久しぶりに入る幸村の部屋は、少し薬の匂いがした。
いつもは畳の匂いと質の良い衣の匂い、そしてほんの少しの汗の匂いがするのだが、今は薬の独特の匂い静かに漂っている。
薬の匂い自体は慣れたものなのに、それが幸村と合わさるとどうにも違和感が拭えなかった。
風邪ひいたにしても一晩寝ればけろりとしているし、体も丈夫なほうなので今まで薬湯に世話になったことなど数えるほどしか無かった。
この部屋に薬の匂いが充満することなど、戦明けの少しの期間しかない。
それでも外傷用の化膿止めの匂いと、今この部屋を満たす薬湯の匂いとは違う。
(駄目だ)
沈みかけた思考を無理やり振り払って、また一歩部屋へと踏み込む。
すると、少し掠れた浅い息遣いを聴覚が捉えた。
爛れた喉では息すら難儀しているようで、いつもは一定の速度で繰り返される呼吸が酷く不規則だ。
その音に包帯の下で眉根を寄せつつ、手探りで障子を閉めるとその場で膝をついて頭を下げる。
「猿飛佐助、ただいま参上致しました。」
幸村に対してはあまり使わない堅苦しい口上を述べて、返される指示を待った。
「佐助、幸村様が手招きしていらっしゃる。その気持ち悪い言葉づかいをやめてとっととこっちへ来い」
口のきけない幸村に代わって、容赦のない才蔵の言葉が佐助に投げかけられた。
いくらなんでも気持ち悪いは酷い。
内心でそう毒づきつつも、佐助は素直にその言葉に従った。
「へいへい…、でどういった用件で?俺様今目使えないからあんまり役に立たないよ?」
幸村がしばらく声を使えない程の毒を受けたのだから、その忍が無傷なはずがない。
佐助も同じように毒を受け、喉を焼かれ、ついでに目も潰された。
血反吐を吐き、血の涙を流しながら幸村を抱えて本陣に帰還した時は周囲を驚かせたが、咽喉に関しては毒に対する耐性をつけていたおかげですぐに回復した。
しかし眼球の粘膜など鍛えることなど出来るはずもなく、視力はあっけなく奪われた。
しかも受けた毒は思いのほか強いものだったらしく、なかなか完治しない。
屋敷に戻った今も真面目に療養中で、忍の仕事も大半は副官の才蔵や他の幹部達に任せてある。
一応眼が使えなくとも出来ることはそれなりにあるので、治療と並行して普段滞りがちな雑務を片づけていたのだ。
そんな折、幸村から呼び出しが掛った。
大した用では無いので時間が空いたら来い、ということだったが主に呼ばれてそれを後回しに出来るはずなど無い。
言伝を聞いてすぐに出向いた。
「よっこいせ」
間の抜けた声と共に幸村の正面に座すと、ふ、と空気が揺れるのが分かった。
幸村が手で何か合図したらしい。
しかし佐助には見ることが出来ないので、この合図は佐助では無く才蔵に向けられたものなのだろう。
そう思ってじっとしていると、「では此れにて」と才蔵が意味のわからない言葉を発した。
いぶかしんで才蔵がいるであろう場所に顔を向けて僅かに首を傾げると、たすたすと静かな音を立てて本人が脇を通り過ぎて行く。
「えっ?あれ才蔵?」
通訳の役目を果たすはずの人間がどこかへ去ってゆくのを意味も分らず見送ってしまい、佐助は困惑して幸村へ顔を向けた。
「旦那…才蔵返しちゃったら俺たちまともに会話できないと思うんだけど…」
佐助から話すことはできても、幸村が何らかの行動を起こして、それを佐助が察知する術が明らかに欠けている。
筆談するにしても佐助は読めないし、息をすることすら難儀している幸村の喉では、無声音すら発することはできない。
いったいどうしろと言うのだ。
「せめて用件だけでも聞かせて貰いたかったんだけどなー」
佐助がぼやくと、目の前に座す幸村が腰を浮かし、一歩分の距離もなかった二人の間を埋めた。
そして手が伸ばされ、布の巻かれた佐助の目のあたりに手が添えられる。
「……」
困った事に、声が無くとも意図は読めた。
伝わってくるのは暖かな気遣い。
「大丈夫だって…夜はもう目は開けていられるから。あと数日もすれば昼でも目は利くようになるよ」
口元を緩めてそう告げると、目の前でまた空気が揺れた。
多分幸村が少し笑ったのだろう。
呼吸が少し乱れて、ひゅうと喉がなると苦しげな息遣いが鼓膜を震わせた。
その音にちくりと胸が痛み、何か声を掛けようとすると、目元に添えられた手が滑り頭をわしわしと撫でられた。
「……えっと、うん?」
意図がわからず困惑するも頭を撫でる手の感触は無くならない。
されるがままに身を任せ、じっとその感触を享受する。
少し乱暴な仕草も、目に焼きついたあの猛々しい姿を思い起こさせ何故か心地よかった。
頭を撫でられたことなど本当に小さい頃以来で、少し恥ずかしい。
「あの…旦那」
嫌では無いのだが、意味がわからない。
宥める時や冗談めかして誉めるときなどに佐助から撫でる時はたまにあるけれど、逆は今まで無かった。
そのため幸村が何を考えて行動しているのかまったくもって想像つかない。
表情から読み取ろうにも目は利かないし、どうしようもない。
とりあえず何かしら行動の意味を読み取ろうと、頭を乱暴に撫でる手を辿って幸村の肩口に手を伸ばした。
わしわしと手が動くのにあわせて、無駄無く鍛えられた筋肉が衣の下で動く感触がする。
「旦那?」
問いかけると手の動きが止んだ。
置かれたままだった手が離れて、とさりと畳の上に落ちる音がした。
頭から幸村の手が放れた途端、一気に首が軽くなった。
いったいどれだけの力で撫でていたのだこの人は。
療養中の人間とは思えない程の馬鹿力っぷりだと感心しつつ、残った五感を駆使して気配を読む。
「ちょっと退屈してた?」
その言葉に反応するように触れた肩がひくりと動いた。
肯定というより、戸惑いのようだった。
多分、退屈というよりも鬱屈の方が今の状態を表す言葉としては正しいのだろう。
いつも有り余る元気を暑苦しく鍛錬で発散しているのに、今は呼吸もままならず自由に動けない。
外傷は完治したのに、呼吸器官をやれているだけで驚くほど行動は制限される。
それがもどかしいのだろう。
普段、体を動かすことを日課としている幸村ならば尚更。
「今は呼吸もしんどいだろーけど、あんたの回復力ならあと二日もしたらだいぶマシになるよ。同じ毒を受けた俺の喉だってもうこんな感じでしょ?声は出せなくても日常行動だけなら問題ないだろうし、その辺出歩くことくらいは出来るかもよ?…まぁ鍛錬はまだやっちゃ駄目だけど」
慰めの言葉としては何とも拙劣なものになってしまったが、なるべく現実的なものを選んだ。
下手な慰めは変なところで敏いこの主には通用しない。
けれど真実を含ませたちょっと楽観視した予想なら、それは信じて貰える。
それと、己の口から出た言葉…――猿飛佐助の言ったことならば。
それくらいは、自惚れている。
「だから今は安静に。…って他のやつらからも口うるさく言われてるか」
苦笑を洩らすと、幸村が佐助の手首を掴んだ。
肩に置かれたままだった手が外されて、そのまま上へ持ち上げられる。
行き付いた先は多分、顔。
指の背に幸村の頬の柔らかい感触がする。
「何?」
問いかけと共に頬を撫ぜると、答えるように手首を掴んだ幸村の手が滑り、佐助の手のひらに移動した。
力を入れずに軽く曲がったままだった指を幸村の手が開かせ、指がまっすぐ延びる。
そして、その手を今度は横にずらす。
「え?」
行き付いた先は唇だった。
指の腹に乾いた皮膚の感触がする。
それが何かの形に動いた。
「…まさか、読唇術?」
何となく思い当って問いかけると、肯定の意味なのだろう、肩口をぽんと一度叩かれた。
「読唇術って…あんた」
違うでしょ。
そう続けようとして、…やめた。
普通は目で読むものなのだが、幸村がやれと言うならやるしかない。
一応あらゆる意思疎通の方法はそれなりに精通している。
流石にこれは無いけれど。
「流石の俺様でもちょっとこれは骨が折れるね…。上手くいかなくても怒んないでよ?」
その問いにはまた肩を叩かれることで了解を貰った。
それでは早速…と思い、あらためて指を唇に這わせると。
「っ?!」
佐助は思わず手を離した。
ぞわりと全身を悪寒が駆け巡り、頭の片隅で警鐘が鳴る。
背を嫌な汗が伝い、鼓動は早鐘を打ち始めた。
「なっ…!!!何今の!?」
あまりにも吃驚しすぎて声が裏返っている。
それを自分で気付きながらも直す余裕などない。
只でさえ気を付けていないと掠れそうになる病み上がりの喉だ。
こんな動転している時にそこまで気が回る訳がない。
というよりもまず今の感触。
信じられないものに触ってしまった。
黙っている訳にはいかない感触だった。
「ちょっと今の!!あんた何なのその唇!!!カッサカサじゃねぇの!!ちょっ…うっわ痛そっ!!ぜってー痛いだろそれ…!!あ〜も〜あいつら〜〜〜〜何でそういうとこ気が利かねぇのかなぁ?!」
佐助はバシバシと畳を数度叩き、顔を伏せてふるふると頭を振って己の部下たちの不甲斐無さを悔やんだ。
ついでに頭も抱えて深く深く深く溜息も吐く。
指に感じた皮膚の感触は恐ろしいものだった。
もう唇じゃない。冬場の水仕事で荒れた指先の感触だアレは。
ひび割れてカッサカサだ。
感触だけで痛い。
「ちょっと旦那!!軟膏とか無いの?!何かあるでしょ!!何か見た目可愛らしい感じの小さい貝とかに入ってるヤツだよ!一個くらい無かったっけ?!無かったら俺今から取ってくるから!!」
一気にまくし立てて幸村ににじり寄った。
少し傍を離れているだけでこれだ。
傍仕えの人間も忍隊の連中も、幸村のこの唇の荒れ具合に気付いた人間はいただろう。
しかしそれで軟膏を持ってくるくらいではこの人は動かない。
塗るところを確認しないと、この物ぐさで不器用で放っておけばこれくらい治るわ人間の真田幸村様は絶対駄目なのだ。
しかも変に我慢強い上に痛みに慣れているときた。
これ以上無いほど悪循環。
「作り置きあったっけ…?確か阿呆みたいに洒落た細工した貝を持って来やがったのを使い道がないまま置きっ放しだった気が…いやいや駄目だあれはくの一に獲られた。…いっそ補充用の壺ごと持って来ちまうか?」
ぶつぶつと対策案を呟いていると、目の前でぽくん、と小気味よい音が鳴った。
人が何か思いついた時にやるあの動作。
握った片手の拳でもう片方の手のひらを打つあれだ。
どうやら幸村が何か思い当ったらしい。
「ん?やっぱ持ってた?!良し、んじゃ持ってきて!」
いつもは佐助が取りに動く方なのに、主に動いてもらうのが情けない。
一人で自己嫌悪に陥りそうになるも、幸村は気にした様子もなく軽快な足取りで部屋の奥、文机付近へ去って行った。
そして数度引き出しを開け閉めする音が響き、一つだけじゃらりと変わった音が響いた。
そのまましばらく音がやみ、ふと考え込むような気配が伝わってくる。
何か迷っているようだ。
「旦那ぁーどれか分かんないなら全部持ってきたら良いぜー?」
声をかけると、しゅごっっと音を立てて引き出しが引っこ抜かれる音がした。
中身では無く引き出しごと持ってくる心算らしい。
相変わらず豪快なお人で…、とひとりごちた佐助だが、すぐさまその考えを改めた。
近づいてくる音が何だかおかしい。
幸村が歩くとともに、じゃらんじゃらんごろんごろんと物凄い音がする。
一体引き出しにどれだけ該当する品が入っていたのか。
確かめるのがちょっと怖い気がする。
そう思って心もち姿勢が後よりに傾いた。
「あー何か嫌な予感がする。絶対俺様何かこの後脱力するそんな気がするー…」
自虐的な予言を自ら呟きつつ、その引き出しは佐助の目の前にゴトンと置かれた。
着地の音すらおかしい。
「えーっと見えないからとりあえずさわって確かめ…うぎゃ!」
嫌な予感的中。
言葉の途中で変な悲鳴が上がった。
でも仕方がないじゃない。
突っ込んだ引き出しの中身は貝だらけでした…なんて。
「何っ…このっ…大量の…っっ。はぁ…」
全部いう元気もない。言葉尻は深い溜息となって消え去った。
聞くまでもなく予想がついてしまったのだ。
この大量の軟膏の山の理由。
「馬鹿だとは思ってたけどここまでとはね…。あー旦那?こんな大量の薬わざわざ取っておいてくれてありがとうね(っていうか使ってほしいのが本音なんだけどそれはまぁおいといて)。連中の長として礼言っとくわ…ああ畜生あのお馬鹿さんどもめ!」
そう。
大量の軟膏の送り主は半数以上が忍隊の面々からだろう。
ふわりと薫る嗅ぎ慣れた匂いは忍の扱うものが大半だ。
そしてその中に市井で出回っている芳しい香りつきのお洒落なものも混ざっているのでもう何とも言えない匂いだ。こちらは下働きの人間からのものだろう。
「うわ〜〜凄い。その辺売り歩けば結構な稼ぎになりそう…って痛!」
送り主に失礼なことを呟けば幸村の拳骨が飛んできた。
手加減してくれているのは分かるが(手加減無しだと冗談抜きで脳天がかち割れる)それでも痛い。
「つぅ〜〜〜、悪かったってもう言いません!っていうか俺様も一応まだ怪我人だからね!もっと労わって!!」
冗談めかして抗議すると、ぺしりと全然痛くない一発が降ってきた。
労わった一撃らしい。
案外言ってみるものだと佐助は思った。
「よし、それじゃあせっかくこれだけあるんだから一番良いの選んじゃおーぜ。へっへー贅沢!」
そう言って佐助は引き出しをゆっくりと傾けた。
ごろごろと音を立てて畳の上に大量の軟膏が転がり出てくる。
音だけで十数個。
二十を超えるか超えないかといったところだ。
「まず匂いで選別するね。どーせあんたの事だから香りのついた洒落た軟膏なんて“女子のようではないか!”とかいって嫌がると思うので却下―。」
幸村の台詞の部分はわざわざ声色を変えてまで真似して見せる。
まだ完治には至っていない喉ながらも、慣れた声真似はそれなりに上手く出来た。
幸村もふ、と微かに笑ったようだ。
きつい薬の匂いと、僅かに血の匂いの混ざった吐息。
それが笑い声のしるし。
嫌な特徴ながらも、この単調な療養生活の中で笑うことができるのならばそれでもいい。
そう思ってまた沈みかけた思考を振り払う。
すると、目が利かないせいでいつも以上に鋭敏になっている五感が僅かな揺れを捉えた。
出所は部屋の周りに潜む影からのようだ。
最近ずっと聞けていない幸村の声に、警護にあたっていた忍が反応したらしい。
佐助も自分でやっといてちょっと苦しくなったくらいだ。
聞いた方はもっと苦しいに違いない。それが佐助の声真似だと分かっていても。
うるさくても良いからこの人の声を早く聞けると良い。
「さて次。ここからは忍の嗅覚の見せどころ。あんたの飲んでる薬湯と相性の悪いやつを弾きます。あー馬鹿だねうちの連中。それくらい調べて送れっての」
くんくんと嗅いでぽいっと引き出しへしまう。
悲しいことに結構な数が弾かれた。下調べ物もろくに出来ないとはこのお馬鹿さんたちめ。
テンパってるのはわかるけれど、この辺は抜かりなくやってほしいというのが長としての感想だ。
「次はもっと凄いよ俺様。薬効のきつ過ぎないのを残します。あんたの唇ちょっと酷過ぎるからね。治す前に油分を与えてやらないと駄目だから」
今度は念入りにくんくんと嗅いで引き出しに戻す。
この辺りから流石の幸村もわからなくなってきたらしく、先ほど弾いたものと、残したものを嗅ぎ比べて考え込んでいる。
「よし、これで結構絞れたかな?えーっといちにいさん…六つ?」
佐助が問いかけると、目で確認した幸村が佐助の肩口をぽんと叩いた。
自己確認のつもりで呟いた問いかけにも、律儀に答えてくれたらしい。
「さすがにこのあたりを匂いだけじゃ判別できないので…お次は味覚」
佐助がしゃべっていないと間が持たないので、幸村が退屈しないようにいちいち説明口調で話す。
むこうから質問出来ないのであれば、聞きたいことを予想して話すしかない。
今のところ幸村は満足しているようだ。
「ちょっとずつ舐めて確かめます。…あ、あんたはやっちゃ駄目だからね!言っとくけど不味いから。苦いからね!」
釘をさすと、幸村がぴたりと動きを止めたのが分かった。
一緒に試してみるつもりだったようだ。
さっきから軟膏だ薬だと何度も言っているのに、口に入れても大丈夫なものだとわかると試してみようとする。
子供かあんたは。
心中で突っ込みをいれながらも佐助は一つめを手に取った。
「唇に塗るものだから口に入ることもあるしね、あんまり苦くないのを選ぶから安心しな。」
甘いの大好き苦いの大嫌いな幸村のために、佐助はそこまで考えて動く。
軟膏の選別基準に“味”というのもおかしな話だが、その辺は主が絶対基準なのでもう気にしない。
「苦っ!…やっぱロクミネ草は効き目はともかく味は駄目だよなぁ…。これ絶対藤調合だわ…。」
内輪でしか分からないことを呟きつつ他の五つも指に少量掬ってぺろりと舐める。
「んー一応これとこれと…あとこれかな?候補三つ!あとはあんたが決めなよ。あーっとその前に一応色だけ気を付けてな。流石に無いだろうけど、赤系は紅が入ってるからやめといて。化粧に使うやつだから…」
舌で確かめたから流石に紅は混ざっていないはず。
けれどくの一たちが冗談で混ぜてくることはありうる。そして下手に腕の良いやつが多いため巧妙に隠されることもあるのだ。
「何か一つだけ細工がもの凄いのあるよな…。わざわざ貝の表面削って彫刻施して、その上に塗料で光沢づけまでされてんの!…ったく誰だよこんな凝った品作ったの」
そんなものに時間掛けるくらいなら仕事しろ。
そう思ってぼやくと、その物凄い細工の施された貝に入った軟膏を手渡された。
「え…これ?」
問いかけるとぽんっと肩を叩かれた。
これに決めたらしい。
「まぁ良いけど。うわぁやっぱり凄い。なんの彫刻だろこれ…?鳥?花?」
指でたどると流麗な凹凸が何かを形作っている。
中身の薬は忍のものだ。
忍隊の人間が彫刻師並の技術を持ってこんなものを作り上げたようだ。
いっそ転職してしまえ。
「真田幸村に贈る品だもんなぁ。それならやっぱ紅蓮とか虎とか炎とか。うーん貝に描いて映えるものでそれとなると…」
考え込む佐助の前で、答えを知っている幸村がもどかしそうにしているのが気配で分かる。
「旦那。あってたらさっきの要領で肩一回叩いて。それで答え絞りこむから」
まかせろ、とでも言うようにぺしり腕を叩かれた。
下町で童たちがやっている手遊びみたいで少しこそばゆい。
「んじゃまず色ね。これ色付いてるでしょ。赤じゃない?」
ぽんと肩に一つ。
やはり赤色で当たっているらしい。
細工に色づけ。
どんだけ凝り性なのだろうか。うちの忍は。
「んじゃ次は柄。ちょっと細かくて読み取り辛いけど…これ鳥だと思うんだよね。なんかこの辺羽っぽい」
ぽんとまた一つ肩に。
これも正解。
赤で、鳥。
これで連想できるものなどそう多くない。
「これで外したらぶん殴られそうだね…」
貝の丸みを帯びた表面一面に彫られた翼。
つややかに釉薬を掛けて丁寧に染め上げた赤。
真田幸村の炎。
「“朱雀”」
答えると、ぐしゃぐしゃと髪を掻き回された。
かなり手荒いけれど一応誉められているらしい。
「うわっわちょっと痛いって旦那!」
抗議すると力がかなり弱められた。
佐助が怪我人だということを思い出したらしい。
しかし手はそのまま頭の上で、ぽんぽんと跳ねている。
横移動をやめて上下移動に変更されたようだ。
これなら気持ち良い。
「あいつらも洒落てるねぇ…。炎の鳥とは」
あんたにぴったりだ。
とは流石に褒めすぎのような気がしたので口には出さなかった。
「ま、目で楽しむ品には違いないから、見舞いの品としては一応上出来かな?」
そんな捻くれたことを言ってごまかして、ぱかりと合わせの貝を開く。
丁寧に調合された薬と油分のあわさった匂いがかすかに舞い上がる。
良い品だ。
もしかしたら忍隊の数人での合作かもしれない。
「流石旦那大好き人間たち…」
げっそりと呟くと、頭の上で跳ねていた手が止まった。
何か言いたげな気配が部屋を満たす。
「んーっととりあえず聞きたいことは後回しで。唇読もうにも状態がそれじゃね…怖くて触れねぇわ」
慄いたように体を震わせると、左手で幸村の右肩を掴んだ。
その手をゆっくりと上に滑らし、顎の位置で静止する。
今度は先ほど開いた貝の中身を右手の薬指で適量すくい取ると、手の甲を下にして己の左腕に乗せた。
そしてそのまま腕に沿って幸村の方へ滑らせる。
手首の位置まで滑らせると、少し仕草をゆっくりにして頬にそっとふれた。
そうして指の背で頬なぞりつつ移動させると、唇の位置は完璧に捉えられた。
目が見えなくてもある程度位置は把握できるものの、流石にそんな状態で主の顔に指を伸ばすことなど出来るはずがない。
間違いは少ない方が良いに決まっている。
この方法だと誤って変な所に触ってしまうようなへまをしないで済む。
それに向こうにとっても安心だろう。
目の見えない人間から顔に向かって指を伸ばされるのだ。幸村がどれだけ常識の範囲内からぶっ飛んだ感性と打たれ強さと能力を持っていたとしても、ある程度の恐怖はあるだろう。
ちなみに本人に薬を塗らせると大変なことになるからその選択肢はない。
ひび割れてカサカサの唇の皮膚が破ける可能性がある上、塗布する量の限度も知らないからだ。
佐助だって目が利かないのにこんなことしたくはない。
けれど明らかに幸村より上手に塗れるのだ。
比較にならないほど。
「それじゃ塗るから口をちょっと開いてー。あーうんそんな感じ。薄くでいいから」
そう言ってそっと唇に薬を塗布した。
指を滑らせて薬を伸ばせるような状態では無いので、ひび割れた唇に沁み込ませるように乗せなければならない。慎重にとんとんと指で叩くように薬を広げ、まんべんなく塗りつける。
もともと高い体温のせいか、薬はすぐに緩く溶けてくれた。これなら肌に馴染むのも早いだろう。
全体的に塗り終わったけれど、少し量に心許無いので、もう一掬い指に乗せてさっきと同じ要領で唇まで指を運んだ。今度は塗りつけるように指の腹で引き伸ばす。
割れた部分の皮膚が捲れないように気を付けて、早く良くなれー早く治れーと念を込めて塗りこんでやった。
気休め程度だとしても、念じておいて損はすまい。
「よーしこんなもんかな。ちょっと唇が気持ち悪くても我慢してくれよ?」
薬の付いた指を行儀悪く袖で拭いつつ、言い聞かせるように言えば顎に指の感触。
「へ?ちょっと何?…ちょっとあんた指の力強すぎ。って何がしたいの!」
がっちりと食い込むように掴まれた顎は、どれだけ力を入れようと動かせない。
握りつぶすつもりなのだろうか。
そう疑ってしまいたくなるような握力だ。
「ちょっと、何?!結構痛いよこれ?!」
あわあわと慌てつつ抵抗しても、指の力は弱まるどころかさっきより強くなっている。
一体どうしたのだろうか。
「ほんとに何なの?!あの、洒落にならなくなって来てるんですけど顎!」
掴まれている腕に手をやって何とか引き剥がそうとしても、馬鹿力には敵わない。
本格的に術でも使って逃げようかと思ったところで、唇に何かが触れた。
べたり、とした感触。
ふわりと香る薬効の匂い。
さっきの軟膏だ。
どうやら幸村は佐助にも同じことをしてやろうと思ったみたいだ。
相変わらず物好きな主である。
別に唇が荒れている訳でもないけれど、こういう心遣いは素直に受けておくに限る。
が。
「いだだだだだだ顎とれるっ顎!!とれる外れる割れる〜〜〜〜!!!!」
力加減を考えて欲しい。
本気でこれは顎が割れる。もしくは砕ける。
顔の形を変えるのは、この世に猿飛佐助が必要無くなった時だと決めている。
間違ってもこんな間抜けな骨格整形は嫌だ。
必死に泣き叫べば、やっと力が緩められた。
ほんとに勘弁して欲しい。
「い…痛いっ!旦那ちょっと酷くない?!うわーちょっと俺様の顎割れてない?これ割れてないよね?」
さすさすと顎をさすりながらぼやけば、ぽんぽんと頭を叩かれた。
一応悪いと思ったようだ。
しかしそれで終わりでは無かった。
今度は顔を固定されることなく、いきなり口に来た。
「へぶ」
しゃべりだそうとした瞬間だったため、これ以上無いほど間抜けな声が漏れた。
恥ずかし過ぎる。
文句を言おうにも口は指でふさがれている上、さっきの二の舞になりかねない。
ここは大人しくしているべきだ。
そう思ってぐっと我慢する。
それにしても幸村はやはり不器用だ。
唇の上を滑る指は、明らかにぎこちないし、掬いとる薬の量も大幅に間違えている。
薬が口の端からはみ出てしまって、何だか気持ち悪い。
それでも良かれと思ってやっているだろうから、佐助はじっとしていた。
「ん?終わりね」
指が離れたのでそう言えば、口の端にまた指の感触がした。
粗野な手つきではみ出た薬を拭い、反対側も同じように拭われる。
「へぇ、どーも」
手つきは乱暴ながらも、何げに気が利くのでちょっとびっくりした。
素直に言えば、ふふん、と控えめな吐息で得意げな笑いが聞こえた。
こういう仕草は子供っぽくて可愛らしいと思う。
口に出して言えばぶん殴られそうなのでいつも言わないが。
「それじゃ旦那。早速唇読むよ」
気を取り直してそう言いつつ指を伸ばしかけると、幸村がその手をとり、唇まで導いてくれた。
今日は何かと気が利く主だ。
薬を塗る時もこうやって貰えば良かったと思ってももう遅い。
気持ちを切り替えて唇に触れた。
「いつでもどーぞ。口の中痛かったらすぐに止めてよ?治るの遅くなったら俺様色んな人に会わす顔がないからね」
楽しげにそう言えば、幸村の唇が動いた。
初めはそう難しいことは言わないと何となく予想が付いている。
幸村なら、こんな遊戯みたいなやりとりで、一番はじめに口にする言葉は。
「え…?あれ…?」
思ったより上手くいかない。
口の動きが予想と違い、戸惑ってしまう。
なぞるように指を滑らして、形を注意深く読む。
「ごめんもうちょいゆっくり…。えっと…あ?う??」
母音はなんとか読めるけれども、音として読み取れないので子音は難しい。
しかしこの母音の並びは。
馴染み深いこの言葉。
「“さ、す、け”」
読めた。
読めたけれども。
「うん。…何?旦那」
幸村に触れていない方の手が震えた。
予想と違ったのだ。
この人なら、絶対“お館様”って言うと思っていたのだ。
それが、こうくるとは。
何で、こんな。
不覚にも感動した。
「いいよ、続けて?」
震えそうになった言葉を何とか制御してそう言えば、また唇が動く。
「く…す?“薬”?…あ、が?“苦い”。ってあんたなぁ、良薬口に苦しって言うでしょ。俺も同じようなの飲んでたんだから文句言わねーの!」
何となく勝手が掴めてきた。母音を押さえてコツさえ掴めれば後は予想で何とか補える範囲内だ。
「“飯…も”?“食えぬ”」
次は何が来るだろうと意気込んで、指で読み取ったその言葉を認識した途端、ずきりとどこかに痛みが走った。
じくじくと血を滲ませ続けていた傷口に刃を入れて、もう一度大きく開きなおしたような痛みだ。
心臓が一つ大きく脈打ち、周囲の音が遠くなってゆく。
「…口の中が、そんだけ爛れてちゃあ、…ね。固形物は咀嚼できねぇし…。」
他人が何処か遠くで話していると錯覚しそうな言葉を口にすると、聞こえた声音の頼りなさに笑ってしまいたくなる。
情けない。
何か言わなくてはまたも真っ暗な思考に沈んでしまう。
そう思って口を開けば、言うはずのない言葉が飛び出て来た。
「うん、…ごめん」
何を謝っているのだ。
幸村が食事をまともに取れないのは、毒を受けたせいで、毒を受けたのは敵のせいだ。
あれだけの包囲網の中を間一髪で間に合ったのは幸運なことだったし、この負傷も完治できる範囲内だ。
そう、悪くはない。
けれど、でも。
もし、駆けつけるのがもう少し早ければ?
毒が幸村の喉を焼く前に間に合っていれば?
ああ駄目だ。
また考えてしまう。
思考からどう逃れようと意識を引き締めると、指先に唇の動く感触がした。
幸村がまた何か話している。
「“何、が”…?」
理由を聞かれても、普段ならあの手この手ではぐらかして答えなかっただろう。
けれど今は、どうにも余裕がない。
判断が追い付かず、主からの問いに馬鹿正直に理由を答えてしまう。
「いや、あんたのその怪我はさ。やっぱ俺の責任だし、もうちょい早く駆けつけてりゃこんな…」
最後までは言えなかった。
言葉を止めたところで言いたいことはすべて伝わってしまっているのだろうが、それでもこんな言葉を怪我人の前で吐くものではない。
口に出してしまった言葉が情けなくて、幸村から己の表情が見えないようにと、幸村の肩に己の頭を押し付けることで隠した。
「…ごめん」
謝罪の言葉が、何に対してなのかもはや自分でも分からない。
暗く沈んでゆく思考を引き戻すために唇を噛みしめると、さっきの軟膏の味がした。
せっかく塗ってもらったのがとれてしまうのは勿体無くて、それ以上噛みしめることが出来ない。
何というか、我ながら女々しい。
幸村から与えられるものは、こんなものまで惜しく思ってしまうとは。
物欲なんて己の意思一つで制御できてしまう身としては、何とも情けない話だ。
二重の意味で落ち込んでしまいそうになるのに、舌に広がった薬の味が何故か優しい。
肩に頭を押し付けたままじっとしていると、頭の後ろに温かい手の感触がした。
幸村の手だ。
頭に巻いたままの包帯の端を辿るように撫でて、耳のあたりで髪が何度か梳かれる。
掠めるように首に触れる指の感触が心地よくて、強張っていた肩から力が抜けていった。
「……、ぇ」
不意に聞こえたのは掠れた吐息。
己の喉からでなければ発生源は一つしか無く。
「だんな」
声出したら駄目だ。
そう言おうとして、顔をあげようとすれば首の後ろを抑えれていて動けない。
躍起になって口を開こうとすれば、耳元で消えそうなほど小さな声で紡がれる言葉に閉じざるを得なくなってしまう。

『目は本当に、無事…か?』

無声音で言われたその言葉に泣きたくなった。
こっちが幸村の喉を心配して地味に落ち込んでいるあいだ、この主は佐助の目を心配していたのだ。
この人は、もう。
「さっき言ったでしょうが…。俺様の目は大丈夫だって。ほんとだってば」
幸村からこっちの顔が見えないのを良いことに、顔を歪めて必死に言い募った。
今酷い顔をしている自信がある。
忍の癖に泣きそうだ。
「もう喋っちゃ駄目だかんね。絶対声出すなよ。俺は本当に大丈夫、…弱音吐いて悪かったよ」
こんな状態の幸村に慰められるとはそれこそ面目丸つぶれだ。
相手のことを考え無いにもほどがある。
「もう大丈夫。マジで!あんたの喉だって早く治せるように俺も動くから。そんで次は絶対こんな怪我させない。…ね?前向きっしょ?」
声色に笑みをのせて言えば、抱えられたままだった頭を軽く叩かれた。
苦笑と言うより、どちらかと言えば叱責に近い気配がする。
何かが気にくわなかったのだろう。
「え…何か足りないの?」
聞けば、頭をぐいと引かれて顔を上げさせられる。
そして目のあたりを指がそっと撫でてゆく。
「ああ…すんません。俺様も怪我しないから」
どこまでも男前な主だ。
どれだけ惚れ直させれば気が済むのだろうか。
ゆっくりと上がっていく体温を感じつつ、傾ぎそうになった体を立て直した。
このままでは何かが駄目だ。
忍の勘がそう告げているので、話題の転換を図る。
己の懐に、主が一気に飛びつきそうなものが既に入っている。
話題転換の内容としては上々だ。
多少話の切り替えが強引でも、気にしている場合ではない。
「そうそう、旦那。お見舞い渡しとくよ」
そう言って懐の中から小さな袋を取り出す。
赤や黄色で彩られた華やかな柄の、それ。
手のひらにちょうど収まる様な小さな巾着は、軽く振ると固形物がぶつかり合うような音がする。
幸村の注意を惹きつけておいて、丁寧な仕草で口を縛ってある紐をほどいた。
「あんたが喜びそうなもんって言ったらこれくらいしか思い浮かばなくてさ」
そう言って中身を見せると、目の前からぶわりと嬉しそうな気配が立ち上った。
中身が何か理解したようだ。
「見た目は多少いびつかもしんないけど、味は保証します。もうわかってるだろーけど、これ飴ね」
中身の正体は飴。
ただの砂糖菓子では味気ないと思ったので、喉に良いとされる花梨や、風味付けに柚子粉などを練り込んだ凝ったものになった。
味は悪くはない。果物独自のさっぱりとした甘さと柚子の香りが美味しい。
それに爛れた喉に沁みないのも自分で実験済みだ。
これなら安心して食べて貰える。
「薬苦いって言ってたし、口直しに食べなよ。…あんまり食べ過ぎないでくれよ?」
そう言っている間にも、幾つか口の中に放り込まれている気配がする。
舌の上でゆっくり溶かして味わっているらしい。
感じる気配はこれ以上無いほどご機嫌だ。
「ま、気に入ってくれたなら良かったよ。それじゃ、俺様はこの辺で」
そう言って腰を浮かすと、慌てたように腕を掴まれて引きとめられた。
いきなり立ち去るのは流石に拙かったらしい。
「どしたの?」
引きとめられたことに対して、何か用件があるのかと意味を込めて問いかけると、困ったように気配が揺らぐ。
特に考えてとった行動では無く、ただ単に立ち去ってしまいそうになった佐助を咄嗟に引きとめてしまっただけらしい。
療養中の身だと、確かに誰れかが傍に居てくれると落ち着くのは分かる。
佐助には既に覚えのない感情になってしまったが、風邪をひいた時になどに見せる幸村の心細げな様子は良く覚えている。
だから今も、そういうのじゃないかと思ったのだ。
「まだ居た方が良ければここに居るよ?特に急ぐ仕事も無いし、任務もこの目じゃ受けてないし」
と言ってもさっき忍の勘が告げた良くない気配のせいで、早く立ち去りたいのも事実。
その二つを比べれば、幸村の意思が優先されるのは言うまでもないが。
「あんたがそれを食べ過ぎないように見張っておくっても良いかもしんない」
悪戯っぽく笑ってそう言えば、肩にぺしりと手の感触。
抗議の意味で叩いたらしい。
それにからからと声を立てて笑ってやった。
「これで薬苦いのはマシになるんじゃないの?これが口直しだと口ん中痛くないでしょ。それに飴なら中々無くならないし」
幸村の前に膝を付きつつ、他愛のないことを口にする。
幸村とのこういう和やかな会話は好きだ。落ち着くし、楽しい。
欠けた幸村の声音が寂しいが、それでもこの空間は変わらない。
「あんたの喉が早く治るように念力込めといたから効き目抜群かもね。美味しい上にそんな効果もあるなんてお得!俺様ってば気が利く〜」
茶化して笑えばまた幸村に頭を撫でられた。
声が使えない場合はこういう意思表示になるらしい。
接触が増えた分こちらの感情の振れ幅がいつもより大きい気がするが、今のところは気のせいで片づけてしまえる範囲内だ。
今のところは。
「ところで旦那。…いくつ食べた?音と気配と忍の勘でそろそろ片手の指じゃ足りない数になりそうな気がしてるんだけど」
笑いごとで済ますわけにはいかない内容なので声音が少し低くなる。
その声音に条件反射でびくついたのか知らないが、幸村の体が強張った。
「いくつかな?旦那?」
重ねて問えば、佐助の手のひらに指の感触がした。
その指が“八”と書いた。
「へぇ…この短時間に八つ?!…渡すころ合い間違えたかな俺様」
げっそりと呟けば慰めるように肩をぽんぽんと叩かれた。
誰のせいで気落ちしていると思っているのだ。
「えーっと、うん。…没収!」
鋭い声と共に幸村の手から飴の入った巾着を奪い取った。
これ以上この人に渡しておけば、夜の薬の時間にはすでに中身が空だ。
なんのための口直しか分からない。
「取り返そうとしてもだーめ!あんた好きなだけ食べちまうだろーが!言いたいことは分かるぜ?“俺が貰ったものなのに”とか“一度渡したものを取り上げるのは卑怯”とかだろ!…あ、ほら!今図星って気配!」
しゃべってるのは佐助一人なのに、しっかり口喧嘩出来ているのが凄いところだ。
「頼むから俺から取り返そうとか思うなよ?!今あんたを運動させる訳にはいかないんだから!な!ちゃんと薬の時間には持ってくるから!」
じりじりと後ずさりつつ、幸村と距離を取ってゆく。
しかし下がった分だけ幸村も近づいてきている。これは危険な状況だ。
飛びかかって来られたら絶対受け止めなければいけないし、先にこちらが逃げても幸村が追いかけてくる可能性がある。
どうやったって行動が取れない。
言葉で納得してもらうしか道はないのだ。
「旦那、良く聞いてくれ。これは全部あんたの物だから、あんたが食べない限り減ることは無い。だから安心してここは俺に預け…っぐあ」
やっぱり駄目だった。
言葉の途中で幸村の飛びかかられてしまい、もうこっちは目の利かない状態で幸村を受け止めるのに必死だ。
そうなれば巾着はすぐに幸村の手に収まってしまい。
結局自体は元通り。
「あーもうっ…あんたがばくばく際限なく食べちまうから言ったのに!」
こうなったら小言を延々と聞かせて気を滅入らせる作戦に移行しよう。
そう思って息を吸い込んだ瞬間。
「ん」
口に広がる甘み。
何度も試食したその味は、幸村に渡した見舞いの飴。佐助の舌にも美味しく感じるさっぱりした甘さだ。
食べ物を放り込まれれば黙るしか無く、吸い込んだ息は行くあて無く溜息となる。
畜生。
不意を突かれたことに対して悔しげに胸中で吐き捨てれば、抱きとめていた体がぎゅっとこちらにしがみついてきた。
首に回された腕が、佐助の頭を抱え込む。
そして耳朶に。

『目、が見たい。…夜に、また来い』

声になり切れていない掠れた言葉。
耳のすぐ傍で響いたそれは、鼓膜を確かに震わせ、吐息は耳元を擽って消えてゆく。
「……っ」
やばい。
頭の中でそんな言葉が飛び交い、体温はさっきと比べ物にならない速度で上がってゆく。
多分顔が赤い。
「…御意」
やっとのことでそれだけ口にして、その場から消えるように立ち去った。
体を放す瞬間、少しだけ抱きとめていた腕に力を込めたのは、気のせいだと言い訳して。



ふらふらと自室のある草屋敷へ戻る最中、何人もの人間に呼びとめられた。
全員が全員“顔が赤い、まだ無理をせず休んでおけ”なんてありがたい言葉を掛けてくれる。
その言葉こそがこちらの傷を抉っているとも知らずに。
簡単に動揺した己の不甲斐無さをひたすら反省しつつ草屋敷へ戻れば、今度は忍達のからかいを含んだ言葉に迎えられた。

“幸村様に何言われたんですか?”

なんて直球で聞いてきやがった奴らには、とりあえず拳で応えておいた。
全部避けられたが。
こちらの目が使える夜になったら覚えていろ、そう思って口に出そうとしたけれど、幸村に来いと言われていたことを思い出してまた体の熱が上がった。
耳朶に残る吐息の感触をどうしてくれよう。

というか、どうにかして欲しい。

佐助の心中なんて露知らず、幸村は一人残された自室でまた一つ飴を口に放り込んだ。
夜再び佐助が姿を現した時、巾着の中身がどうなっているかはまだ誰も知らない。















おまけ































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 幸村の唇に触る佐助が書きたかっただけです。(言い切る)
 会話文じゃなくて情景描写練習しようとしたらこんなシチュになったのもあります。
 佐助は幸村が怪我すると地味に落ち込むと良いよ。
 佐助にダメージ与えたかったら幸村痛めつけるのが一番効果的な気がする…。

 そういやこれ、去年くらいから書き始めた記憶が…。
 ぱぱっと早く簡潔にまとめられるような文章を書けるようになりたいです。