宵の蓮華 






膝を曲げて足を上げ、前へと踏み出し、そして地を蹴り体を前へと運ぶ。同じ作業を反対の足でも。
その際の足運びは、指の付け根を下ろし、次に指先。最後に踵。駆ける時は踵はいらない。
足音を殺して殺して、疾くと。
柔らかな土の感触は足音を消してはくれるけれど、足跡が残るからいけない。それに踏む場所を間違えれば水気が多すぎて、ばしゃんと大きな音を立てる場合もある。音はこんな時天敵だから、絶対にそれは避けなければいけない。
だから選べる道筋の選択肢として、駆けるなら枝か、もしくは地面からせり出した木の根か。死んだ根を踏めばバキリと折れるから、生きたそれを選んで足場にする。
飛ぶときは全身の関節を使って衝撃を殺して殺して、ひたすら無音で疾くと。
上体は前へと倒し、少しでも風の抵抗をなくして駆ける。
馬鹿正直にぶつかってくるそれを切り裂くように、そしてかわすように。己もその一部と化して木々の合間を縫うように駆ける。
息も殺せ、限界まで殺せ。
吐く息は細く、吸う息は短く。最低限の呼吸すら数を減らし。
汗もかくな。体中の水分を制御しろ。流れを意識し、外へ逃すな。熱も留めて縛りつけろ。
「……っ」
呪文のように胸の内でそう唱え続けてもうどれだけ経ったのか。
このぼんやりと晴れない頭では、それが一瞬か、それとももっと長い時が経ったのかが判断できない。
けれど足は機械的に動き続け、体は前へと進み続けている。どれほどの距離を走ってきたのかすら今ではもう分からないけれど、追っ手との距離が少しでも稼げればそれで良い。
ただ、前へ。
体の動かし方は覚えているから、鈍った頭でも同じ動きをずっと繰り返せば前へ進める。
足を交互に、そして音を立てずに。気配も消して、息も殺して。
そうすれば、目の前の景色は動く。
木々の枝葉を通り過ぎ、幹を避け、草木の合間を滑り。
単調だからこそ、体が覚えているその動き。それを繰り返して繰り返して。
けれど突然、切り替わった視界。

初めに飛び込んできたのは、白と薄紅色の花弁だったか。
空から降るほんの僅かな朧月の光を受けとめるように開いたその花と、瑞々しい葉の深緑。
光を感じたように思えたのは、水面のためか、それともそこがあまりに浮世離れしていたからなのか。
森の一部を切り取ったかのように広がるその湖一面に咲き誇っているのは、蓮の花。
たった一輪でさえ光が灯ったかのように神々しいというのに、これほどの数が揃えばそれはもう俗世から切り離された世界だ。
(ここが、極楽浄土なのだろうか)
不意に己らしくないそんな考えが頭に浮かぶ。
どうにも流した血が多かったらしく、鈍く陰った思考がそんな馬鹿な考えに至ったらしい。
本当に馬鹿だ。
仮に今己が既に死んでいたとして、目にした光景があの世のものだとしても。
こんな、…こんな寒気がするほど美しい光景を、己が目にすることなんて出来る筈もないのに。
極楽浄土と見紛うような場所。
そう、己はそんなところに行けやしない。
行くとしたら、もっと暗く冷たく、重く。地獄の果てのような場所じゃないのだろうか。
だから分かるのだ、ここがあの世では無いと。つまりはまだ自分は生きているのだと。
ここは現世で、あの人が生きている世界だ。
「……、…っ」
ぼんやりと途切れ掛けた意識をもう一度繋ぎ直して、一歩蓮の咲き誇る湖へと足を踏み入れる。
足先を水の冷たさが満たして、思考もさっきより少しだけ晴れた。
そろそろがちがちに固めておいた傷口の血止めがもたなくなってきているから、この状況で湖に行き当たったのは運が良かった。
これで血の跡を残さないで済む上、匂いでの追跡からも逃れることができる。
そうやって合理的なことだけを意識して、音をたてないように水に入っていった瞬間だった。
不意に思い出してしまったのは、何気ない調子で言われたあの人の言葉。
“蓮を見に行こう”
そういえばあの人がそんなことを言っていた。
ただの思いつきで口に出されたであろうそんな口約束ではあるけれど、なぜか頭に残っていて。
そして己は、こんな時に泣きたくなるほど平和な考えを思い浮かべるのだ。
“ああしまったな、一人で見てしまった”と。
一人で見てもこれだけ綺麗なのだから、あの人がいたらもっと綺麗に見えるのだろう。
どんな理屈でそんな考えに至ったかは分からないけれど、思い浮かべてしまったそれは確かに真実に近い気がして。
そして更に、だから今は何が何でも無事に戻らないといけないと、そんな風に闘志すら抱いてしまって。

水が奪っていく体温と、傷口から滲みだしてく血をそのままに、その花の群れに身を沈め天を仰ぐ。

ああ、こんなにも神聖な空間を。
俺のような血に穢れたものが汚す無礼をどうか許して。






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「花」のリクエストをいただいたお礼テキスト三点目。
雨毎さんの舞雪さまへの捧げものです。
三つ合わせて『花束』ってことで送らせていただきました。
いきなり三つも押し付けちゃったのに快く受け取って下さり、ひたすら感謝です!
舞雪さまありがとうございました!








おまけ…というか蛇足で、帰還後蓮見物な真田主従↓

「うむ、見事なものだな」
「確かにこりゃ綺麗っすね」
「ああ、これなら根っこにも期待できるな!」
「は…?根っこ???」
「うむ。蓮根だ」
「…あ、蓮根?…え、蓮根?!」
「これほど見事な花を咲かせるのだから、きっと蓮根も美味いぞ」
「普通これ見てそれ思い浮かべるかぁ?!」


うん、台無しですね。