■霜月の雨
※すこし薄暗い話です。
腕の筋肉をしならせ、空を裂き槍を振るう。
手に馴染む柄の感触は常のもの。わずかに汗で滑りはするが、握れぬほどではない。
「…はっ」
一つ大きく振り下ろし、びたりと空中で静止させれば、陽の光を鋭く照り返す穂先が、僅かにぶれた。
即ち、それは切っ先の微妙なぶれでもある。
呼吸にあわせて揺らぐその動きではなく、このぶれはただの己の制御の甘さによる結果だ。
それほど長い時間槍を振るっていた訳でもないのにこんな様では戦となっても禄な戦力にならないだろう。
「くっ」
己の力量の足りなさに歯を食いしばれば、奥場がぎりりと歪つな音をを立てた。
そのまま口元を引き結んで、込めた力を緩めることなく保ち続け、今度はゆっくりと腹へと力を込める。それだけで姿勢が定まり、己を取り巻く空気もぴしりと締まった。
息は細くゆっくりと、且つ一定の速度で吐く。一呼吸分吸い込んだら、その倍の長さで吐く。
それを数度繰り返し、外の空気を体内へと一巡り循環させる。
体がその呼吸に完全にとけ込んだら落としていた視線を上げて前を見据え、槍を握った両腕に再度力を込めた。
――今。
「はぁっ」
気合いを込めて放った一撃は、相応の鋭さを持って空を裂いた。
そればかりでなく、庭木の一部まで裂いてしまったらしい。
みしみしと重苦しい音を立てて軋んだのは正面に生えていた木で、鈍く重苦しい音を立てて崩れたのは岩のようだ。
「のわっ?!」
思わず素っ頓狂な声を上げ、わたわたと周囲を見渡す。
やばい、これは完全に怒られる。正座して膝詰めで説教か、お八つ抜きか。
何にせよ、絶対小言の一つや二つや三つや四つ、必ず言われるだろう。
…あの口うるさい、己の。
「否」
当たり前のように浮かんだそれを、ぴしゃりと遮るように叫んで幸村は槍を握る手に力を込めた。
違う。
そうじゃない。
何に対しての否定の言葉か知れないが、己の胸の内で再度それを否定した。
そして、それと同時に言い聞かせる。
考えるな。
考えるな、考えるな。
考えては駄目だ。
出口の見えぬ思考を閉め出すために、さざめく心を凪ぐために、こうやって槍を振るってるのに、ここでもそれを考えてしまっては意味が無いではないか。
「考えるな」
口に出して再度言い聞かせれば、言葉とは裏腹に脳裏に浮かんでしまった存在。
考えたくないのに、一度思い浮かべれば当然のように次々と思い浮かべてしまう。
常に飄々と感情の見えぬ笑みを浮かべて。
――いつから顔を見ていないのか。
口を開けば小言か戯れ言か、それとも気まぐれの真実か。
――その声を聞いていないのか。
打ち消そうとすればするほどに、疑問が次々と浮かんでくる。
その疑問の答えも、何度も反芻したがために条件反射のように浮かんでしまい、それももはや作業めいた素早さで打ち消す。
任務は長く見積もって二月だと言っていた。考えるなその二月に加えて、さらに三月経ったのが今。これ以上考えるないつから顔を見ていない?知らないその声をいつから聞いていない?知りたくない
今日で、ちょうど五ヶ月。
…もう、半年近くも経った。
「――――ッ」
ガラン、と音を立てて手の中にあった二槍が地に落ちた。
一拍遅れて己の手がそれを掴もうとするかのようにぎゅうと握られた。
――遅い。
力加減と目測を誤ったそれは、手のひらに爪を食い込ませる。
その手に、痛みはない。
「何をやっておるのだ、俺は…」
自嘲的にそう笑うと、幸村は槍を拾うために腰を屈めた。
その背に一つ。
ぽとり。
空から降ってきたのは、一粒の雨。
見上げて見れば、空は今にも泣き出しそうなほどに暗く陰っていた。
ついさっきまで眩しいほどに晴れていたというのに、いつの間に雨の気配が迫っていたのだろうか。
このままでは降り出すのも時間の問題だろう。
そう思って、鍛錬を途中で切り上げようとした。
しかし、また一つ二つと落ちてくる滴にその足が止まる。
肩に頬に背に次々と落ちてくる水滴は、冬へと進むこの季節にふさわしく氷のように冷たい。
しかしその冷たさが、今は何故か酷く心地良かった。
「…雨か」
幸村は室へと向けかけた足を戻し、その場に留まるように空を仰いだ。
既に水滴と呼ぶには些か勢いの付き始めた雨が、何度もその頬を叩く。
「雨、か」
つい今ほど口にした言葉を再度上らせて、雨の落ちてくる曇天を視界から閉ざした。緩く光を伝えていた視界が真っ暗に陰る。
そして目元には、熱。
「………っ」
雨が落ちてくる。
いくつもいくつも、土砂降りのように落ちてくる。
氷のように冷たい雨が、体中の体温を拭い去るように滑り落ちていく。
「これは、雨だ」
告げた言葉は誰かにあてたものではない。
けれどそれは、言い訳のように響いた。
目元から滑り落ちる水滴だけが熱い。
***
ざぁざぁざぁざぁ。
天候を読むことに長けた忍が、今日は珍しくその予想を外した。
一日続くと言われていた久々の陽気を消し去るように突然降りだした雨は、未だ止もうとしない。
お天道様が機嫌を損ねたのかと笑ったのはついさっきだったか。
そして今は。
「馬鹿だろ、才蔵」
「……黙れ」
「口開くのも辛いんだ?」
「……。」
沈黙はどうやら肯定と取っても問題ないようだ。
鎌之助の正面で片膝をついて蹲っている黒ずくめ男は、何処から見ても血の気が引いて真っ青な顔をしている。
大げさに表現するなら、死んでもおかしくない様な顔色、だろうか。
しかも場所も悪い。
これだけ顔色の悪い上に体調の悪そうな人間は、普通屋根の上で雨に打たれてずぶ濡れになっていたりしない。
「ほんとに、馬鹿だよ」
己も雨に濡れながら再度小さく罵ってみるが、込めた思いは言葉の通りでは無い。
それをこの黒ずくめの男も理解はしているのか、面白くなさそうに視線をそらすだけで何も言い返そうとはしなかった。
「真田忍隊の長の座を引き継いで、最初にする仕事がそれ?」
「…さぁな」
「ここに佐助がいたら、絶対あんたぶん殴られてたと思うよ」
「あいつがいたら…」
こんな真似などしない。
多分才蔵はそう言いかけたのだろう。しかし言葉は続かず、表情の読みにくいその顔を辛そうに歪めて目を伏せただけだった。
死にかけてもこの男なら眉ひとつ動かさないだろうと思っていたが、今はそうも言ってられないほど消耗しているらしい。
「あれだけ気持ち良く晴れてたのに、雨なんか無理やり降らすからだよ」
動かない…否、動けない才蔵に手拭いを被せてやりながら鎌之助は膝をついた。
「もうちょっとやり方を考えろよ、ホント馬鹿だな」
今度は本気で罵ってみると、敏い才蔵はじろりと睨んできた。
「睨む元気があったら飲めるね。ほら、藤と六郎から差し入れ」
そう言って才蔵の口へどろりとした丸薬(もどき)を放り込んでやると、才蔵はさっきとは打って変わって人形のように無表情になった。
相当苦かったらしい。
「味は保証しないけど、効き目だけは折り紙つきだってさ」
「…水」
「雨降ってるんだし空に向かって口開けたらどう?」
「殺すぞ」
今のあんたじゃ無理だよ。
そんな言葉が喉まで出掛かったものの、鎌之助は寸前で飲みこみ竹筒を差し出した。
受け取った才蔵は緩慢な仕草で竹筒を傾け、中身を全部飲みほしている。
やっぱり相当苦かったらしい。
「こんな無茶な術使わなけりゃあいつらのえげつない薬なんて飲まなくて済んだのに」
膝に頬杖をついて言ってやれば、才蔵はいつもの無表情で明後日の方向へと目を向けた。
ここからだと少し距離はあるが、才蔵の視線の先には鎌之助たちの大事な主がいた。
この冷たい雨の中、部屋へと足を向けようともせず、両手に槍を握りしめて一人立ち尽くしている。
その表情は、ここからだと見えない。
「泣かせて差し上げたかったんだろ?」
「……。」
鎌之助もそっちへ視線をやりながら言ってやれば、才蔵は一欠片も揺らがず沈黙を返してきた。
この沈黙は肯定かどうかを読み取ることはできないが、きっと鎌之助の言ったことは当たっている。…でないと、この男がこんな行動に出るはずがない。
こんな不器用で、己を顧みない馬鹿みたいに無鉄砲な方法で。
けれどどこか優しい気遣い。
「不器用な奴…」
やるならもっと他にやりようがあったのではないだろうか。
鎌之助だって才蔵を貶しつつも色々考えた。
涙を掻き消すようなこの雨よりも、もっとささやかで寒くも痛くも苦しくもない方法を。
あのお方が、言い訳を必要とせず涙を流せる方法を。
けれど、無かったのだ。
どれだけ考えてもあの誇り高く、己に弱音を許さない鎌之助たちの主は、誰の前でも決して泣きはしないだろうから。
あのお方だって忍の扱いに長けた真田一族の直系だ。…覚悟など百篇もしていただろう。
それでも気丈にふるまう姿を見ていれば。
時折堪えるように拳を握る姿を見てしまえば。
夜にひっそりと考え込む一面を知ってしまえば。
少しでもその心が軽くなるように願わずにはいられない。
「泣いたら心は軽くなるんだっけ」
「…知らん」
「俺もあんたも、そんな感覚なんてもう忘れちまったね」
「…ああ」
才蔵の短い応えを聞きながら、鎌之助は緩く拳を握った。
胸が痛い。
胸の奥が痛い。
傷もないのに。
痛むのは、刃で傷の付けられるような表面ではなく、もっと奥の、取り返しのつかないところ。
そこが鈍く痛む。
「泣いたら心は軽くなるんだっけ」
さっきも口にした問いを無意味に再度上らせて、鎌之助は才蔵を見た。
常と変らぬ無表情と、真黒な髪の毛。
切れ長の目に、真黒な目。
少し長めの前髪が頬まで掛かってその目を隠している。
雨のせいか、その血の気の引いた頬はまるで泣いているかのように濡れていた。
きっと、己の頬も同じように濡れているのだろう。
だから、この雨が上がった時にはこの胸の痛みが取れているようにと戯れのように誰かに祈った。
泣き方は知らない、けれどこれは、涙なのだ。
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タイトルに11月の「霜月」を入れてしまったので突貫工事になってしまいました。
忍隊はわりとクールなのに、変なところで熱血だと良いと思います。
地味に決めていた設定では当日か昨日かに才蔵が正式に長になったとか、そんな感じで。
佐助は長期行方不明。
生死不明でも長いこと不在にしていたら仕事は才蔵が引き継ぎそう。