月が綺麗で
バイトからの帰り道を佐助がらしくもなくぶらりぶらりと歩いていると、尻のポケットに突っ込んだままだった携帯が細かく振動を伝えてきた。
長めのバイブレーション。これはメールの着信じゃなくて、電話か。
そう判断してポケットから携帯を抜き取ると、サブディスプレイに表示されている名前を目にして思わず息をのんだ。
[真田幸村]
赤外線通信とかいう機能で送ったせいで、フルネームで登録されているそれ。
佐助は慌てて携帯を開いて通話ボタンを押した。
「旦那?何かあった?」
すぐさまそう問いかければ、機械越しの少しいつもと違って聞こえる幸村の声が響いた。
『ああ、佐助。…いや、すまん。これと言って用は無いのだが』
「あ、そうなの?」
『ん…まぁその。なんだ、バイトご苦労だったな』
「はは、わざわざ労うために電話くれたの?珍しいね」
自分でも分かるほどに口元が緩むのを堪えること無く、そのまま放置して言葉を紡ぐ。その言葉の一つすらどこか楽しげに響くのだから、我ながら現金なものだ。
『お前、今はまだ外か?』
「ん?そうだね、もうちょっとで家だけど」
『そうか』
他愛のない問いかけかも知れないけれど、それはもしかしたら会いたいという遠まわしな意思表示なのではないだろうか。そんな馬鹿な考えを抱きつつ、思考は幸村の家までの時間を算出する。
どうせ己の家から幸村の家までそう離れてはいない。途中でコンビニでアイスでも買って、それを理由に会いに行ってやろうか。
佐助がそう思案していると、不意に幸村が改まった口調で話し始めた。
『その、だな。佐助』
「ん?」
『今日は、満月だろう』
「ああ、そうだね」
何を改まった口調でそんな話をするのだろう。
佐助はそんな疑問を覚えたが、幸村の声に耳を澄ましつつ空を見上げて月を見据えた。
太陽と違って直視出来る程の柔らかな光。
昼間のあの明るさはないが、それでも影が出来るほどにはその月光は鮮やかだった。
「月がどうかした?」
これだけ月が綺麗なら、土産はアイスよりも団子のほうが良いだろうか。
そう思案しながらの佐助の問いかけに、幸村が何故か電話越しにごくりと喉を鳴らした。
まさか団子のことがばれたのだろうか。
そんなあり得ないことを一瞬思い浮かべてしまった佐助に向かって、幸村のその言葉が響く。
『月が、綺麗だな』
何て事はない言葉。
ただ空を見上げて、人が真っ当に抱く感想のひとつだろう。
なのに何故、こんなにもこの言葉が胸に迫る?
「ああ、綺麗だね」
内心跳ねた鼓動に動揺しつつ、佐助はそう答えを返した。
天に輝く月は、確かに綺麗だ。
『…そうか』
相槌のように響く幸村の声には、いつもの暑苦しさがない。それはそれで耳に心地よく、こういうのも悪くないと佐助は思う。
だから佐助は言葉を発せず、幸村の声を待った。
するとなぜか妙に満足したような、もしくはどこか嬉しそうな幸村の声でこんなことを言われた。
『それは、良かった。…ではいきなり電話してすまなかったな』
「え…ちょっ?だ、旦那ぁ?!」
ぷつん、と途切れた電話。
何度か繰り返される電子音。
佐助の仰天を余所に、その音は電話が切れたことを知らせてくる。
「…それは無いっしょ?」
思わず佐助が茫然と呟くと、再度携帯が着信を知らせた。
もちろん直ぐ様通話ボタンを押す。
「もしもしっ」
もちろん佐助はそれが幸村だと思っていた。
しかし、実際はどうにも違ったらしい。
『あ、佐助?何か電話とるの妙に早かったけど携帯触ってた?』
「……………………………前田、の?」
『あ、もしかして彼女と勘違いしたとか?ちょっと兄さん隅に置けないね〜』
「あーはいはい、冗談はその辺にして、用件何?」
佐助としては幸村の声が響くものだと思って電話をとった。間違ってもこの、前田慶次の声を聞くため何かじゃない。だから多少応対がとげとげしくなっても悪くはないと思うのだが。
『まぁ、明日でも良かったんだけどさぁ、ちょっと幸村のことで気になってて』
「へぇ?何かあったの?」
内心問い詰めたくて堪らないが、そこは鋼の自制心で制御する。ここで取り乱したら、この風来坊のことだから何かしらからかいの言葉を口にするだろう。そんな時間がもったいない。
『今日たまたま幸村にあったんだけど、その時今夜が十五夜ってんで月の話になってさぁ』
「へぇ、十五夜ね」
そういえば、さっき幸村が電話してきたのも月の話題だった。
『そんで、俺が月にまつわる奥ゆかしい恋の言葉を教えてやったわけよ』
「はぁ…」
何でここでそんな話題が出てくるか分からないが、そこは適当に相槌を打っておく。
すると、電話越しの慶次が楽しげに笑い声を立てた。
『あんたら揃って知らないのなっ』
「はぁ?何の話だよ」
『あの有名な夏目漱石の!』
「夏目漱石…?」
どうしていきなりそんな名前が出てくるのだろう。
首をかしげた佐助を余所に、慶次が意気揚々と続きを語ってくれた。
『ほら、アイラブユーの訳し方の!流石千円札に載るだけあって、凄い人だよな。まっさか“月が綺麗ですね”なんて訳すなんてさ!いいよなぁ、日本人独特の奥ゆかしさっての?俺は好きだねぇ!』
「………っ!!!」
『それを幸村に教えてやるとさ、何か妙にそわそわしてたもんで!こりゃ意中の相手がいるな…ってわけであんたに電話させて貰ったってわけ。…なぁ、あんた幸村と仲良いだろ?そのへんどうなってるか知らないかい?』
「………。」
『おーい、あれ?…もしかして電波悪いか?』
ああ、悪いとも。他の言葉なんてもう耳に入らない。
月が綺麗で…?
それが何だ、I love youの訳だ?
何だそれは。
ということは、なんだ。
「愛してる…?」
『うぉわっ、あんたなぁっ沈黙の後にいきなりそれやめろよっ!気持ち悪っ』
「………風来坊」
『あっ!いい加減その呼び名も止めてくれよなぁ。何回も俺の名前は“前田慶次だ”って言ってんのに!…ってあれ、佐助?』
「悪いけど電波悪いみたいだし、また今度掛け直すわ」
『へ?おいっ、ちょっと!!』
「それじゃ、礼だけは言っとくよ」
『は?』
佐助はそう言って、電話を切った。
足は既に幸村の家の方へと向いている。コンビニで手土産に団子でも買っていこうかと思ったが、どうにもその余裕はないらしい。
時間はある。
買いに行くためのお金もある。
けれど、気が急くのだ。
あの人の家についたら、何と言おうか。
そう、とりあえず。
まずは、携帯に電話をかけて。
『今夜は月が、綺麗ですね』
これしかないだろう。
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十五夜テキストです。
2009年10/3は十五夜でした。
文章のとこで書いている夏目漱石さんの件ですが、確か生徒さんが「I love you」を直訳したのに対し、
日本人には「今夜は月が綺麗ですね」くらいにしておけ、的なことを言ったという説があったような…。気がします。
記憶がうろ覚えなので申し訳ない。
ですがとりあえずは良いお月見を。
雲の合間から見事な月が拝めました。