鴉 








太陽が沈んでからもう随分経つというのに、未だに残っている日中の熱気が生ぬるい風となって外で渦巻いている。時折庭木の枝葉を揺らすその風は、庭の砂を少量巻き上げるほどには強く体の熱を冷やすにはそれなりに役目を果たしていた。
しかし、書き物をするには少々邪魔な強さだった。
佐助の主は現在自室でまさにその書き物の最中で、慣れた仕草でさらさらと紙に筆を走らせている。
そしてその主の部屋の戸は大きく開け放たれていて、外からのぬるい風をめいいっぱいとりこんでいた。少し前まではきっちり閉じてはいたが、ついに暑さに耐えかねて開け放ってしまったのだろう。ぺらぺらと風が巻き上げる紙と格闘し、その後紙の四隅に重しを置くということで決着がついたようだ。
しかしついさっき吹いた一陣の風のせいで墨が一滴ぽたりと紙に落ちてしまい、せっかく書き進めた手紙を一から書きなおす羽目に陥っていた。佐助としては、一滴くらい落ちても気にするほどのことでもないのに、と大雑把に片づけてしまうが、どうも今幸村が書いているのは彼の姉君宛の手紙らしい。そりゃあ墨の一滴だろうと気にもするだろう。
そんなこんなで多少の問題は起きたものの、手紙の方は何とか今のところ上手くいっているようだった。
しかし、佐助が見たところ問題があるのは部屋の照明の方。つまり、蝋燭だ。
流石は存在ごと炎みたいな人間の部屋の蝋燭、と誉め称えたいくらいにめちゃくちゃ頑張っている。さっきからどれほど強い風にさらされようと健気に燃え続け、今も主の手元を必死に照らしている。しかしそれもいつまでもつか。
蝋さえあればまだそれも可能だろうが、今日は火が凄く頑張っているので蝋の減りが早い。あと少しで消えてしまいそうだ。
ここで佐助が取りに行って来れば済む話だが、どうにもそれまであの蝋燭がもちそうにない。更に困ったことに今日は新月だ。あの蝋燭の火が消えた瞬間に主の部屋は完全な闇に包まれてしまう。
幸村の勘は鋭すぎるくらい鋭い方だが、自室で寛いでいるときは信じられないようなドジをやらかすこともあるので、目を離した瞬間にあの燭台を蹴倒して溶けた蝋を引っ被るくらいのことはしてのけそうで怖いのだ。
そのため佐助はさっきから庭先の木の上で出て行こうか出ていくまいかを結構長い時間悩んでいる。
真剣に手紙を書いているのを邪魔するのも悪いし、わざわざ風を制御してやるなんていう疲れることはしたくない。しかし離れる訳にも行かない。
さて、どうしたものか。
そう佐助が何度目かしれない問いを思い浮かべた瞬間、ごうと音が鳴るほどの強さで一陣の風が吹き、いきなり主の部屋からふつりと明かりが消え去った。
蝋はまだ少しだけ余裕があったから、今のは風の勢いに火が掻き消されたのだ。
佐助はすばやく身を起こすと主の部屋の真ん前に降り立った。
「旦那ぁ?」
「む、佐助か。どうも火が消えてしまったようでな…と、あれ?む?うお?」
「あーっと、ちょっと動かないで下さいよ!今夜は新月だから見えねぇでしょ」
幸村が早速手探りで何かをやらかしそうなのを声で制して、佐助は足の汚れを払って主の部屋へ上がり込んだ。
「もうちょいで燭台倒すとこだったぜ?…っておいおい、ちょっと筆!筆貸して!」
「筆?こうか?」
「うおわっ!ちょっと動くなってば!せっかく書いてたやつを台無しにする気かよ!」
燭台を幸村から離れた壁際に動かし、また雫が落ちそうになっていた墨を手で受けて手紙を守り、そして明後日方向に突き出して佐助の顔に墨で何かを書こうとしたのを避けて筆を受け取る。
こんな短い時間によくこれだけやれたものだと、佐助は自分で自分を賞賛した。
「あ、机に手をついたら駄目だかんな!ほら、後ろに…ってああもう!こっち!!」
「うおっ」
今度は硯までひっくり返しそうになっていたので、佐助は幸村の腰を抱えあげて後ろに引っ張りだした。片手が墨で汚れていなければ両手を使ってもっと穏やかに引っ張り出せたけれど、片手ではこれで精いっぱいだ。
「ふぅ、このへんには何もないからちょっとここで待っててくれる?代えの蝋燭貰ってくっから」
佐助はぐるりと周囲を見回して幸村の射程範囲内に何も危ないものがないのを確認すると、身軽な仕草で腰を上げた。
しかしその動きを力強い腕が邪魔をした。
そりゃあもうかなり力強い腕が。
「わぎゃっ」
「お?すまん、良く見えぬゆえ…あれ、これはお前の足か?」
「あーそうっすよ、足だよ足!片足踏み出した瞬間の重心の方の足ね!」
軸足を取られたせいで派手にすっ転ぶというかなり間抜けなことになっていた佐助は、とっさについた手に付着していた墨が畳を汚したかと慌てて袖で拭いつつ答えた。
「ふむ…ではお前には俺が見えているのだな」
「何を今更…」
流石に佐助でも目の利かない状況でさっきみたいなことはできない。
「俺は夜目が利く方なんですよ」
「だが俺には全く見えんぞ?」
「そりゃあ…さっきまで蝋燭の火で光に目が慣れてたからじゃないの?」
「そうか」
幸村はそう言うと佐助のほうへ手を伸ばしてきた。
軌道が明らかに顔へ直撃なので、危なくない位置に顔をずらす。
「これは、頬?」
「そうそう」
佐助が顔をずらさなければ目だったが。
「やはりまったく見えんな、今目は合っているか?」
「いや、ずれてるけど」
幸村の目線は佐助の目よりほんの少しだけ上で固定されている。幸村はいつも人の目を見て話すので、こんなふうにずれているとどこか落ち付かない。
「それでもお前は見えているのだな…。ふむ、やはり忍は凄いな」
そう言いつつ幸村はのそりのそりと佐助の方へ近づいてくる。
「ちょ、ちょっと待った!近い!近いからっ!てか声の感じで何となく距離くらい計れるだろ?!」
「そんなもの分からん。風が強くてたまに声が消えるのだ」
「俺様の顔触ってるんだから腕の長さでまず分かれって!」
「何をそんなに慌てている?別に目が利かぬからと言って噛みついたりしないぞ」
さっき目つぶしをごく自然な仕草でやろうとした人間が何を言っているんだ、と佐助は思ったが口にはしなかった。
「まぁそれは置いといて。そろそろ代えの蝋燭取りに行きたいんだけど?」
「ああ、まぁそれこそ少し待て」
何故か幸村はこの状況が気に入ったようで、楽しげに笑みを浮かべながらぺたぺたと佐助の顔を触ってくる。
片手で触れていただけの筈がいつのまにか両手に増え、挟みこむように頬を包まれれば幸村の方が体温が高い分かなり暑い。かと思えばわしわしと頭を撫でられ、その次は姿勢を確認するかのように肩に手を置かれた。
「はは、全く見えぬがやはりおるな!」
「あったり前でしょ。何言ってんの」
「いや、目が利かぬと案外そういうものだぞ?お前も目隠ししてみればどうだ」
「えー、何でまたそんなことを…」
「じゃあせめて目を瞑るとか」
「んー…でもあんたの気配はすっげえ分かりやすいから、あんまり意味無いと思うんだけど」
一応目を閉じつつそう言えば、遠慮なくべたべた触ってきていた幸村の手が佐助から離れていった。
そして幸村本人も遠ざかっていく。
「こーら、目が利かねぇのに動くと燭台とか蹴倒すぜ?」
「いや、こっちの壁には何も置いていないから問題な…ぃわっわわわ」
途中で幸村の返答がおかしな具合に跳ね上がったので、閉じていた目を佐助が開けば。
「あんたさぁ…」
幸村は積み上げていた書物に躓いて危うく転倒するところだった。もちろん佐助が助けたが。
「う…すまん。昨日までは無かったから、つい」
「はいはい、分かったからもうあんまりうろちょろしないでくれよ?」
「わ、わかった…」
今度は神妙な態度で頷いた幸村を確認すると、佐助は幸村から体を離した。
代えの蝋燭をとってくる間くらいじっとしていてくれるだろう。しかも部屋の傍に幾つか気配がある。佐助が傍を離れている間に仮に何かあったとしても、多分周囲の連中が何とかしてくれるだろうと。
…そう思って二歩三歩と幸村から遠ざかったのだが。
「………。」
どうにもいけない。
こういう時に限っては無駄に夜目が利くことが少し恨めしい気がする。理由は、見えてしまうから。
佐助とは違い碌に見えないその目で持って、こっちを見ている幸村の心細げな表情が。
佐助は胸の内でそっと溜息を吐くと、気配を絶ってその場に少し留まってみた。
すると幸村は、まず手を虚空へとそっと伸ばした。目はやはり何も見えていないようで焦点が定まっていない。
そしてほんの少しの間手を虚空へ彷徨わせると、今度は足を踏み出した。
うろちょろするなという佐助の言葉を気にしているのか、足先で前の床を探ってから一歩踏み出すという幸村らしくない慎重な動作だ。
そして今度は同じ動作で二歩目を踏み出す。そのまま幸村は少し逡巡すると、佐助がいる場所より少しずれた位置に手を伸ばした。何かを探すような仕草で手を動かし、何もその手に掴めぬ虚空へと彷徨わせる。
そして一言。
「佐助?」
「なに」
呼ばれてしまえば、答えを返さない訳にはいかなかった。
ただし真っ正直に答えるのは何故か悔しい気がして、わざわざ気配を絶ったまま主の背後へ回り込んで返答してやった。
そしてやっぱり幸村は酷く驚いたようだった。
佐助の目の前にある幸村の背が、一瞬獣のようにぞわりと逆立った気がして、その背に流れる尻尾髪まで猫の尻尾のように直立したように見えたのだ。
「さっさっ佐助?!いいぃいいい、いつ戻ったのだっ?!」
時折裏返る声音でそう言いつつも、幸村は何とかこちらに振り向いた。
「いつも何も、初めからどこにも行ってませんよ」
「は…」
「やーだってあんたが何つーか…、うん。まぁ…ちょっと立ちされる雰囲気じゃなくて」
どう言葉を探しても、まさか“わんころみたいな顔してたから”などと主に向かって言えるわけがない。
「まぁ、今度こそ行ってくるから」
「わ、待て!!」
今度こそ佐助が身を翻そうとしたのを、幸村はまたも止めた。しかし佐助も今回はちゃんと学習して、さっきみたいな無様な恰好は見られないよう身構えていたので、普通に…と言ってもかなりの馬鹿力だが、腕を掴まれるだけで済んだ。
「その、おっ俺も行く!!」
腕に走った鈍い痛みに耐えていると、幸村がそんなことを言ってよこした。
幸村らしくもないことだが、この暗闇に一人置いていかれるのが心細かったりするのだろうか。
「別に良いけど…まだ何も見えないんだろ?」
部屋の外に出ても明かりがある訳ではない。だから灯り無しで出歩くのは危ない、という意味合いで言った言葉だったが、幸村はそれを遮るようにさっさと歩きだした。
「見えはせぬが目は慣れてきたから問題ない」
しかしやっぱりこういう時の幸村はどこか抜けている。
ただ目が利かないというだけだというのに方向感覚まで狂ってしまっているようで、佐助が居る方向へ足を踏み出してきたのだ。もちろん避けようとはした。というより実際避けた。幸村が進むに合わせて佐助も慌てて後退し、そして。
壁にぶつかった。
時間にしてほんの一瞬。何てことのないただの日常の仕草だったのに、壁にぶつかったせいで体が逆方向へほんの少し跳ね返った。そして幸村は佐助のほうへと歩いて来ていた。
結果は当たり前だが、幸村とぶつかった。
「……っ」
「っむ、すまん」
「や、大丈夫」
そう返して、佐助は掴まれていない方の手で己の唇を覆った。
ほんの少しじんじん痺れてきた、今さっき幸村とぶつかった唇を。
そして目は至って普通の表情の幸村を捉えている。
「…やはり、蝋燭はお前に任せた方が良さそうだな」
困ったように頬を掻いて今の失態を笑ってごまかそうとしているのもいつもの表情で、情けなそうに佐助を掴んでいた手を放したのもいつもの仕草で。
「ほーら初めから俺様に任しときゃ良かったってのに」
「う、すまん」
しゅんと目を伏せた表情もいつもの通りで。
幸村は今佐助とどこがぶつかったのかを分かっていないらしい。
そのことに安堵するとともに、なぜか少しだけ残念だったように感じて佐助はそっと苦笑した。
しかしまぁ、良かった。
「それじゃ、今度こそ行ってきま…」
もう問題は起きないだろう。そう思ったのに。
不意に気付いたのは幸村の目。
忙しなく左右に揺れるそれは、明らかに動揺していて。
「旦那?」
「なっ何だ?!もう歩きまわったりせぬから、行っていいぞ?!」
やっぱりどこか普段と違う態度を不思議に思って、その顔に手を伸ばすと。
「…っふゃ」
何とも言えない声を発して幸村が固まった。
そして触れたその頬が。この闇では色の違いなど見分けは付かないけれど、触れたその頬は。
…焼けるかと思ったくらい熱かった。
「……………行ってきます」
「…う、おう」
まだ誤魔化せていると思っているのか、幸村が言ったぎこちない答えを背に受け、佐助はやっと部屋の外へと飛び出した。



本来ならもっと早く走ることもできるけれど、佐助が居ない間にあの真っ赤に染まった顔をどうにかする時間が主には必要だ。
だから完全なる闇の夜を佐助は酷くゆっくりした足取りで進んだ。
常より少しだけ早い鼓動に、気付かない振りをして。

























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 7月25日にapricoの皆木さん宛に送りつけてしまったお誕生日祝いテキストです。
 いきなりだったのに、心良く受け取って下さった懐の深い皆木さんに感謝。