幸村の私室に許しをもらってから入ると、寛いだ様子で文机に向っている主の背中が見えた。
書をしたためていたようだが、佐助の帰還を聞いて終わりにしたらしい。
意外と丁寧な仕草で筆を仕舞い、かさかさと音を立てて紙を整えている。
そんな様子を何とはなしに眺めつつ、整えられた畳の床に無造作に腰をおろした。
「ご苦労だったな」
くるりとこちらに向き直りながら掛けられた労いの言葉にこちらも顔を緩ませると、声に少々愉悦の色をのせて答えを返す。
「いーえ!こっちも腹いせみたいなもんだしね」
「そうか。首尾は?」
「まぁうまくいったよ?まつさん見た瞬間のあの顔ったらないねぇ!あんたにも見せてやりたかったよ」
からからと陽気に笑うと、幸村も同じように目元を緩ませた。
「それは良かった。後で前田のご夫婦に文を届けねばならんな」
「“一泡吹かせたぜ”ってか?そりゃ良いや!」
二人してにやりと笑うと、もう堪え切れなくなってしまい同時に噴き出した。
腹を抱えて二人一緒に笑い転げる。
「利家公の言ってた通り、まつさんの威力は凄いってもんじゃあ無いよ!あー可笑しい!」
「っく、そこまでお前が笑うのだからさぞや愉快だったのだろうな…!」
「ははっ…しばらくこれで笑いの種に困らないくらいにはね!」
冗談抜きで笑えそうなのが怖い。
このまま内輪で笑い合うくらいでは勿体ないほど愉快だったのだ。前田慶次の体面を無視するのならば、全国に広めたい程。
「ききょうを呼んで後でそっくりそのまま再現してもらう?あんたも見たかったでしょ」
「む。…確かにそれは惹かれるものがあるがな」
「ん?」
似合わない皺を眉間に作って躊躇う素振りをみせる幸村に、佐助は楽しげな笑みで先を促した。
返ってくる答えが是であろうと否であろうとたいして変わりはない。
どっちにしろこの笑い話は今頃忍隊の面々に隈なく伝えられていることだろうから。
しかも話し手はききょう。
身振り手振りに変化の術。
一人二役三役四役。
芝居小屋に行くよりずっと面白いことになっているに違いない。
「…いや、やめておこう。そこまでやると流石にな。慶次殿にも一応は武士の体面というものがあるだろう」
「えーそんなの吹けば飛ぶような塵芥くらいのもんでしょう」
「お前な…」
珍しくたしなめるような口調になった幸村だが、別に咎めるつもりはない。
あの根無し草のような風来坊に、世間一般でいう武士の矜持や体面などという堅苦しいものは備わっていないのだろうと思ったからだ。
家を出た時に一緒に置いてきたのか、それともそれを捨てるために家を出たのか。
深入りすつつもりは毛頭ないので考えるのはそこでやめた。
「まぁ良いだろう。今回のは俺の腹いせというよりお前の方だ。」
「うぇっ俺様?!」
予想外の言葉に心底驚いたのは佐助だ。
前田慶次のあのうろたえっぷりは確かに愉快だったが、もともと発案も計画も前田夫婦と幸村が主になってやったことだ。
佐助は気付けば巻き込まれていたというか幸村が係わっていることだから否応なしにやる羽目になったというか、協力せざるを得なくなったというか。
とにかく佐助自身が率先してやったことではない。
楽しかったのは事実だが!
「ちょっと旦那、俺様の方って何?まさかとは思うけどあの一発の仕返し…とか言わないよね?」
「そこまでは言わぬ」
「んじゃどこまでなら言うの…?」
おそるおそる問いかけた佐助に、幸村は邪気のない笑みでこう答えた。
「さぁな」
「うわっ…」
幸村は単純な性格のように見えて、たまにこういう食えない笑みを浮かべる時があるのだ。
もう男前なことこの上ない笑みだが油断はならない。
前田夫婦とこんな他愛のない悪戯を仕掛けたと思えば、裏でこっそりそんなことを考えていたとは。
本当にどうしてくれようかこの主。
「自分の腹いせに俺の分は加えなくて良いっつーのに…」
「でも楽しかったのだろう?」
「ええ楽しかったですともこん畜生!」
「俺も楽しいぞ?」
「……」
「……」
「……」
「「……っく」」
苦労して作っていた悔しそうな顔は、結局すぐに崩れてしまい、また二人で馬鹿笑いする羽目になってしまった。
なんやかんや言いつつも、こういうのは嫌いじゃない。
一頻り笑い合うと、幸村が身を起して軽く眼尻に滲んだ涙を拭った。
佐助も同じように身を起し、息を落ちつけようと数度深く呼吸する。
「これで借りは返せたな?」
「そりゃもう、ね。」
にやりと笑って掛けられた言葉に佐助がそう返すと、幸村が佐助に手を伸ばしてきた。
つい条件反射でこちらも手を伸ばす。
すると、がっちりと手を掴まれた。
「?」
少し高めの体温と、武器を持つ無骨な掌の感触が佐助の手を力強く握りしめる。
そして握手でもするように、その手が二三度ぶんぶん振られた。
「どしたの?」
苦笑半分で佐助が問いかけると、楽しげな笑みのまま幸村が答えた。
「こういう悪だくみが成功した時にはこうするのが礼儀らしい」
「はぁ、それ…誰に聞いたの??」
間違ってはいない気もするが、あってもいない。
珍妙な返答に佐助が首を傾げると、幸村は形の良い唇を更に悪戯っぽく歪めた。
「慶次殿だ」
「…あらま」
それを教えた慶次自身に使われているとは。何とも皮肉なものだ。
困った事にまたも笑いが込み上げてくる。
「あー…腹痛いわ…」
流石にこれだけ笑うと普段鍛えているとはいえ腹筋が痛くなってきてしまう。
忍が笑いすぎで腹痛なんて、冗談じゃない。
それこそ腹が痛くなるまで笑われるだろう。
それだけは避けたい。
だって格好悪すぎるから。
そう思い、何とか笑いを収めようと数度意識して息をつくと、幸村がふと何かを思い出したかのように顔を上げた。
「そうだ、佐助」
「何?」
懸命に笑いを鎮めようとする不格好な表情のまま佐助が答えると、幸村はおもむろに握りしめたままだった佐助の手に顔を近づけてきた。
焦げ茶の髪がくたりと曲がり、佐助の目の前でふわふわ揺れている。
一瞬何をするのかと佐助はその動作を傍観していたのだが。
ふと思い出す、慶次の言葉。

“異国の文化で、忠誠を誓う際に相手の手の甲に口付けるというものがあるらしい”

「のぅわったぁぁっ?!」
佐助は謎の叫び声をあげて、疾風の如く手を振り払った。
少し乱暴な仕草になってしまったがそんなこと言ってられない。
今自分は何をされそうになっていた?
幸村は何をしようとしていた?
主が目の前で頭を垂れているのに何を傍観していた?
「な、な、な、なっ…!!!」
何ってそう。
手に口づけられそうになっていたのだ。
何がどうしてこんなことに?!
ただ思いついたとか、思いだしたからやってみようくらいだと思うけれども!
そうだとしても突然過ぎる。
一体どういう思考回路しているのだこの人は。
佐助はぱくぱく口を動かして、目を白黒させるしかない。
「何だ佐助?」
「何だって…!!あんた何しようとしたんだよ今っ?!」
「ああ?今日慶次殿が言っておられた…異国の文化のあれだ」
「な…普通逆でしょ?!忠誠だよ忠誠?!冗談にしてもやっぱ逆だって…!!いや待って…それより何でいきなりやってみようと思ったの?!」
「ああ、慶次殿つながりでちょっと思い出してな…どういう気持ちなのかと思ったまでよ」
さもありなんとでも言うように平然と答える幸村に、佐助は力が抜けていくのを感じつつも憤然と言い返した。
「どういう気持ちも何も!んなの手に口がくっつくだけでしょーが!」
「いや、お館様にやっていいものかどうかと…」
「うわぁ…!やっぱりぃ――!!」
「うむ、そういうことだ」
そう言って再度佐助の手を取ろうとした幸村に、佐助は大慌てで口を開いた。
「ちょ、ちょっと待った!ちょっと待っ、だから待てってー!!」
後ずさりしながら必死で佐助が止めようとするも、幸村は聞いていない。
逃げる佐助に膝立ちのままひょいひょい近づいて、壁際まで追い詰める。
「旦那!!わかったから!!わかったって!!ちょっと!!だから待てーいっ!!」
「往生際の悪い奴だな…」
「何か違うだろそれ!」
「とりあえず手を出せば良いのだ。そして感想を聞かせてくれ」
「意味分かんねーよっ!」
「佐助」
「名前を呼ぶなーっ!」
「それこそ意味がわからんぞ?」
「わかんなくていい!」
「佐助?」
「ぎゃーーーっだから呼ぶなーー!!」
「もうそれは良い。とりあえず手を出せ」
「ほんと待て!待てってコラァ!!感想聞かれるくらいなら俺がやるから!」
「む?」
「だから手ぇ出して!」
「…ああ、なるほど。」
やっと理解した幸村は、躊躇なく佐助に右手を差し出した。
それをがっちりと佐助が掴む。
こうなりゃやったもん勝ちだ。
そんな気分でとっとと済ませようとする。
しかしいざ顔を近づけようとすると、幸村がぐい、腕を引いてそれを阻止した。
「…どしたの?」
今更躊躇するとはそれこそ往生際が悪い。
いぶかしんで問いかけると、幸村は複雑な表情で佐助を見ていた。
「旦那?」
「うむ…その、良いのか?」
「何が?」
やろうとした本人が躊躇するとは一体何だというのだ。
そういう思いでじとりと幸村を見れば、言いにくそうに口をもごもごさせている。
「旦那ぁ?」
良いから言って。
目線で答えを促すと、幸村はまだ言いにくそうにしていたが、躊躇いつつも口を開いた。
「俺からするのは冗談で済むが…お前がやるのは不味いだろう?」
「へ?」
「…その、だから…忍の掟には触れぬのか?お前たちはそういったことに関してはとても厳しいだろう?」
困ったようにそう言った幸村は、佐助をまっすぐに見た。
目には本気の気遣いの色が浮かんでおり、真面目に心配してくれているらしい。
しかし佐助は思った。

気にするところが違うだろう、と。

武士のいう忠誠やら忠節やらといった格好良い誓いなどというものは、忍には存在しない。
個人的に胸の内でこっそり“この人について行こう”と誓うのは自由だが、忍とはあくまで金銭関係で繋がっているというある意味分かりやすい関係だ。
そのためそんなことに掟はない。
仕えている主以外の人間に勝手に忠誠を誓ったりすれば流石に不味いだろうが、そういうことはまずしないだろう。
それ以前に忍に忠誠を期待する武将などそうそういはしないのだ。
…いないのだが。
目の前にそういった世間一般の理をカッ飛ばしてくれる稀少人物が座っている。
この人にはそういった常識は通用しない。
忍の誓う嘘みたいな忠義を信じるし、その思いに報いるように信頼をくれる。
変な主人だった。
そして今回、変なトコで遠慮して、こんな茶番を躊躇している。
忍の掟に触れるかだって?
んなもん存在するか。
「そんなこと、気にしてんの…?」
佐助はにやりと笑うと、顔を近づけるのではなく幸村の手を目の高さまで持ち上げた。
そして指を上に向けて、手を裏返して甲をこちらに向ける。
「忍が掟に厳しいのは確かにその通りだけど、こーいう格式張ったことに関しては決まりなんて無いよ?」
言葉を続けながらゆっくりと幸村の手を引き寄せる。
「それにさ、もう今更じゃない?」
「今更…?」
「うん」
「どういう事だ?」
「こういう事だよ」
そう言って、もう僅かとなっていた幸村の手の甲との距離を、くいと引き寄せてその肌に唇で触れた。
視線は幸村から逸らさず、まっすぐ見つめ続ける。
己の唇よりも高い手の体温を感じつつ、大した名残も見せずすぐに唇を離した。
「どう?」
「……うむ」
自分でやっておいて何だが、別にこれで忠誠を誓った気分にはならない。
手に口付け。
やはり異国の文化は異国のものだったらしい。
己の肌にはなじまないもののようだ。
「で、旦那?いつまで考えてんの?」
「…うむぅ」
どうやら本気で考え込んでいるらしい主を見つめ、佐助はため息をつく。
さっさと反応を返してくれないと、流石に恥ずかしい。
だって戯れに様なやりとりだとしても、結構気障なことを言ってしまったのではないのか。
もしかしなくとも気障じゃないのか。
格好つけるにしても、流石にちょっとやり過ぎではなのか。
内心そわそわしつつも幸村の返答を待っていると、やっとこさ口が開かれた。
「何というか…」
「うん」
「挑発されているような気分になるのだが」
「挑発ぅっ?!」
異国の文化って凄い。
的外れなことに感心しつつ、佐助は何となくその原因について思い当ってしまった。
挑むように見据えながら、相手の手を持ち上げて。
自分の頭の高さは変えず、手の方を引き寄せて、口付け。

そりゃあ挑発だわ。

「あはは、まぁ異国の文化だし!やっぱり俺たちの肌には合わないんだって!!」
「ふむ。そうなのか」
「そうそう。だから大将にもやんないほうが良いよ。だって挑発されてるような気分になる訳だから!」
「む。そうだな」
「そうそう!ハハハハ…!」
乾いた声で笑いながら、この話題は終わりとばかりに立ちあがった。
長居をすればするほど墓穴を掘る羽目になりそうなのだ。
もう一回やってみろとか言われたら恥ずかしくてのた打ち回りたくなるし。
何やら報告にきただけなのに、ものすごく疲れた。
「それじゃ俺様はこれで!」
とっととこの場を辞そうと身を翻すと、幸村から「待て」と制止の言葉が掛った。
聞こえない振りをしようかと思ったが、体は勝手に動きを止める。
幸村の命令に反応するように作ったこの体は、こういう時でも融通が利かない。
「う、何?」
仕方なく返事をして振り返ると、幸村の笑った顔が目に入った。
それこそ邪気のかけらもない緩みきった笑顔だ。
こういう顔を、戦場での幸村しかしらない人間に見せてやりたい。
きっと「どちらさまですか」と聞かれること間違いないだろう。
そんな笑顔の幸村が、ちょいちょいと佐助を手招きしている。
嬉しそうにそんな仕草で呼ばれれば、寄っていくしか選択肢は無い。
「何?」
「拳を出せ」
「拳…?」
「うむ。」
手の次は拳ですか。
そう思いつつ言われた通り拳を握り、幸村の方へと差し出す。
すると幸村も同じように拳を佐助のほうへ差し出し、こつりと音を立てて二つを合わせた。
「お館様にするには良くない行為だということは分かった」
「うん?」
「だが、まぁ挑発のように見えても意味はあったぞ」
「…??」
訳がわからず首を傾げると、にこにこ笑ったままの幸村は嬉しそうにこう言った。
「今更、なのだな」
今更。
忠誠なんて、そんなもん誓うまでもなく。
そういう意味を込めて唇で触れた手の甲。
謎の思考回路を持つこの主でも、しっかり意味は伝わっていたらしい。
何をそんなことくらいで嬉しそうに。
そう思ったけれど。

「とっくの昔にね」

駄目押しに、と付け加えれば。
この日最高の締まりのない笑顔が見れた。
たまにはこういう気障な台詞も言ってみるものだ、と思った。























私はあなたのもの。































−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 初めはこんなに長くなる予定じゃなかったのに…。
 気付けば前後編…。あれれ。
 佐助はいつも幸村に振り回されていればいいよ。
 アスフォデルの花言葉は「私はあなたのもの」。