まるで昼間のように…、とまではいかなくとも十分明るい満月の夜。
幸村が唐突に「月見をするぞ」と言いだした。
あまりにも突然のことだったため何の準備もしておらず、「どうせ流れるだろう」と適当にあたりを付けていたのだが、そうと決めた主の執念は凄まじく。
今現在、佐助は主とともに月を眺めつつ酒をちびちび飲んでいる。
…月見団子を肴に。
何をどう間違ったらこういうことになるのか。
佐助には全く理解できないが、幸村は「月見をするなら団子だろう!」と意気揚々と団子を所望し、それに佐助は同意した。
その上で幸村は「月見酒というのも良いな!」といいつつ上物の酒を持ち出してきたのだ。
もう意味がわからない。
団子を用意したならそれでいいではないか、そこでどうして酒を持ち出す。
そしてどうして一緒に消費するのだ。
佐助はさっきからずっとそれについて考え込んでいた。
しかし隣に座る幸村はというと佐助の葛藤を余所に、おいしそうに団子を頬張り、咀嚼し、茶を啜って、そして酒を飲んでいる。
茶までは良い、茶までは。しかし何故最後に酒を飲むのだ。
どれだけ頭を捻ろうとも理解できない。
(普通なら悪酔いするでしょ?!)
佐助は主の味覚と胃袋の心配をした。
何というかもう、見ているだけで悪酔いしてくるのだ。
どれだけ抑えようとため息が漏れてしまう。
(なんでこんな珍妙な月見に真面目に付き合ってんの俺…)
己の甘さを呪いつつ、手もとの品に目を向ける。
どちらも単品なら楽しめるものなのだ。
月見団子だって甘味好きの幸村が贔屓にしている老舗の品だし、酒に至っては忍の身分では一生口にすることなんてできないような逸品だ。
それなのに、何故一緒に。
(分けて味わいたい…、分けて味わいてぇよ…)
呪文のように心の中で繰り返しつつ、ぺろりと盃の酒を嘗めるように飲んだ。
文句のつけようの無いほど美味い。
癖の無い口当たりも、仄かに香る酒精も佐助の好みに合っている。
もともとそんなに酒を好む方では無い佐助だが、これに関しては別だった。
(あーやっぱ美味いわ…)
ほう、と酒のせいで熱を帯びた吐息を吐きだしつつ、ちびちびと酒を楽しんだ。
空には見応え充分の鮮やかな満月。
手には上物の酒。
隣には楽しそうな主。
涼しげに響く虫の音も、最近冷たくなり始めた夜風も心地よい。
しかしその横には月見団子が控えている。
…いったい何の嫌がらせなのだろうか。
今の状態で団子なんて口にしたら、せっかくの酒の後味が団子の甘味の破壊力によって粉々に砕かれてしまう。
味覚に対する新手の拷問だ。
(こうなったら片方を無視しよう。)
佐助はそう決心した。
団子なら甘味好きの幸村が消費してくれるだろう。
そう思い酒に集中する。
「佐助」
「はいはい?」
つまみ代りに塩をぺろりと嘗めたところで、幸村が何やら佐助に声を掛けた。
団子に手をつけていないことを気取られたかと、佐助は内心ひやっとしたが、それをおくびにも出さずへらりと笑みを浮かべた。
頭の中ではもし追及されたらどうやって言い逃れしようか、とそれでいっぱいだ。
しかしそんな佐助の様子に大して注意を向けること無く、幸村は悪戯っぽくにんまりと笑った。
何か面白いことを思いついた時の顔である。
佐助はこの笑顔を何度も見た。
そして見るたびに大抵ロクでもないことを命じられてきた。
決して血生臭いことを命じられる訳では無いのだが、面倒臭いことを命じられることは度々あった。
大半が、…というかもう十割が他愛ない我儘だ。どこどこの団子が食べたい。何やらの景色が見てみたい。
珍品ばかりを扱う商人がやってきた時などはもう目をキラキラさせて「佐助!」と名前を呼び、にんまり笑ったものだ。
そして結局付き合わされ、自分じゃ絶対買わないような不気味な木彫りの置物を買って貰ったのはまた別の話だ。
そんなこんなで、主のこの笑い方を見た場合、佐助は少々身構えてしまう。
心境としては「さーあ来い」という変な覚悟もあるし、「またかよ…もう勘弁して」という諦めにも似た感情もある。
そんな佐助の胸の内などいざ知らず、幸村は楽しげに口を開いた。
「そこの屋根からそっちの屋根まで飛んで見せよ!」
槍の鍛錬でタコの出来た手を人差し指だけまっすぐ立てて、無邪気に左右の屋根を指さす幸村。
「…はい?」
思わず間抜けな声を漏らした。
幸村の突拍子もない発言には慣れっこのはずなのだが、未だに予想しきれないこともある。
本当にこの主はあらゆる意味で大物だ。
それにしても今回のこの命令はどういうものなのだろうか。
戦場でならいくらでも空を飛び回っている佐助だ。幸村にとってはそんなもの見ても今更だろう、とどうにも納得できない。
しかし幸村はきらきらした目で「さぁ飛んで来い」と期待に満ちた眼差しを佐助に向けてくる。
「あのさ…何でまたそんなの見たいの?」
「それは後で説明してやろう!とりあえずは飛んで見せよ!」
さぁ行け!と言わんばかりに追い立ててくる主の様子に、佐助はやれやれと重い腰を上げた。
この状態の幸村には何を聞いても無駄だ。
変に問いただしてへそを曲げられたらそれこそ大変だ。
仕方なく数度伸びをすると、酒によって少し火照った体に冷えた夜の空気を心地よく感じつつ、ととん、と軽く音を立てて左に位置する屋根へと一気に飛び乗った。
現在の佐助の恰好はいつも通りの忍装束だが、戦用の重装備ではなく身軽な恰好をしている。武器の数はそれはもうあらゆる所に仕込んであるが、防具の大半を取り払っているため戦時よりずっと動きやすい。
そのため屋根に飛び乗るのも一度の跳躍で済んだ。
着地と同時にちらりと主の方へ視線をやれば、にこにこと実に楽しそうに笑っている。
(他愛のないこんな命令でここまで喜んでくれるなんて、安上がりな主様だこって)
胸の内で軽く肩を竦めた佐助は、そう思った割に自分の機嫌がそう悪くはないことに少し驚いた。
幸村が楽しそうに笑っていると、不思議と自分も楽しくなる。そんな感情に内心呆れつつも、くすりと一つ笑いを洩らした。
(あー…もう)
仕方がない、と胸の内で続けて、先ほどまでの気だるげな感情を一気に払拭する。
やるならやるで、全身全霊で命令に答えてやろうじゃないか。
そんな思いが込み上げてくる。
どこかいつも冷めている佐助にしては、実に熱い思いである。
(やっぱ旦那に影響されてるのかねぇ。何やらは飼い主に似るっていうし…)
呑気にそんなことを考えつつも、数歩歩いて幸村からよく見える位置へと移動した。
そしてとんとん、と足場を確かめるように数度飛び跳ねる。
ちらりと幸村を一度だけ見て、視線を前に戻した瞬間、全身をしならせてひらりと跳躍した。
ひょおうと己が風を切る音が耳に心地よい。
そしてちくちくと感じる幸村の視線が何となく面映ゆい。
(あ、笑った)
主の破顔する空気を肌で感じ取り、佐助も思わずにやりと笑んだ。
そして眼前へと迫りくる屋根へと音もなく着地する。
その一瞬後、ぱちぱちと一人分の拍手が鳴り響いた。
視線を向けると幸村が楽しげに笑いつつ、ぱちぱちと賞賛の拍手を送っている。
「はいはいどーも!」
いつもの調子で答えを返すと、その瞬間にはその場から掻き消えて、幸村のすぐ隣へと姿を現した。
「おお!」
それにもう一度幸村は歓声を上げる。
何とも無邪気な主である。
「これで満足かい旦那?」
幸村のまっすぐな賞賛に気を良くしつつ、さっきと同じように縁側へと腰掛けた。
隣の幸村はどこがそんなに嬉しいのかいつになく上機嫌だ。
いそいそと徳利を手に、佐助に酒を注いでくれようとしている。
忍の習慣で一瞬躊躇したが、並んで酒を飲んでいる時点で無礼も糞もないので遠慮なく酒盃を差し出した。
月明かりに照らされた幸村の無骨な手が優雅な所作で徳利を傾けると、透明の液体がゆっくりと流れおちてくる。そして佐助の持つ盃をなみなみと満たした。
縁のぎりぎりまで満たされた盃に、佐助は「零れたら勿体ない!」と慌てて口をつけた。高い酒を少しでも無駄にしてしまえば罰が当たる。
しかしそんな佐助の様子を、勘違いした幸村が快活に笑って一言つぶやいた。
「うむ、よい飲みっぷりだ」
「……どーも。」
脱力しつつも一応礼を言って、佐助はさっきから気になっていた本題を切り出した。
「んで?そろそろ教えてくれてもいいんじゃないの?」
「む…?」
「“む?”ってあんたなぁ…。理由は後からって言ってただろーが。もう忘れてんの?」
「いや?忘れてはおらんぞ?」
「何?あんたにしちゃあ珍しく焦らすね」
佐助がひょいと肩をすくめておどけると、幸村が楽しげに笑った。
「焦らしておるわけでは無いぞ?」
「んじゃとっとと教えて下さい」
「…ふむ。」
幸村は一つ息をつき、手にしていた盃をコトリと置いた。
盃はきれいに空になっており、少々行儀悪いながらも手に付いた僅かな雫もぺろりと舐め取った。
そしてそのまま佐助に目をむけると、何か懐かしい思い出でも振り返るかの様な表情で口を開いた。
「先の…伊達軍との戦を覚えておるか?」
「そりゃね。」
忘れる訳がない、と胸中で付け足し佐助は先を目で促す。
「…独眼竜と刃を交えたあの戦。今のような寛いだ時間にそれを思い返すと、別のことに気づいたりするものなのだ」
「別の事?」
「剣だ」
佐助の問いに間髪入れずそう返した幸村は、きょとんとしている忍に構わず続きを口にした。
「何事も研ぎ澄まし極めた動きは美しいと聞く。この間のことでそれを実感した。…片倉殿の剣だ。体捌き、足運び、構えから抜刀に至るまでの動きの一つ、太刀筋。“達人の剣とはこのことか”と思うたものよ。剣を舞のように美しいと感じるとは思わなんだ。」
目を細めてその時の情景を眼前に思い描くように微笑むその表情に、一点。眼だけが凛とした強い光を灯している。
剣を美しいと言い、舞のようだと形容するその様は、傍からみれば雅に見えなくもない。
けれど目に宿るその眼光の鋭さが戦人の性を如実に表し、たったそれだけで猛々しく見える。
こんな風に落ち着いて話している時でさえ、この人はこうだ。
「また一度手合わせ願いたいものだ」
ぽつりと付け加えられた言葉に、思わず苦笑が漏れる。
「旦那ってば独眼竜との決闘に夢中になってて周りなんて見てないと思ってたけど、結構見てるとこは見てんだね。俺もあの御仁の剣は正直おっかねえとは思うけどさ」
やり合いたいとは思わないねぇ。
そう続けようとした言葉は、独眼竜へ進む前に必ず立ちふさがるであろうあの右目の姿を思い起こして口には出さなかった。
運命の好敵手、そんな呼び名で相手を称する奥州の竜と甲斐の若虎は、互いに刃を交えることを決定づけられた運命として受け止めている。
その言葉通り、この先必ずぶつかり合うのだろう。
その際あの右目は必ず竜の傍らで剣を振るっている。挑む価値無しと判断すれば、一騎討ちだろうが何だろうが、幸村の前に立ちふさがる。
この紅蓮の主が負けるとは露とも思わないが、蒼紅の激戦の前に余計な力を使ってほしいとは思わない。
となればあの右目とやり合うのは消去法で己の役目になるのだろう。
佐助はそう判断して口を噤んだ。
主の道行きの露払いなら、可も不可も関係無くそれは是とするのが己の役目。
「まぁ手合わせぐらいはやっても良いとは思うけど、独眼竜とやり合うつもりなら余計な露払いは俺にやらしてよ」
にやり、と笑んで言えば。「片倉殿を余計な露払いとはお前も言うな」と嬉しそうに返された。
ここで嬉しそうに笑ってしまうのが幸村の器の大きいところだと思う。
「で、話が逸れちゃったけど俺様を飛ばせたのはどういう理由で?あの竜の右目と何か関係あるの?」
脇に逸れてしまった話をもとに戻すと、ああそうだったな、と幸村は何でもないように穏やかに笑って、見事に爆弾を投下してくれた。
「佐助の動きも美しいと思うたのだ。」
「…は?」
思わず間抜けな声を洩らし、ぴきりと固まってしまった。
今何といった?
美しいとか言わなかったか?
何が美しいって?
サスケノウゴキ?
佐須毛脳語気?
あれ?
何か違う?
佐助の動き?
頭が理解するまで、結構な時間が掛った。
佐助にしては珍しいことに、びしりと固まったまましばらく動けず、問題発言の意味をしっかり理解するまで何の動きも出来なかった。
けれど、いざ理解してみると。
「お、おお俺っ?!」
「うむ。お前だ」
「え…」
「お前は忍の中の忍。研ぎ澄まされたその動きは鍛錬の極み。…やはり思ったとおりだった。せっかくだから月を背景に見てみたいと思ったのだ。」
当り前のように繰り出される賞賛の言葉の数々。
何でもないことのように言ってくれるが、世間一般ではそれなりに殺し文句と言えそうなほど物凄い言葉で。
うわあ。
もう駄目だ。
言葉が出てこない。
何というかのた打ち回りたい。そして何か大声で叫びたい。
体中をかけずり回るこのむず痒い感覚は一体何なのか。
それよりもぐわっと顔に上った血をどうにかしなければいけない。
ぐわんぐわんと思考が上手く働かない頭をどうにか動かしつつ、とりあえず場繋ぎに必死に言葉を絞り出す。
「えーっと…うん。とりあえずどーも…」
胡坐をかいた足に視線を落としつつ、朱に染まった顔を酒のせいだと自分に言い聞かせて、主に今の自分の顔を見られないように体を小さく縮こまらせた。
「酒の肴に月下の忍の舞とは贅沢だとは思わぬか?普通はこのような月夜にはお前たちは飛ばぬだろう」
「あーうん…良く知ってるね。闇に紛れるのに月は邪魔でしか無いから」
幸村の言ったことは事実だった。月夜は人が思っているよりもずっと明るい。
満月となればなおさらだ。
光を受ければ影が浮き、姿は常人に悟られるほど浮き彫りになる。
物陰を縫って地を駆けることはあっても、月夜の空を忍は飛ばない。
「良いものを見せてくれた。礼を言うぞ佐助」
邪気のない顔でにっこり笑われると、佐助も抵抗のしようがない。
もう観念するしかないようだ。
「あーはいはいっ。もうあんたにゃ敵わねーよ全く…。お気に召したのなら恐悦至極!俺も嬉しーよっ」
茶化すのを諦めて困った様に眉を顰めると、少し目を細めつつも穏やかに口元を緩める。
笑顔と言うにはあまりにも不器用な表情だったが、普段のへらりとした笑みよりもずっと笑顔らしい。
笑い合うことは度々あっても、こうも穏やかな笑顔を向けられることは実のところ少なかった幸村は、思わず目を丸くして固まってしまった。
何故か落ち着かない気分になってしまい、そわそわと目を彷徨わせる。
「そ…そうか、機会があればまた頼むっ」
苦し紛れに紡ぎだされた言葉に、佐助は慌てて言い返した。
「それは勘弁!流石に恥ずかしいっ」
美しいと形容されて、それを理解した上でもう一度飛べなどと。
恥ずかしくてやってられない。
「なっ?!これ一回きりか?!勿体ないではないか!せっかく美しいと…」
「うぎゃあっ頼むから美しいとか言わないでー!!もう恥ずかしくて死ねる!その辺埋まりたくなってくるから!!」
「何が恥ずかしいと言うのだ!美しいものを美しいと言って何が悪い!」
「だから言うなと言ってるだろうがこの馬鹿!!」
「ばっ…馬鹿?!お前人がせっかく褒めているというのに!」
「うるさいっ!朴念仁の癖して恥ずかしいことさらっと言うな!」
「朴念仁とは何だ恥ずかしがり屋さんめ!!」
「“恥ずかしがり屋さん”?!何その言葉俺の影響?!口調真似しただろ?!」
「いつも一緒にいるのだから口調の一つや二つうつるわ!!」
「ええーっ?!それじゃあんたの前で俺様下手なこと言えないじゃないの!!」
結局いつもの調子でギャースカ口論に発展してしまった。
いつもは佐助が頃合いをみて終息に向かわせるのに、酒のせいかいつもより言葉の応酬は低レベルかつ饒舌だ。
恥ずかしさも手伝って口が回る回る。
「あんまり真似とかしないでよ?!自慢じゃないけど俺様言葉綺麗な方じゃないからね?!分かってる?!」
「心配せずとも分かり切っておるわ!そうでなくては俺の口から“美しい”なんて言葉出てくるはずなかろう!」
「なっ…あんたわざとかそれ?!またその話題持ち出す?!せっかく逸れたのに…っ!!」
「甘いな佐助!お前が出し惜しみするのが悪い!何故一回きりなのだ!」
「美しいとか言われて飛べるか!!ってああ自分で口に出しちまった畜生!!」
「勿体ない!!狡い!!俺は見たい!!」
「あーもう知らない!絶対やだ!!もう飛ばない!!」
「見たい!」
「嫌!」
「見たいっ!!」
「嫌―!」
「見せろっ!!!」
「嫌―っ!!」
もうやり取りは落ちるとこまで落ちている。
子供のやりとりのような口論を当人たちで止めるのはもう不可能だ。
しかし停止装置は思わぬところから現れた。
それも威力は絶大。
受ける損害も甚大。それは主に佐助の精神面に。
月光の作る陰影の影の部分が、ざわりと揺らめいて、漂う空気が僅かに冷える。
凝縮された闇が一気に解き放たれるような気配を纏い、それは姿を現した。
しゅばっと音を立てて、屋根から屋根へと跳躍する 数 十 人 の 佐 助 。
「はぁっ?!」
「う…うおぉぉう…?」
佐助は素っ頓狂な叫び声を、幸村は感嘆と驚嘆と困惑が入り混じった微妙な声を上げた。
そうしている間にも数十人の佐助はびよんびよんと素晴らしい俊敏さで屋根の上を行ったり来たりしている。
どこから見ても忍の身のこなしだ。
「佐助が…いっぱい…」
幸村は口をぽかんと開けたままうわ言のように呟いた。
無理もないことだが佐助は泣きたくなった。
「お前ら…何…っ?!」
目の前で見事な満月を背に飛び交う数十人の佐助。
それはそれは異様な光景だが、こんなことやれる人間など決まっている。
真田忍隊の者たちだ。
変化の技を駆使して、何に使うと思えばこれか…!!
佐助が全身全霊で脱力した。
この形容しがたいやるせなさを何処へぶつけよう。そんな思いが込み上げてくる。
「凄いな…佐助が飛んでる…。うむ…一度では物足りぬと思っておったところだ。丁度良い。…少しばかり人数が多いがな」
良いのかよ!!
突っ込みたいけれど声を出す気力がない。
それよりこの見るに堪えない光景をどうするかだ。
「あ〜い〜つ〜ら〜〜〜〜〜〜」
隠すことなく感情をのせた声は、自分でもぞっとする様な声音になった。
声だけで何人か殺せそうだ。
「ああ佐助。止めるなよ?俺はもう少し見ていたい」
「嘘ォ?!これを止めるなって?!酷すぎない?!なんて言うかもう生殺しだよそれぇっ?!」
目には本気の涙を浮かべて抗議するも、幸村の目は飛び交う佐助達に釘付けだ。
泣き落としは通じない。
せめてどこか自分の話を分かってくれる人間はいないものかと虚ろな視線を彷徨わせると、屋根の影に一人の男の姿を捉えた。
だらしなく四肢を投げ出して、飛び交う佐助達を傍観するその男。
良く見なくとも見慣れたその姿は、己の副官である霧隠才蔵だった。
良かったまだいたまともな人!!
心の中でそう叫んで佐助はその男の前まで一気に跳躍した。
寝転がるその身の眼前に降り立ち、半泣きで声をかける。
「才蔵!良かったお前はまだまともだったか…!!見てるくらいならこの珍現象とめるくらいしろって…!」
縋れるものはもうこいつだけだ。
そういう思いで放った言葉だが、なぜか反応が返ってこない。
「才蔵?」
いぶかしんで名前を呼ぶが、やはり反応は返ってこない。
しかし良く考えると、いつも生真面目な才蔵が、警護役から外れているとは言え幸村から視認されそうな場所でこんなだらしのない姿を晒すだろうか。
「お前…」
良く良くみれば、だらしなく投げ出された四肢は力を抜いているのではく、力が入らないのではないのか。
そういえばさっきから呼吸も荒く、顔色はもともと白いがそれを差し引いても青い。
「…ちょっと待て」
何に対して制止の言葉を吐いたのか。
良くわからないまま視線を飛び交う佐助達へ向ける。
「……十六人の俺。化け切れてない奴が九人。かろうじて似ているだけ奴が十二人。他はもうただの影」
無理やり冷静に分析すると、計算が合わない。
偵察に出している者達と館の警備に当たらせている者達、その他諸々差し引いてこの人数となると多すぎる。
今この屋敷にいる忍をかき集めたらこれくらいにはなるかも知れないが、いくらなんでも総出でこんな馬鹿騒ぎ起こすはずがないのだ。
そしてじっくり目を凝らすと、数人動きに見覚えのある佐助がいる。
一目で相当の手練と分かる身のこなし。洗練されたその動きは見慣れた副官の姿と被り…。
合致した。
「分身に変化の術重ねやがったのかッ…?!」
なんつー無茶を!!そう思って才蔵の方を見ると、実に爽やかな笑顔でぐっと親指を立てている。
なんだその達成感に満ち溢れた笑顔は!!
「おっ…前!!阿呆か?!正真正銘の阿呆か?!救いようの無え阿呆か?!もうそこまでの阿呆なのか?!」
「九人に化けたぞ」
「だからそんな誇らしげに言うなボケェェェッ!!!!」
すぱーんと遠慮なく頭をはたくと、避ける動作も受け止める動作もないまま屋根の瓦へ顔から突っ込んでいった。本気で疲労困憊しているらしい。
こんな軽い一撃を避けることも出来ないとは。
「信じらんねぇ…普通そこまでやるか?!」
「流石に疲れた」
「当たり前だボケェェッ!!」
もう一度すぱーんと頭をはたくと、またも瓦へ顔面から突っ込み、そして動かなくなった。
自業自得だ。
「もう信じらんねぇ…うちの連中馬鹿だとは思ってたけどここまで馬鹿だったとは…。しかも筆頭って忍隊の実質二番手?…うわっもう俺様泣いて良い?」
そう言いつつも既に目には涙が浮かび始めている。
本気でもう泣いてしまおうか、そんな思いで遠い目をしていると、ぱんっと小気味よい音が響いた。
手が打ち合わされた音だ。
音がした方向から考えて、発生源は幸村。
半分無意識に音がした方へ顔を向けると、幸村が縁側に立ったまま大きく手を振っている。
「何…」
力無く呟くと、大きく声が返ってくる。
「皆のもの!!御苦労だった!!もう良いぞ!!佐助も戻って来い!!」
どこか遠くへ旅に出たい。
半ば本気でそう思ったが、体に染みついた習慣とは恐ろしい。
特に意識するまでもなく体は行動を開始し、気づいた時には幸村の側に姿を現していた。
無意識でここまで動けるなんて我ながら凄い。
自分で自分を褒めつつ、目の前の現実から逃避した。
「皆!なかなか面白い見世物だったぞ!ただの月見がこうも楽しいものに化けるとは流石だ!!」
佐助にとっては全然楽しいものでは無かったが、幸村のまっすぐな賛辞の言葉に忍隊の面々は物凄く嬉しそうだ。
佐助は全然嬉しくないが。
「それに忍の技の見事なものよ!流石真田忍隊!俺の目には全員佐助本人にしか見えぬ!」
またも忍隊の面々は笑み崩れた。
しかし全員まだ姿は佐助のままだ。
佐助が笑顔全開で照れまくっている様子というのは異様と言う他ない。
「とりあえずお前ら術解け今すぐにィッ!!」
見るに堪えない光景を全力で滅殺してしましたい衝動に駆られつつも、何とか踏みとどまって穏便策を叫ぶ。
声には隠しきれない殺気が含まれているがもう気にしない。
その殺気に反応したのか、それともそろそろ術がきつくなっていたのかは知らないが、ぶわりと音を立てて庭に集まっていた忍達は術を解いた。
あっという間に人数が激減する。
「おお…減ったぞ…!」
それにも素直に感嘆する主の心根は愛すべきものだが、これ以上この馬鹿な忍達を喜ばせるようなことを言わないでほしかった。
調子にのってまたやらかしたらどうするつもりだ。
「才蔵は後でぶん殴るから覚悟しとけよこの馬鹿野郎が任務以外でそこまで疲弊するほど術使うんじゃねぇ死ぬ気かあとそこの入道二人組いい加減にしろ自分の術の精度考えてから化けろもうあれは変化じゃないただの仮装だ恥を知れ馬鹿が海野のおっさんもいい年してはっちゃけてんじゃねぇ止める側にまわれよこん畜生小介も調子乗ってこんなもんに参加すんな阿呆俺に化けてんのか旦那に化けてんのか分かんねぇ変化になってたぞ馬鹿がっていうか幹部連中が多すぎるのはどうしてなのかなお前ら暇なのああそう暇なのねふーんそうあとくの一はお願いだから化けるな色々ギリギリだからホントギリギリだから中途半端な変化されたら俺様もう世を果敢なみたくなってくるからもう顔だけ俺とか死にたくなっているからもうちょい考えろォっ!!」
素晴らしい肺活量でそこまで一息。幸村には聞こえないような速度と声色で呪文のように言い放った。
それはもう棘だらけの駄目出しと毒を多分に含んだ言葉の暴力だ。
何か言いたげな奴らは凄絶な殺気を孕んだ笑顔で黙らせた。
「いやぁもう物凄いもん見せてくれたよほんとに。この先夢に見て魘されるんじゃないの俺?みたいなね!」
こっちは幸村にも聞こえるように声に出した。
しかし自棄になった佐助の、あっはっはっはと晴れやかに笑う様子に何か言い知れないものを感じたようで、幸村は何とも言えない表情で佐助を見た。
「俺の全力を持って滅殺してしまいたいくらいの珍現象だったけどね!」
「さ…佐助…」
「ん?何旦那?」
酷く物騒な言葉が混ざった気がしたのだが…、と佐助を呼んだ幸村に、ぐるりと機械仕掛けのような動作で向きなおった佐助は、幸村の言葉も笑顔で黙らせた。
因みにこっちに殺気は含まれていない。
「ごめんね旦那?もうこいつらと話終わったよね?」
「え…?」
「終わったよね?」
「あ…ああ、もう良いぞ」
「そっか…良かった。それじゃ、お前ら」
幸村から視線を外した佐助は庭に佇む己の部下たちに向きなおった。
幸村には絶対に顔を見られない角度だ。
そして声だけはにこやかに、しかし表情は修羅の如く先を続けた。
「良いよ別に?俺は怒ってないから。旦那と俺が仲良さげに酒なんか飲んじゃってて、しかも俺のこと散々褒めてて“羨ましいなー長”とか思っちゃって、そのあと屋根からの跳躍見ただけであれだけ褒められて“良いなー長”とか思っちゃって、それで出し惜しみしてる俺みて“減るもんじゃ無いのに”とか思っちゃって“それなら我らが!!”とか思ってこんな事になっただけだもんなぁ?」
忍隊に異様な沈黙が訪れる。
佐助の言ったことは一言一句違うことなく事実だった。
しかし鬼の形相でずばずばそう言われると恐怖以外の何ものでもない。
普段飄々と捉えどころのない笑顔ばかりみているので、こういった顔をされると温度差があり過ぎて怖さも倍増だ。
「旦那の思いを汲んでこんなことになっちゃったんだから別に良いよ。だからお前らとっとと下がれ。そんで体を休めろ。仕事に支障でるようなことがあったら唯じゃおかねぇから」
佐助の最後の台詞を皮切りに、それまで金縛りにあったように動けずにいた忍隊の面々が一気に掻き消えた。
一刻も早くこの場を脱したかったのだろう。気配と騒がしさを残した去り方は、如何にも速さ優先といった感じだった。
「はぁ…」
佐助は何度目とも知れぬ溜息をついた。
怒るのにも体力がいる。
しかも今は精神面で多大な痛手を受けた後なのだ。振り絞る力自体がすでに無い。
ぐったりと項垂れていると、ふいに後ろから腕を掴まれぐいと引かれた。
佐助がそんなことを許す人間などただ一人しかいない。
「何?」
引かれる力に逆らわず、そのままくるりと幸村の方へ向いた。
すると心配そうな視線とかち合った。
「そんなに嫌だったか?」
「んーっと…どれが?」
思い当たるものが多すぎて“何が?”とは聞けない。
「今の大量の佐助も、俺の言葉も」
「あー忍隊の連中の愚行というか奇行の方はそりゃ嫌にもなるよ?あんたを喜ばせようと思ってやった事だからまぁ悪いことした訳じゃ無いけど、ちょっとやり過ぎ。限度考えないとね…帰ってその辺はあいつらにきちんと話すから」
「じゃあ」
「うん。あんたの言葉は嫌じゃない。当たり前でしょ。褒められて嫌がるなんて失礼な感情持ち合わちゃいませんよ」
佐助がそう言うと、幸村はどこか憮然とした表情で掴んだままだった腕をぺしりと叩いた。
「でもお前は嫌そうにしていたではないか」
「あー…それはね」
むっつりと黙りこんで口をへの字にそっぽ向いている幸村はすっかりへそを曲げてしまった様子だ。
こうなると適当にあしらっても騙されてくれない。
佐助はがしがしと己の頭を掻くと、げんなりとため息をついた。
そして一歩分も無かった幸村との距離を埋めて、耳元に唇を寄せる。
「?」
いきなりの接近に驚いたものの、佐助のすることに警戒なんてものは抱くはずのない幸村はきょとりと間抜けな表情をした。
佐助からはその表情は見えないが、手に取るように分かる。
ふ、と口元に笑みを浮かべてその様を思い浮かべると、珍しく素直に感情をのせた言葉を幸村の耳朶へと囁きかけた。
「二槍を振るう戦場での雄々しい姿も格好良いけどね…こうやって酒飲んで寛いでる時に見せる凛々しい笑みはもっと良い。もの食べる仕草とかも洗練されててホント綺麗だ。特にこういう満月の夜はね…」
「…んなっ?!」
いきなり佐助の歯の浮くような美辞麗句を耳に受けて、幸村は飛びずさった。
顔は真っ赤で茹で蛸のようになっている。
ついでに鳥肌も立っている。
「おおお前はっいきなり何を言い出すのだ!!」
「ほら、俺様の気持ち分かった?」
「何がだ!!」
「今のまだ聞きたい?…聞きたけりゃ朝まで枕もとで囁き続けても良いけど」
「なっ?!」
「どう?耐えられそう?」
「無理に決まっておる!」
「何で?」
「何でと聞かれても…」
「さっきの言葉、嫌だった?」
「嫌だとは…!!」
かぶりを振る幸村に、佐助は流石だね。と微笑みかけた。
今さっき佐助の口にした胡散臭い美辞麗句は、実はどれもこれも嘘ではない。
今まで幸村を見てきた中で、確かに一度でもどこかで思ったことだ。
戦場を駆ける勇姿に見惚れそうになったこともあるし、寛いでる時に見せる戦場とは違った笑顔を“ああこの人やっぱ男前だなー”と思ったこともある。
ものを食べる仕草が洗練されてることに驚いて素直に感嘆したのは結構昔のことだが、嘘は付いていない。
全部真実だ。
幸村は騙されやすいが、実のところ本当っぽい嘘には騙されない。
巧妙に隠して乗り切ろうとしても野生の勘なのか、第六感なのか。根拠無く見抜いてしまう。
しかし逆を言えば、嘘っぽい真実を疑うこともないのだ。
どれだけ胡散臭く聞こえようとも、言っていることが本当ならば無意識のうちに真実として受け止めているのだ。
だから今回の言葉もそう。
歯の浮くような台詞だろうと何だろうと、嘘じゃない賛辞の言葉を幸村は真実として受け止めた。
だから嫌だとは感じなかった。冗談を言ってからかうな!と憤慨することもしなかった。
それを見抜いた上で、佐助は言い聞かせるように先を続けた。
「嫌じゃないのにもう聞きたくないんでしょ?」
「聞けるかあんな言葉!」
「あんな言葉って?」
「き…綺麗だとか、良いだとかっ…〜〜〜〜ぐあっ恥ずかしい!!」
「ほら。それだよそれ」
聞きたかった言葉をやっと幸村の口から聞けて、佐助は軽快に答えを返す。
「さっきのやり取り覚えて無いの?このあと俺様が“恥ずかしがり屋さん”って言ったら立場逆転だよね」
「…!!」
びっくりと目を見開いた幸村に、佐助はやれやれと笑いかけた。
「これでわかったでしょ俺の気持ち。あんたに褒められるのはそりゃ嬉しいよ。…でも、ね」
「わかった先は言うな佐助!俺が悪かった!」
「いや…悪くは無いよ。ただ繰り返されるとのた打ち回りたくなるというか…」
「体中を掻き毟りたくなるというか…」
佐助の言葉を引き継いでいった幸村は、がっくりとうなだれた。
身をもって完璧に理解したらしい。
「良くわかったぞ佐助…すまぬ。お前が頑なに飛ぶのを嫌がったのが痛いほど分かる。埋まりたくなるな…確かに」
「いやそこまで落ち込まないでよ」
「でもまだ鳥肌が消えぬのだ…」
「ああ俺様のさっきの言葉のせい?」
「思い出させるな…!!」
瞬時に顔色を赤へと変じさせた幸村は、見ていてかなり面白い。
ついついからかいたくなってしまう。
「顔真っ赤だけど」
「うるさいっ!誰のせいだと思っておる!」
「俺様のせいでしょ」
「わかっているなら言うな!」
「いやぁでもあんたに赤ってやっぱ似合うし」
「顔が赤くて似合うも糞もあるか!!赤鬼か俺は?!」
「いやいやあんたは紅蓮の鬼でしょ」
「意味がずれておる!」
「でもあんたは紅蓮の鬼でしょ。眩しいくらいの炎纏ってさ、格好良いったらありゃしない。絢爛ってああいうのを言うのかねぇ」
「〜〜〜っお前、俺をからかおうとしておるな?!」
「これくらい良いでしょ。だって俺がさっき受けたあの恥辱って言ったらないよ?あんたの言葉だけならまだしも…忍隊のアレ」
「…っ」
「目の前からすぐにでも抹消してしまいたかったのに“止めるな”って言ったの誰だっけ?」
「う…」
「誰だったっけなぁ?」
「お…俺だ」
「そーだよね。それならこんくらい我慢できるよねー」
「うおっ?!ちょっ…佐助?!」
慌てる幸村に笑顔でにじり寄りつつ、壁際に追い詰める。
「一晩中とまでは言わないからさ」
にっこりと言い放ったその言葉に、幸村の情けない悲鳴が屋敷中にこだました。
後日、その一部始終を聞く羽目になった警護に当たっていた忍が、町に降りて『あなたに捧げる百の賛歌〜紅の章〜』なる書物を片手に小金を稼いだのは別の話。
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真田忍隊大暴走。
才蔵のキャラがだんだん分からなくなってくる今日この頃。
そして佐助は今日も受難。
でも最後はちょっと勝気。
幸村は天然タラシ。