「こんなもんかねー」
身につける前は本当にこれが一人分かと疑ってしまうような量の衣が散乱していたが、いざ袖を通してみるとちゃんと一人分である。
これを脱いでもう一度一人で着てみろ、と言われれば絶対自分では不可能だと断言できるほどに難解な装束であったが、今こうやってちゃんと着ることが出来たので問題はない。
薄くてひらひらした衣は歩くたびに翻って美しいが、見た目が良くても動きにくさに関しては今まで着てきた装束の中でも三本の指に入る。
手にはいつもの手甲は見当たらず、薄手の絹を何本もの飾り紐で指に括り付け、腕を振る度にひらりと舞うように作られている。袖は長めに採られておりこちらも動けば動くほど美しく翻る。
足には普段は履かない純白の足袋。甲に朱で細かい刺繍を入れた逸品だ。
裾を無くしたいつもの忍袴は闇に浮きあがる白へと変じ、上に着込んだ陣羽織風の上衣は何枚も重ね合わされていて、どれが上衣か既に分からない。
腰のあたりできちんと絞められた細い帯は、一体いくらするのだという程のきめ細かい織目が目を惹き、朱に金を交えた美しい模様は己よりも主に似合いそうな色合いだ。しかもそれにも装飾が付けられており、束になった金鎖が動くたびに涼しげにしゃらしゃらと鳴り響く。
光を返すのは共に括りつけられた玉だ。磨き抜かれた表面は覗き込んだ己の目の色さえ映し返す。
これの値打ちを金に換算することすら恐ろしい。
そして髪にも沢山の飾り房を結わえてある。こちらももちろん赤だ。陽の色の髪と相俟って派手さに拍車がかかっている。
肩から腰にかけては狐の毛皮、しかもめずらしい銀狐のものをゆったりと被せてある。
ひらりと舞う衣とは対照的に、こちらは風を受ければふわふわ毛がそよぐ。
全身を眺めれば、それはもうごてごてに飾りつけられた祭り神輿のようになっているだろう。
そんな恰好でどこに行くのだ、と言われれば“ちょっと一暴れしてきます”といった明らかに体を酷使する場所へと行ってくるのだが。
「さーて後は仕上げ仕上げ」
そう言って隣の部屋へと続く襖を開ければ、主が固い表情で静かに座していた。
「旦那」
「うむ、似合っておるぞ佐助」
これを似合うといわれて喜んで良いのか。
どういう反応をすれば良いか分からず一瞬躊躇したが、褒め言葉には違いないので「どーも」ととりあえず礼を言っておく。
そのまましゃらしゃらと音を立てて近づけば、幸村は音を立てずに立ち上がった。
「いつもの赤鉢巻貸して貰ってもいい?」
「ああ、持って行け」
既に用意されていたそれを受取って、複雑に絡み合っている紐を丁寧に避けて腕に巻き付けた。
「髪も少しだけ貰っていい?」
「ああ、今切ってやろう」
「うわわそれは俺がやります!」
小太刀を慌てて奪って、後髪から数本長いものを選んで切った。
それを指に括られた飾り紐に絡みつけ、編み込み、固く縛った。
「旦那、最後に六文銭貸してもらっていい?」
これを言うのはちょっと声が低くなった。
あの紋はこの身には重すぎる。
しかし今宵の一幕には絶対に必要なものだった。
だから。
「いいぞ」
こちらの気構えなど思いもせぬ主は、丁寧な手つきで自分の首からそれを外し。
ちゃりんと澄んだ音を立てて、佐助の首へ掛けた。
「それじゃ、行ってきますかね」
少し重くなった胸元から意識を引き離して告げれば、炎を湛えた主の視線とかち合った。
「気を付けて、…行って来い」
押し出されるように言われた言葉に「りょーかい」と軽く返して、そのまま庭へと躍り出た。
空を切る度にしゃらしゃら音が響く。
布が風に踊る。
日没近くの赤い陽の光を白の衣が吸い取って、淡い朱鷺色を放つ。
「それじゃ“盗賊団九尾”行ってきまーす」
宙へ待ったその身に付き従った影が九つ。
最愛の主へ美しい宙返りを送って、その華美な集団は姿を消した。
事の起こりは3日前。
常と変らぬ武田主従の殴り愛の最中のことだった。
景気良く吹っ飛ばされた主の体をうまい具合に受け止めて、完全に意識を飛ばしたあどけない顔を確認して息をついた瞬間。
忍の鋭敏な聴覚が足音を捉えた。
腕の中の主をしっかりと抱えなおし、足音の聞こえる方向へ目を向けて信玄に合図を送ると、心得たように頷いて返される。ほどなくして、慌ただしい足音を立てた下男が信玄を訪ねてきた。
咄嗟に目で席を外した方がいいかを問うたが、信玄は手で軽く待機を命じて聞く体制に入った。
そして聞いた内容に耳を疑った。
主の槍、真田幸村の槍が盗まれたと言うのだ。
否、真田幸村のものになる予定の槍、というのが正しい。
それは信玄の命によって作られた幸村のための槍だった。
完成前に何度か幸村が手にしたあの槍は、幸村以外の手に収まることを許さぬ気品があった。
職人が精魂込めて、それこそ命も懸けそうな意気込みで打った傑作。
名を『炎凰』。
左右合わせて初めて一つとなる番いの槍だ。
完成前の段階で、刃が未だに緩く、名前負けしていた時のことだ。幸村がその姿を目に収めた瞬間、鍛冶師の扱う炎が色を変えた。
刃を彩る紅蓮の飛沫は鮮やかに燃え上がり、歓喜するように使い手に応えた。
あれは炎凰が幸村を唯一無二の使い手と認めた瞬間だと、佐助は今でも思う。
その誇り高い炎凰が、何ものかの手に落ちた。
許せることではない。
怒りのせいで冷えた己の空気を自覚しつつ、話の詳細に耳を傾けた。
奪われたのは昨夜、草木も眠る丑三つ刻に事は起こったそうだ。
信玄のもとへ納める日取りを知っていたかのように、その前日を狙い澄まし、清めの篝火が焚かれた神聖なその場所へ賊が押し入ったらしい。
鍛冶師を筆頭に、作製に携わった者全てが必死に抵抗したが、職人の何人かは腕を折られ重傷。
警備に当たっていたものは、薬を嗅がされたようで、碌に抵抗も出来ずに縛りあげられたらしい。
死人が出ていないのが救いと言っちゃ救いだが、その夜の愚行を許す理由はない。
必ず後悔させてやる。
目を眇めて頭の中でいくつもの情報網を引っ張り出していると、信玄が下男を下がらせる声が聞こえた。
足音が充分の遠のいてから、佐助のほうへと視線が向けられる。
焼ける。
皮膚が粟立った。
その視線が佐助を捉えた瞬間、この身が焼き尽くされたのかと思った。
灼熱の炎すら凌駕しそうなほどの怒りの熱を湛えた瞳が、佐助をじっと見据えている。
腹が立つのは分かるがその視線のままこっちを見るのは止めてほしい。
怖すぎる。
それが混じりけのない本音だが、それより意識を飛ばしたまま佐助の腕の中で力を抜き切っている幸村が凄い。
この視線に晒されてなお覚醒しない神経の図太さ。
もしくは豪胆な精神力。
褒めて良いのか貶して良いのか悩むところだが、今は意識を飛ばしてくれていて助かった。
この事件のことを聞けば怒り爆発どころじゃ済まなかっただろう。
かなりの確率でこの庭は破壊される。そして建物も何割かやられるだろう。
そして屋敷中に聞こえる大音声で叫び、ここら一帯の人間全てがこの事件を知ることになる。
せっかく内密に話を届けてくれた下男の心遣いが水の泡だ。
胸の内であれこれ考えていると、あの身を焼くような視線の熱が僅かに緩められた。
少し理性を…否、自制を思い出したようだ。
この辺りが話時らしい。
そう判断して視線だけで問いかけると、こほんという咳払いに続いて低い声が空気を震わせた。
「どうにも愚かな輩はこの世から消えてくれぬもんじゃのう」
「そーですねー。身の程を知れって話ですよねー」
「全くじゃ…」
あんな槍、常人が御しきれるものではないのだ。
業物と言ってもその辺の良く斬れる武器と一緒にしてもらっては困る。
あの両翼に秘められた劫火が、意に染まぬ者の手に己が落ちたと知った瞬間何を始めるか。
想像するだけで恐ろしい。
常に最悪の可能性を頭の隅に思い描いてしまう忍の悲しい性で、今の脳内はかなり悲惨なことになっている。
もう勘弁してほしい。
「佐助よ」
「はっ」
「情報収集は武田の忍に任せよ」
「は…はぁ、」
てっきりすぐさま佐助を動かして一刻も早く事態を終息へ向かわせると思っていたのだが、どうやら違うらしい。
次の言葉を待っていると、何やら人の悪い笑みを信玄が浮かべている。
嫌な予感がする。
忍の直感がそう告げてくる。
この直感は馬鹿に出来ないほど佐助の命を何度も救ってきたが、この状況でそんな直感に働いてもらっても困る。
なんせ逃げ道は一切見当たらないのだ。
この状態でどうしろと。
内心観念して言葉を待つと、やっぱり己の直感は当たっていた。
「天狐仮面の出番じゃ」
「…は?」
何ですと?
あの胡散臭い狐のお面を被った忍がどうかしたのですか。
「天狐仮面ですか」
「うむ。天狐仮面じゃ」
「……えっと、その…天狐仮面ですか?」
「だからそうじゃと言っておろう」
やっぱり聞き間違いでは無いらしい。
まことに遺憾だが。
「あの、そりゃどういった要件で…?」
「炎凰を連れ戻しに行って貰おうと思うてな」
「それは…まぁ喜んで行かせていただきますけど、…俺じゃ駄目なんですかね?」
そりゃあ幸村のあの槍を奪還する役目なんて、こちらから願い出ても良いくらい行きたいのだが。
何故猿飛佐助ではいけないのだろうか。
まだ奪われて日はそう経っていないのだから、遠くへ逃げられた可能性は低い。
甲斐の領内であれば、情報を集めるのにも時間はかからないし、忍び込むにしても容易い。
普段の諜報活動に比べれば、ずっと手早く済ませることができるだろうに。
何故。
「猿飛佐助は目立ち過ぎる」
「いや、天狐仮面の方が目立つと思いますが…」
「お主は良く出来た忍だからの、領内では知らぬものはおらぬじゃろう…。その猿飛佐助が動けばちとやっかいでのぅ」
佐助の突っ込みを華麗に流して信玄は食えぬ笑みを浮かべた。
こういう顔をしている信玄には逆らわない方がいい。
それを佐助は良く知っていた。下手に余計な茶々を入れるといらん苦労を背負いこむ羽目になるのだ。
だからここは何としても口を噤んでいなければいけない。
突っ込みたい部分は多数あるけれども、それを気合いで我慢する。
忍は耐えることに長けた生き物だ。どんなに脱力しそうな内容であっても我慢するのだ。
そう言い聞かせたら、何とか我慢できた。
「というのは建前で、炎凰だけを密かに取り戻すくらいでは気が済まん」
「やっぱそっちですか…!!」
我慢した突っ込みはあっけなく口から飛び出した。
人の努力を返して欲しい。
「忍のお主が派手に動く舞台などそう多くあるまい…。せっかくじゃからの、主らにしか出来ぬことをやってやれ」
「はぁ…」
忍にしか出来ないことを天狐仮面でやれ、と言われても、思い浮かぶのは変装して潜入くらいしかない。
お面被ってる時点でそれは変装というより仮装だが、あれで正体がばれない相手なんて、この広い甲斐の領内探しても幸村ぐらいしかいないだろう。
それなら素顔晒した方が精神的にも技術的にもやりやすいのだが。
「早速準備を始めねばな。毛皮は蔵のをいくつか持って行けば良いし、飾り房も赤なら腐るほどあろう。…あとは衣じゃな」
「ちょちょちょちょっと待って下さい大将?!何か色々仰々しい感じのものを口走ってる気がするんですけど何する気なんスかッ?!」
「せっかくじゃから派手に行けい」
「派手の意味がなんかおかしいんですけどっ?!」
天狐仮面どころか本物の狐に化けさせられそうな仰々しさに必死に言い募れば、馬鹿者、と信玄は楽しげに笑んでこう言った。
「これくらい派手にいかねば正体などすぐに見破られてしまうぞ」
「一体俺をどうしたいんですかっ?!」
もちろん間髪入れず抗議する。
普通忍に正体を隠せと言うならば、目立たないどこにでもいるようなものに化けさせれば良いのだ。それなのに何故そこまで派手に拘るのだろうか。
「んな毛皮やら飾り房やら付けて行ったら動きにくいことこの上ないですよ!祭りじゃないんですからもうちょい動き易いもんにして下さい!」
「動き辛さなんぞ我慢せい。彼奴らに天罰を下しに向かうのじゃぞ?着飾れるだけ着飾って行かぬか!」
「へ?」
何だかふさわしくない言葉を聞いた気がする。
天罰?
というのは人在らざるものから下される裁きのことでは無かっただろうか。
忍であるこの身には最も似つかわしくない言葉だと記憶しているはずだが。
「え…ちょっ大将?天罰って…」
「人の裁きでは彼奴らも早々悔いぬじゃろうて。ならば天の裁きにしてしまえば良い」
信玄は人の悪い笑みを浮かべ、空を仰ぎ見た。
「この世のものとも思えぬ恐怖を与えて来い。正体さえ隠せば何をやっても儂が許す。…佐助よ」
「…はい」
こうなった信玄は幸村と同じで…いや、それ以上に何言っても聞かない。
止められる者など皆無だ。
佐助は主を支えたままの腕に力を込め、今まで何度も味わったやるせなさを噛みしめて言葉を待った。
そして信玄は告げる。
「怪盗天狐仮面じゃ」
嗚呼。ついに俺様公の場であの姿を晒さなきゃいけないみたいです。
舞へ
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
いつぞやの妄想の怪盗天狐仮面。
設定に無理があっても愛はあります。
そして萌えも詰まっています。
またもいくつかに別れてしまい不甲斐無いです。
でも続きは近いうちに。
(08.9.23)