繰り返される細く浅い呼吸の音が己の肺が立てる音なのだと、他人事のように耳で知った。内から感じる肺の伸縮や咽を通る空気の流れなど、感じる余裕なんて今はない。
一歩一歩確実に踏み出さねば足は動かず、板間をゆっくりと滑るそれは、まるで幽鬼のようにおぼつかずふらふらとしている。
それでも止まることだけはしない。
一刻も早く板間を抜けなければ。
目算で板間の途切れ、土の覗く地面までの距離を測ればあと数歩。万全の状態でなら一つ跳躍すれば適うほどの距離だ。
あと少し。
そんな思いが少し気の緩みを招いてしまったのだろうか。
「……、くっ」
視線を己の足元へ戻した途端、眩暈にも似た感覚が体を襲う。
立っていられない。
呆気なく傾いだ体は板間へと転がった。絶えず戒めるように体を押さえていた腕では頭をかばうことが出来ず、頭を強か打ちつけた。
一瞬目の前に火花が散る。
痛い。
「く、そ…っ」
現状というより、思うようにならぬ己の体への悪態を吐けば、簡単に火のつく己の闘志に従い目の前に本物の火花が散った。
冗談ではない。
「あ…が、ぅっ」
上がりそうになる紅蓮の炎を無理やり抑えつけると、抵抗の強さに伴った苦痛が体を襲った。
内から体が爆ぜてしまいそうだ。
もう何度も眩むようにぼやける視界は何を映しているかも分からないし、全身にかいた汗は熱いのか冷たいのかさえ分からない。
叶うなら手っとり早く楽になりたかった。
それでもこの身の内に宿した火の異能。箍の外れたように猛り狂っているそれを、こんなところ――父より受け継ぎしこの上田城の一角で開放してしまった暁には。
…きっと火事なんて言葉では済まされないような惨状を引き起こしてしまうだろう。
そんなこと、あってはならない。ならば、せめて被害の及ばぬ場所までこの身を運ぶしか道はないではないか。
再度意思を固く結びなおすと、もはや執念で体を前に運んだ。
ずるりずるりと板間の上を体が滑るたびに、熱がその床を伝わる。
日頃ならつるりとした表面の歩きやすい板間も、今の幸村には火種にしか映らない。
せめて燃えるものがないところへ。可能であれば水場へ。
一心にそれだけを思いながら外へと手を伸ばせば、不意に体を浮遊感が襲った。
「…うっ」
その浮遊感は勘違いなどではなく本物だったようで、突然かかった負荷により口から漏れ出た息でそれを知る。
しかし視界はどうにも定まらず、その浮遊感の正体がつかめない。
「何、…?」
半ば無意識で発した問いに、答えはあった。
「俺様ですよ…ったく、見てらんないっての」
気だるい調子で響く声。分かりやすいほどの不満げなその言葉の中に、ほんの少し滲ませた気遣い。
「さす、」
「文句は後から聞く。…移動するよ」
呼び声を遮られてから、はたと気づいた。
今のこの体。
幸村の体は。
「待…っ俺の、体は!」
「文句は後で聞くって言ったでしょ」
「駄目だっ」
叫んで腕に力を込めた瞬間しまった、と思った。
「……っ!!」
「佐助っ」
ごう、と目の前にいきなり出現したのは炎。
このままでは佐助が焼かれる。
そう判断した幸村は、なりふり構わず佐助を蹴り飛ばした。
「な…?!嘘ぉ?!」
素っ頓狂な佐助の声が響き、それで彼が炎の餌食にならなかったのだと安堵する。
しかし安堵の息を吐く間もなく、体は地面へと打ちつけられた。
「いっ…、ぅ」
佐助を蹴り飛ばしたことでついた勢いも手伝って、もんどり打つだけでなくごろりと土の上を転がる羽目にまでなってしまった。
痛い上に恰好悪いが、それでも建物との距離を稼げたと考えれば幸運に思える。
やっと燃えない地面へと辿り着いたのだから、さっきよりまだこの力を抑えることはやり易くなるはずだ。
あと少し、耐えれば。
「旦那?!」
幸村の覚悟をよそに、心配げな佐助の声が鋭く響いた。相も変わらず身軽なもので、物音ひとつ立てずに幸村のそばまで一瞬で寄ってくる。普段は得難いその才も、この状況ではあまり歓迎できるものではなかった。
「寄る、な…っ」
「何言ってんの!こんなとこに転がしとけるわけないでしょうが!」
そう言ってまたこっちへ手が延ばされた。
しかし今はその手を享受するわけにはいかない。
「触、な、…頼…むっ」
なんとか絞り出した懇願のような声に、佐助はやっと動きを止めてくれた。こちらの真意をちゃんと汲み取ってくれたらしい。
「…俺様を焼き殺すかも知れないから?」
現状の距離をそれ以上縮めようとしないままぽつりとつぶやかれた佐助の声に、幸村はゆっくりと距離を広げながら視線だけで応と答えた。
今のところなんとか抑えられている力だとしても、こんなぎりぎりの状態ではいつ暴れだすか知れない。現に体温は異常なほど高くなっているのだし、衣一枚を隔てた外側だってすでに熱が狂いきっている。そんな状況で触れられれば、火傷では済まされないような傷を負わせてしまうだろう。
「…あんたをこんなとこに放置するよかマシだと思うんだけど」
迷うように眉根を寄せて告げる佐助は、差し出したままの状態で止めていた手でぐっと拳を握った。音でも立てそうなほどにきつく握られたそれは、爪で皮膚を食い破ってしまいそうなほどだ。
しかし幸村はそれを気遣う余裕などない。ただそれと分かるか分からないかという曖昧な仕草で、否と首を横へと振った。
ずるりずるりとゆっくり地の上を這いながら佐助との距離を徐々に広げてゆくと、背後に何かがとんと当たった。どうやら庭に置かれた岩らしい。
外気に冷やされたその感触は冷たくて、熱の暴走するこの身をわずかに冷やしてくれた。
「……、ふ」
ゆるゆると息を吐きながらその岩に背を預けると、佐助がいるほうをまっすぐ見据えた。
だいぶ距離が空いたせいで表情どころか姿さえも夜の闇の呑まれて見えづらくなってしまっている。現在必死に抑え込んでいる力を解放すれば、目を焼くほどの光源があたりの闇などきれいに切り裂いてしまうだろうが、そんな手段など考えるまでもなく却下だ。
むしろ姿など全く見えないほど、気配すら悟れないほどに遠く離れていてほしい。
「そうすれば――」

“この男を、焼き殺すことだけはしなくて済む”

「―――――ッ!!」
安易な考えが心に隙を作ったのか。今まで感じたことのないような強烈な力のうねりが体の内側から膨れ上がってきた。
腹の底から、胸の内から、目が、口が、腕一本、毛先、爪の先まで。
「あ…がっぁぁっ、っ…!!!」
抑えきれない。駄目だ、抑え込め。
自分がどう動いているかもあやふやにしか認識できないまま。一番近くのものへと爪を立てる。爪の間にざりざりとした感触。砂だろうか、土だろうか。きっと加減など出来ていないから、爪が割れてしまっただろう。指先にぴりりと走った痛みが曇った思考を僅かに晴らしてくれた。
抑え込め。内へ内へ抑え込め。外へ漏らすな。僅かたりとも漏らしてはならぬ。
だって、
「旦那」
ゆがんだ視界のその先に、佐助があの位置から一歩たりとも動かずに座しているのが見える。
命じた言葉は「触るな」と「寄るな」。
どちらもこの男をこの場から動かすことのできるような力を持った言葉ではない。どうしてまだ言葉が自由になる内に「去れ」と命じて置かなかったのかと後悔が頭をよぎる。
しかしそんな思考もすぐに体の中を蠢く炎の力に焼きつくされた。考える暇も与えてもらえない。
「何苦しそうな顔してんだよ」
佐助の声が聞こえる。体が熱い。
「あんたならそれくらい抑え込めるでしょーが」
慰めか気遣いの言葉が続くかと思ったのに、これは何だ、挑発だろうか。
そこまで考えて、思考するだけの余裕が戻ってきていることに気付いた。
「何てったって俺様の主でしょ、あんた。暴走して“自分の忍を焼き殺しちゃった〜”なんて話、笑いの種にもなんねぇよ」
「うるさ、…っ」
何なんだろうこの男は。喧嘩を売るならせめてもう少し時を選べと言いたい。
こんな状況でさえなければ喜んで買うのに。
「だからさ、」
佐助の挑発は止まらない。
この状況を無事に脱したら覚えていろ、そう思ったところで。
「俺様を焼き殺したくなかったら、そのやたらと頼もしいあんたの力を完璧に抑えこんでみなさいよ」
暗くて見えないのに、視界の先で佐助がにやりと食えない笑みを浮かべたのが分かった。
その顔のなんと憎らしいことか。
「…馬鹿者、め」
知らぬうちに地に伏していた己の体を腕で持ち上げつつ、悪態とともに息を吐く。
そして声にはせずに、悪態をもう一つ。

『仮に焼き殺されたとしても、そこから決して動かない愚か者の癖に』












***












夜が明けた。
地面に直接横たわっている主は、体中泥だらけでひどい有様だ。
衣もところどころ破けていて、そうでないことろは燃え落ちているところだってある。そんなぼろ切れのような衣もどきから覗く肌は、本人による引っかき傷で血が滲んでしまっている。
―――まるで獣だ。
ついさっきまで蹲る様にして必死に力を抑え込んでいた主は本当に獣のようだった。闇の中に爛爛と光る一対の目。時折聞こえる呻き声。
そして何よりも、気配。
その場の空気すら燃やしつくそうとするような、こちらを喰いちぎってしまいそうな獰猛な気配が佐助の周囲を渦巻いていた。そんな状態でよく朝までもったものである。
佐助としては、ここまできっちり抑え込んでみせるとは思っていなかった。火傷くらいは覚悟していたし、それ以上の傷だって想定していた。
ただ一つ、命だけは全く心配していなかった。常に最悪の可能性を考えておく忍がどうしたことかと笑ってしまいたくなるような所業だが、この主は自分の部下を殺すようなことは決してしない人だと勝手に信じてしまっていたのだ。
「ま、案の定間違いじゃなかったんだけど」
すでに意識を飛ばしてしまっている主を眺めながらそう呟くと、その体を慎重に抱き上げた。
疲労の濃く滲んだ顔は見ていて心配になってくるが、表情はさっきまでの苦しげなものではなく穏やかなものだ。ゆっくり繰り返される呼吸も規則だ正しく、寝息と判断してもいい。
「とりあえず、傷の手当てだよなぁ」
泥だらけの体を拭いて、傷口は丁寧に清めて。そして出来るだけ染みない薬を塗ってやろう。
そして意識のない主にこう声をかけるのだ。

『ありがとね』

耐えて、耐えて、耐え抜いて、たった一人の忍ごときを傷つけないために、ここまでぼろぼろになった馬鹿みたいに愛しいこの人に。



























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 いつかやってみたいと思っていた異能暴走ネタです。
 俺に触ると火傷するぜ、を地でいく幸村が書きたかったのでこんな文章が出来ました。
 そしてSなのかMなのか分からない佐助ってのも副題です。
 ちなみに忍隊は幸村を手当てしている佐助をにやにやしながら眺めつつ、疲労困憊の様子で爆睡する幸村を見てそっと袖で目じりを押さえる予定です。