を「ききょう」と言い、見た目は平凡な娘だ。
しかし侮っては痛い目を見る。
響きの美しい名のように聞こえがちだが、名の由来はかなり物騒だったりする。
映した全てを写し取る妖怪“鬼鏡”から付けられた名前なのだ。
その名を違う事無く、ききょうは変化の天才だった。
大抵の人間は一目見ただけで簡単に化けてしまう。それをさらに洗練し、一人の人間へ化けるのを極めた術ならまず見破れない。
幸村に化けるのだって佐助と腕比べすれば五分といったところだ。
男女の体格差を考えれば、技術的にはききょうの方が上といっても過言ではない。それくらい上手い。
そして今回の仕事も見事な腕前を披露してくれた。
甥っ子の目すら騙せるほどの術とは、流石は真田の忍。
佐助は胸の内でほくそ笑んでいた。
あとでこの事を幸村に報告すれば必ず今回の働きで頑張ってくれたくの一を労ってくれることだろう。
そうすれば褒められた瞬間、あの忍は軽く昇天でもするのではないか。
などとあながち外れてもいないような予想をしてみる。
そんな佐助の隣で、慶次は顔色を赤や緑や青や白など、七変化させて考え込んでいた。
あきらかに情報量過多といった風体だが、やがて何とか答えが出たようで、再度佐助に突っかかってきた。
「おいおい何であんたんトコの忍がまつ姉ちゃんに化けられるんだよ?!…返答によっちゃ容赦しないぜ」
さっきまでのどこか情けない態度から打って変わって、言葉に真剣な響きを含ませて低い声で呟かれる。
慶次の懸念は当たり前と言っちゃあ当たり前だ。
大名の奥方そっくりに化けられる敵勢力の忍など、危険極まりない。
もしその姿で自軍へ侵入を許したりすれば…。考えるだけでも恐ろしい。
家出した風来坊という身の上でも、見過ごせるものとそうでないものがある。
「まぁ言いたいこともわからなくはないけどね…。」
慶次の考えが分かりすぎるほど分かる佐助は、肩をすくめて先を続けた。
「いくらうちの忍が優秀でも身内の目を欺けるほどの術はそうそう使えないよ。…ましてや織田勢力の人間相手になんかね。」
「…実際化けといて何言ってんだよ」
「だから、前田夫婦が協力してくれたの」
「は?」
「だーかーら!演技指導まつさん。評定利家公。ってなわけ」
「なんっななな何で?!」
「あんたがうちの城内で散々暴れまわってったからでしょ」
「はぁ?!」
今よりほんの少し昔の出来事、前田慶次が局地的な嵐を持ち込んだあの騒動の後にやってきた前田夫婦。
甥の無礼を全力で詫びて回り、幸村にも何度も頭を下げていた。しかも忍にまで。
そんな姿に、もともと根に持つ性分ではない幸村は快く謝罪を受け入れ、何故か利家と意気投合した。
前田夫婦が揃って武田信玄のことを褒めていたことが一番の要因だとは思うが、利家の人柄の良さが幸村には親しみやすかったのだろう。
茶を振舞い、食事を共にし、すぐに打ち解けた。
すると酒の席になり、今回の諸悪の根源である前田慶次の話になった。
前田夫婦は日ごろ慶次の奔放さに振り回され、いたずらに頭を悩ませていることを幸村に愚痴り、幸村は親身になって話を聞いてやっていた。
そこで今回の騒動の原因となる話が出てきたのだ。
“いつか慶次に一泡吹かせてやりたいなぁ”と。
ぽつりと呟かれた利家公の無邪気な発言。
それに幸村が賛同し、冗談半分でいくつか対抗策を話し合い、いつのまにか議論が白熱し始めた。
数々の意見が飛び交う中「慶次はまつには絶対敵わない」と利家が胸を張って答えた。
そこから話が発展し、気付けばくの一相手に演技の徹底指導が始まっていたのだった。
話し方や声、立ち振舞いに得意料理まで。
そりゃあもう徹底していた。
しかも合否判定を出すのが利家なのだ。
半端じゃない。
何が半端じゃないって愛が。
奥方への愛が半端じゃなかった。
騙せないのだ。
幸村に見せれば「見分けがつかぬぅ!」と苦悶の声をあげるのに対し、利家の前に二人のまつが並べば「本物はこっちだ」と迷う素振りも見せずに即答する。
佐助ももちろん駆り出されており、幸村と一緒にうんうん悩んでいたが、正解率は六割といったところだった。
忍の中の忍と言われる佐助の目すら欺く変化の術。
それなのに利家には何度やっても通用しなかった。
之や如何に。
せめて何か助言でも、と聞いても「まつへの愛だ」と一刀両断されれば為す術はない。
しかも幸村は真っ赤になってうろたえるし。
配下のくの一は自信無くすし。
そして佐助は他人の惚気を聞かされてぐったりするし。
本当に大変な作業だった。
何度諦めかけたことか。
そんな困難を乗り越えての変化の術。
結果は甥っ子を騙せるほどの成果を発揮できた。
今頃くの一はほくそ笑んでいることだろう。
「驚いたー?これであんたもだんだん分かってきたんじゃないの?」
「う、え…?」
困惑の表情で情けない声を上げる慶次に、佐助はなおも続けた。
「実はこの店、この間あんたが暴れたせいで大破しちゃってさ。半月前にやっと営業再開できたとこなのよ」
「?!」
慌てて店主の方へ顔を向けた慶次に、店主は人の良い笑みを浮かべたままこっくりとうなずいて見せた。
「あちゃー…」
「それを前田夫婦が気にしてくれてね、あんたに謝罪させたかったみたいよ?」
「ほんとすいません…」
一瞬のためらいもなく慶次は深く頭を下げた。
もとは気の良い若者である。こんな老主人を前に意地なんてはっていられるはずがなかった。
「これは余談だけど、この店の甘味を真田の旦那が気に入っててさ。休業中は結構本気でしょげちゃって…」
「うう…」
「んで、やっと再開されたのは良いけど待ってたのは旦那だけじゃなくて、普通のお客さんも一緒だったわけよ。あの人変なとこで気を使うから今まで店にくるの我慢しちゃってさぁ」
「ううぅ…」
「今日やっとこの店の団子を口にできたってわけ。さっきのは旦那に付き合って団子我慢してた城の人間にお土産。ったく…変な主だよ」
そう言って苦笑する佐助に、店主は人の良い笑みを浮かべたまま、またもこっくりうなずいた。
実は二人は顔なじみで、良く立ち話する間柄なのだ。
仲が良いという程ではないが、世間話をするくらいにはお互いを知っている。
幸村の話に花を咲かせることもしばしばだ。
そのため店主は佐助の言葉に含まれた確かな温かさをきっちりと読み取り、それに頷いて見せたのだ。
一方慶次はと言うと、完全にうなだれて小さくなってしまっている。
今回の騒動は全部自分が原因だとしっかり理解したようだった。
肩にちょこんと乗ったままの夢吉も、主人がしょぼくれているのを見て心配そうにしている。
「さて前田慶次」
佐助が初めて慶次の名前をまともに呼んだ。
「さっきの団子の代金は実はもう旦那が支払ってる。あんたに借金はないよ」
真面目な顔でそこまで話し、一旦言葉を区切ると佐助は人の悪い笑みを浮かべて慶次へと向きなおった。
しょんぼりしたまま顔を上げた慶次と目を合わせると、悪戯っぽく口を開いた。
「これは旦那と前田夫婦からのささやかな仕返しだよ。これに懲りたなら悪戯は控えるべきなんじゃない?」
「肝に命じときます…」
両手を上げて降参の意を示す慶次を、佐助は満足げに見やると、老主人へと目を向けた。
「それじゃ、後はあんたの裁量にお任せしますわ。俺は旦那んとこ戻んないといけないから」
「はい。幸村様によろしくお伝え下さい」
老主人の声に笑みで答えを返すと、佐助は音もなく姿を消した。
後にはかすかな風の流れだけが残り、痕跡すら見当たらない。
店の老主人は流石に顔なじみとあって、これくらいのことは見慣れているのか平然と佇んでいる。
風が流れて元の空気に戻るまでの間、店の中で老主人と慶次はぼんやりと虚空を見上げていた。
夢吉も大人しく慶次の肩に座ったまま動かない。
店の外ではわいわいと賑やかな声が聞こえてくる。
人が行き交う音と、活気に満ちた町の気配。
一昔前に、慶次が暴れまわった場所だ。
「さて、前田の風来坊さん」
静かな店の中で、老主人の声が優しく響いた。
「えっ…はい」
慶次が畏まって返事をすると、落ち付いた声の老主人は奥から団子とお茶を出してきた。
お盆の上には二人分。
「あの…」
困惑して慶次が見上げると、主人は笑ったまま慶次の隣へ腰掛けた。
そして盆を二人の間に置くと、湯呑を差し出す。
「え…どうも、あの」
困惑しながらも受け取ると、主人は落ち付いた所作で茶を啜り始めた。
慶次も倣って同じように茶を啜る。
程良い渋みとお茶独特の甘味が心地よい。
ほっと息をついたところで、主人が口を開いた。
「私の裁量といわれましてもね、私にゃ菓子を拵えることくらいしか出来はしませんよ」
「…?」
主人の言いたいことがわからずに慶次が首を傾げると、主人は先を続けた。
「今日はもう終いですし…とりあえず、年寄りの話に付き合って下さるかな?それでおあいことさせていただきましょう」
「……え」
びっくりして目を見開くと、主人はにっこりと笑ってこう言った。
「年寄りの話は長いですよ?」
後編へ
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慶次の受難。佐助は苦労。
まつは強し。幸村と利家は同族で野性児。