大きな戦を勝利という結果で終わらせたしばらく後。
戦後の厄介な処理を粗方片づけた午後のことだ。
佐助は久々の休みということで草屋敷にある自室で寛ぎつつ、武器の手入れをしていた。
いくつか新調したものもあるが、慣れた武器はやはり使いやすいので、いつでも使えるようにこまめに手入れをしている。
ひとつひとつ丁寧に磨き抜かれた刃は、独自の光沢のある黒が鈍く明かりを照り返している。これなら申し分ない程の切れ味だろうと思い、軽く手で弄んでみれば小気味よい音を立てて空気が斬れた。
その音に満足すると、かちゃりと音を立てて手入れの済んだ苦無の束を一纏めにする。
そして棚に仕舞おうと腰を上げると。
どどどどどど…と地響きのような音を立てて何かが近付いてくるのが分かった。
一瞬地震かと思いひやっとしたが、慣れた気配を感じとってすぐに脱力する。
そして間を置くことなく入口の方から「頼もーう!!」という幸村の声が聞こえた。
思わず佐助は吹き出した。
己の所有物である屋敷の一棟に、道場破りのような言葉を放って特攻を掛けてくるのだ。
明らかに訪問の挨拶を間違っている。
主なら主らしく呼びつけるなり人を遣わすなりすればいいのに。百歩譲ってわざわざ出向くにしても、もうちょっと偉そうに入ってきてほしいものである。
佐助がそんな風に一般的な主像を思い描いていると、慌てに慌てた部下の忍ができる限り丁寧に幸村に応対し、これまた慌てて佐助の部屋へと通した。
困った笑いを浮かべる佐助を余所に、幸村は珍しい道具の並ぶ忍の部屋を一通り眺めると、男前な笑みを浮かべつつ口を開いた。
「感情を抑える方法を教えてくれ!」
佐助の休日は無情にも終わりを告げた。
休日に嵐
幸村はお館様を師と仰ぎ、日々精進している。
そして今回思い当ったのが、一番自分に欠けているもの。
お館様に比べれば、自分に足りないものというのはまだまだ星の数ほどある。
しかしその中でも一番自分に欠けているもの。
それは冷静な心で物事の大局を見据えることのできる慧眼。
すなわち平常心。
自分はいつも熱くなりすぎる。
それならば、すぐ熱くなる感情をうまく制御する方法はないだろうか。
「と言うわけだからよろしく頼む!」
「いやよろしく頼まれても…」
珍しく理にかなった正論を述べる幸村に、佐助は脱力した。
幸村のように感情が行動に直結している人間に、感情の起伏を抑える方法など教えても意味がない。
火に油を注ぎつつ「燃えるのちょっと我慢して下さいねー」と言うようなものだ。
はっきり言って無理だ。
佐助はすぐさま「無理」と切り捨てようかと思ったが、幸村はこうと決めたら一直線の男だ。
絶対聞かないに決まっている。
もし断ってごねられたら余計に面倒なことになりかね無い。
そんな手間をかけるくらいなら、簡単な方法を教えて幸村自身に「無理だ」と理解させた方が利口だ。
佐助はそう判断すると、やれやれ…といった様子で溜息をついて幸村に向きなおった。
「んじゃとりあえず試してみなよ」
「試す…?」
「そう、感情を抑えるつってもそう簡単にいく訳ないしさ、まずは感情を顔に出さないところから。冷静に物事判断するには内面を平静に保つっていうのも大事だけど、そんな目的だけいきなりやろうとしても大変だし、練習ってことで顔に出さないように。…これだけでも結構大変だぜ?あんたみたいにすぐ考えが顔に出るような人間はさ」
「む…そうか」
「はいはい!じゃあ早速やってみましょうか。俺様が今からあんたの感情を乱すようなこと言うからさ、あんたはとりあえず全部聞き流すなり無視するなり、とりあえず顔に出さないようにすること。分かった?」
「うむ。どこからでも来い!」
この時点ですでに気合いが入りまくっている様子が丸わかりだが、そこに突っ込むと前に進まなくなるので佐助は無視することにした。
「はいはい。それじゃあいきますよー、それじゃあまずは大将の話題から」
ぴきり。
聞こえないはずなのに、空間がそういう音をたてた気がした。
前を見ると幸村が「しまった…」という顔をしている。
これは多分自分がお館様の話題となるとすぐに熱くなったり寒くなったり赤くなったり青くなったりそりゃあもう笑えるほど態度を七変化させることを自覚しているからなのだろう。
要約すると、平静でいられる自信を早くも無くしたのだ。
しかしこれに突っ込んでも前に進まないので佐助はまたもや無視した。
「お館様ってば最近ちょっと無茶しすぎだと思いません?もういい年なんだからさーもうちょっとこう、落ち着きって言うか…そう言うものを身に付けて欲しいって思いもあったりなかったり…」
ぞぞぞぞぞぞ。
辺りを何とも形容しがたいオーラのようなものが充満し始める。
「こないだだってかすり傷とは言え負傷しちゃったしね。情報収集とか出てると、甲斐の虎も老いには勝てぬか…とかいう声もちらほ、」
「ぬぅぅがぁぁぁぁぁああああっ!!!!!!!!!!」
案の定我慢の限界に達した幸村が大音声で吼えた。
そんなに広くは無い佐助の部屋がびりびりと音を立て、さっきまで磨いていた武器の数々が棚の奥でちきちきと互いを鳴らしながら震えている。
「ちょっと旦那!落ち着けって!全然駄目じゃないの!」
このままじゃ屋敷が壊れる、そんなありえない懸念を抱いてしまった佐助が掴みかかって止めるも、幸村は滂沱の如く涙を流しながら吼えまくっている。
「お館様の負傷はっ…俺の力が足りなかったせいでそんなことになったのだっ!!だというのにそれを…っ!!」
「だーもうっ!!嘘だっての!それくらい気付けーっ!!大将の掠り傷だって自分で隕石呼んで小石が掠っただけじゃねぇかっ!!なんであんたのせいになるのっ!」
「お館様のお手を煩わせる前に俺がもっと早く敵将の首をかっ飛ばしておれば良かったのだっ!!」
「かっ飛ば…っ?!あんたなんつー不穏な言葉を叫んでんの?!ってか人一人に出来ることには限りがあるってこと忘れてない?!ついでに本来の目的の方も完っっ璧に忘れてない?!」
「本来の目的?!」
「そう!頼むからここに来た理由とかを深く深ぁぁく思い出して欲しいんですけど!」
そこで幸村が不意に口を噤んだ。
途端、一気に辺りが静まり返る。
只でさえ音も気配も希薄な草屋敷という特殊な場所だ。騒音の発生源など幸村しかありえない。
幸村さえ黙ってしまえば他に騒がしい気配など無くなるのだ。
…とはいえ幸村の大絶叫のせいで、忍達がこっそりそわそわしている気配は僅かにあるが。
それはさて置き、騒音発生器の幸村はというと、まだぴりぴりとした気配を纏っているものの、もうすっかり静かになっている。
しかもあれだけ叫んだというのに息一つ乱していない。その無駄な肺活量をもっと別のことに活かして欲しいものだ。
因みに幸村に負けぬように必死に声を張り上げていた佐助の方はというと、あからさまでは無いものの僅かに呼吸を乱していた。あの幸村と声の大きさで張り合うほうが間違っているが、あの状況で会話を行うためには幸村の大音声に掻き消されない声量が必要となるのだ。
だから無駄に疲れた。
始めたばっかりだけど、佐助はもう終わりにしたい。
「今のが冷静な態度なんですかねー」
ぼそっと呟いた言葉は、静かな部屋には大きく響いた。
つまり、幸村にも聞こえている。
「う…」
さっきの沈黙で頭も冷えたのか、幸村は本来の目的を思い出してくれたようである。
失敗も失敗、見るも無残な大失敗に冷や汗を流しつつ、ぎこちなく顔を引き攣らせ、佐助に下手くそな笑みを向けているが、未だ『平常心獲得』何ていう無理な目標については諦めていない目をしている。
「その、もう少し難易度を下げてもらえるとありがたいのだが…」
案の定そんな妥協案を口にし出した幸村に、佐助は「やっぱりまだ続けるのか…」などと思って落胆を覚えたものの、そこは忍の根性で顔には出さず肩を竦めて答えてみせる。
「それじゃあ次」
「よしっ」
ぱっと顔を輝かせた幸村に思わず苦笑しつつも、佐助は続きを口にする。
今度はそう、幸村が大好きな…あれの話。
「この間あんたが美味しいって言ってた雫屋の草もちだけどさ」
「………。」
沈黙とともに、幸村がぱちりと一つ瞬いた。
「何か店の主人が新しいの作ってるみたいだよ」
「………………。」
一応何も反応を返さない幸村だが、ぱちぱちと不自然に繰り返される瞼の動きが若干気になる。
「あの餅の食感はそれはそれで魅力的だけどさ、こんどはちょっと鉄板で焦げ目入れてみるんだってさ」
「………っ」
一瞬、こくりと幸村の喉が鳴った。
「表面をぱりっと焼き上げて香ばしい食感を出したいって言ってたけど、まぁ良い具合に完成しそうでさぁ…」
幸村の目が何だかきらきらしている気がする。
「串に刺してたいつものは餡子が上に乗っかってたけど、今度のは中に入れ込んで焼くらしいから熱々の餡が入ったのが食え、」
その瞬間、頑なに沈黙を守り続けていた幸村の腹が盛大な音を立てた。
ぐぅぅきゅるる、と情けない音は誤魔化しようのないほど静かな空間に響き、佐助も思わず言葉を止めてしまう程だ。
「………。」
「………。」
お互い目を見合わせて思わず沈黙してしまい、実に奇妙な間が空いた。
しかし、次の瞬間には佐助が盛大に噴き出す。
「あ、はっ…!もうあんた…最高っ」
何とかこの笑いの衝動を言語として表わしたいのに、それが上手くいかないほど笑いの衝動がでか過ぎる。
うっかり気を抜けば呼吸すら危うくなりそうなほどだ。
「あは…っ!!腹痛いっ…!もう無理…!!」
「は…腹が鳴ったのは仕方がなかろう!お前が美味そうなことを言うからだっ」
憤然と言い返してくる幸村に、佐助は必死で笑いを収めて答えを返す。
「頑張って沈黙続けてたのにねぇ、正直者の腹を持つとこりゃ大変だ」
「茶化すな!こっちは必死だったんだぞっ」
「つってもあんた思いっきり顔に出てたからさぁ“美味そう!”って顔に大きく書いてあったよ」
「な、何っ?!あれだけ我慢したのにか?!」
「そうそう。見てて面白いほど」
驚愕の表情を隠しもしない幸村に、佐助は笑いながら駄目押しを口にする。
そろそろこの試みが無理だと気づいても良い頃合いだ。
「そんな訳だから、そろそろ諦…」
そう言って佐助が幸村へ諦めを促そうとした瞬間、幸村はとても良いことを思いついたような満面の笑みを浮かべつつ、佐助へ力一杯宣言した。
「手本を見せてみよ!」
「はぁ?」
佐助は間髪入れずに間抜けな声を上げた。
思ったことをそのまま口に出した素直な声だ。
しかし幸村はそんな佐助の様子など構うことなく嬉々として先を続ける。
「いきなり感情を顔に出すな、などと言われても勝手がわからぬ。そこでこういった腹芸の得意そうなお前に手本を見せて貰おうと思ってだな」
「おーい腹芸って何だ腹芸って」
「お前は普段から何を考えておるか全く分からん!」
「それ褒められてんのか貶されてんのか分かんないんですけど」
「安心しろ!褒めておる!」
「ああ…そう」
最終的に佐助は諦めた。
本当に褒められているのか疑問を覚える部分はあるものの、何だかもうどうでも良くなってしまったのだ。
もともとこんな回りくどい方法を選んだのは佐助の方ではあるし、ここまで来たら気が済むまで付き合ってやろうと。
「そんじゃま、どこからでもどーぞ」
「うむ!」
元気よくそう答えた幸村は、佐助を動揺させるような言葉を決めかねているらしく、いきなり思案を始めた。
佐助は胡坐をかいたまま頬杖を突き、その様子を眺める。
もともと幸村は考えていることが顔に出やすいので、何を言おうとしているかぐらいは予想できる。
そう、例えば今だって。
「旦那、もし『減給』とか口にするつもりならそれなりの対応は覚悟しといてね」
「うぐっ…ななな、何故分かった?!」
「顔見てりゃ分かるよ」
「なら昇給!」
「本気にしちゃうけど良いの?」
「だ、駄目だ!今回の戦で昇給したばっかりだろうが!」
「んじゃ別の考えて下さいよ」
「う…むむ。き、昨日棚の団子を盗み食いした…ぞ」
悪戯が見つかった童子のような仕草で言うので、それが嘘ではないと分かる。
「何自分の罪を告白しちゃってんの?怒られたいの?」
「おう怒れ!何故そう平然としておるのだ!」
偉そうにそんなことを言われても、理由など一つしかない。
「だってそう言う決まりでしょ?」
「むむむ…」
「さぁさぁ頭捻って考えて〜」
「た、食べ物関連は……。駄目だっ!食欲旺盛なお前など想像できんっ」
「まぁ忍ですから」
自分でも想像できないので、幸村では尚更無理だ。
「むぅ…お前が動揺するような言葉など思いつかん」
そう言いはするが、幸村が察知していないだけで日常的に動揺することなど茶飯事だ。その理由の大半を占めているのが予想の斜め上を行く幸村の行動に関してなのだが、それを本人に言うつもりなど佐助には毛頭ない。
「そろそろお手上げ?」
にやにやと平時の笑みを浮かべながらそう告げれば、幸村は悔しそうに顔を歪めた。
建前上は何を言われても動揺しないというお手本を見せることになっていたはずが、いつの間にか幸村の中で『佐助を動揺させる』に目的がすり替わってしまっているらしい。
佐助がその根本的な間違いを指摘するために口を開こうとしたところ、突然幸村が矢のような速さで腕を突き出してきた。
もちろん忍の反射神経ならば避けられない訳ではない。しかし腕の角度から考えてどうにも殴られるわけではないと判断したため、そのまま動かずに事の成り行きを見守ってみた。
そして出た結果が、これだ。
「……何やってんの」
「秘儀、擽り攻めだ!」
「ああ…そう」
脇腹あたりでこちょこちょこちょこちょと動く指を無感動に見つめつつ、佐助は内心脱力した。
意表を突くという点に関しては成功していると言えなくもないが、擽りに関しては完璧に失敗している。
「旦那…一応言っとくけど俺様、それ効かないから」
「何ぃ?!」
間髪入れず返ってくる声に、一瞬吹き出しそうになった。
しかし、ここで笑ってはこちょこちょが効いたと勘違いされそうなので、意識して表情筋を戒めた。
「だってこれ、見た感じ笑えるから忘れがちだけど、一応拷問の一種な訳よ。俺様みたいな一流の忍が訓練してないと思う?」
「く、訓練で何とかなるものなのか?」
「何とかなってるからそうなんじゃない?」
佐助としては事実を真面目に告げたつもりだったのだが、幸村はどこか懐疑的な目で佐助を見てくる。
擽りが効かないのがよほど信じられないらしい。
しかもその思いを代弁するかのように、一度は中断した指の動きを再開させている。
「こらこら、だから効かないってば」
「平然としおって…なかなかお前も強情だなっ!」
「だから話を聞けっての。効かないって言ってんでしょー?」
しつこく手を動かし続けている幸村に重ねてそう言うが、動きを止めるどころか今度は足を引っ掴んでくる。
多分今度の標的は足の裏なのだろう。
何とか逃げてやろうと佐助も身を捩るが、幸村の馬鹿力は尋常ではない。下手に動けば足首ごと粉砕される可能性というのも、無いとは言い切れないから恐ろしい。
仕方なく抵抗を諦めてみれば、案の定わきわきと細かく動く手が佐助の足の裏にあてがわれた。
もちろん、少しもくすぐったくない。
「むむ…!お前足の裏も平気なのか?!どこかおかしいのではないか?!」
「へーへーおかしくて結構!」
「まさかこの足袋が恐ろしく分厚いのではないだろうな?」
「あのなぁっ…さっきから効かないって言ってんでしょーがっ」
全く話を聞いていない幸村に対し、佐助はそろそろ無抵抗に徹するのも飽きてきた。幸村の失礼な物言いも手伝って、このあたりで反撃に出てもいいような気になってくる。
「ちょーっと旦那、そろそろ足放して貰えません?」
「む…」
しぶしぶながらも幸村は佐助の足を解放してくれた。
それを再度捕まえられることのないようにきっちり組んで仕舞い込むと、佐助は俗に言う黒い笑みというものを浮かべた。一見清廉潔白に見える晴れやかな笑みだが、腹に一物抱えている状況で浮かべればどうにも凄みの増すあの表情だ。
その笑みを浮かべたまま、両手をぱっと広げてみる。
「?」
幸村は意味が分からないのか、きょとんとした。
大きな目をぱちぱちと瞬く様子は何とも無邪気で今からやろうとしている行為を躊躇わせるが、一度芽生えた反撃の思いはそれだけでは消えなかった。
「だーんなっ隙あり!!」
鋭く叫んだ言葉とともに、突きだした手は幸村の脇腹へ。
そして幸村はというと、一瞬佐助の動きに反応したものの、油断していたのか避けることは出来なかった。
しまった、とばかりに顔を引き攣らせる幸村を尻目に、佐助は脇腹へやった手に遠慮なく力を込める。
「うぎゃぁあああっはっはははは――っ!!!ははっははは―――っ!!!」
何とも言い難い複雑な笑い声が、佐助の部屋と言わず草屋敷全体に響き渡る。
「さぁっさすっさすさす佐助っ!!参ったぁ!!参ったから!!」
「えーこれくらいで武士が降参するの?」
切羽詰った幸村の大絶叫とは異なり、間延びした問いかけを返した佐助は変わらず手をわきわきと動かしている。
もちろん幸村は全力でのた打ち回っているし、手足をばたつかせて必死に逃げようともしている。
しかし佐助は上手に体をずらしつつ、巧みに幸村を押さえつけている。
「こここ降参っううっぎゃあっはははぁっ!!ここ降参するっ!!うぐふっ…」
いっぱいいっぱいの幸村に、流石にこれ以上は可哀想かと思った佐助は休みなく動かしていた手を止めてやった。
途端、ばたばたもがいていた幸村の体がぐったりと倒れ伏した。
ぜぇひぃぜぇひぃと肩で息をして、「あ゛ー」とか「う゛ー」とか掠れた唸り声をあげている。
「あれれ大丈夫旦那?」
「だ…大、丈夫なものかっ…!!」
起き上がる気力も無いのか、幸村はまだぐったりとしたまま恨めしげに佐助を見上げてくる。
「って言われても元はと言えば旦那が始めた事だし。やり返しちゃいけないなんて不条理なこと言わないよねー?」
にっこりと笑って問いかければ、幸村は「うぅっ」などと往生際の悪いうめき声を上げつつ佐助からずりずりと離れようとしている。
どうやらせめてもの抵抗らしい。
そんな主の行動の意図を本人よりも早くに理解した佐助は、己の下から這い出る幸村をじぃ…と見つめた。
そしてちょうど体が全部這い出る頃合い。幸村の足が手頃な位置にくるのを見計らって、しゅばっと手を伸ばした。
「ひっ…!」
「往生際悪いねー。俺様が寛大なうちに自分の非を認めちゃえば良かったのにねー」
そう言いながらまたもにっこりを笑った佐助は、手をわきわきと動かしつつ、それを幸村の足の裏へ。
「ひっぎゃ――――――っははははっははーははははっ!」
気持ち良いくらいの大音声で幸村はまたも複雑な笑い声をあげた。
今度はまだ体の自由が利くため、早々に佐助を蹴とばして逃げ出そうとしたようが、やはり佐助も忍隊の長。軽く体を捻っただけで、あっという間に抑え込んでしまった。
幸村はもう擽り攻めにのた打ち回るしかない。
「すすすまぬ佐助ぇぇぇぇ!!わかったぁはははぁぁっ!!わかったからぁあひゃひゃっ!!」
「えー何が分かったの?」
「おおおお俺がっわるっ悪かっ…!!うははっぁはははっ!も、やめ…っへははははっ!」
そろそろ限界かと思った佐助は、じたばたと必死に逃げようとしていた幸村の足を放してやった。
案の定幸村はまたもぐったりと倒れ伏した。
さっきより大きく肩を上下させながら、時折掠れた声が吐息に混じる。
「…ぁか、ものっ。も…こし手加げんっ…!」
「いやぁまさかあんたがここまで擽りに弱いとは…」
板張りの床に伏したまま起き上がろうとしない幸村の頭をぽんぽんと軽く撫でると、疲れたように目を閉じた幸村が体の力を抜いていくのが分かった。
「ちょっと、ここで寝ないでよ」
「…お前の、せいで疲れたのだ」
「うわぁ理不尽」
不遜な物言いにもう一度擽ってやろうか、なんて考えが頭を過ぎったものの、未だ息の整わない幸村の疲労困憊した様子を見ればその気持ちもしぼんでゆく。
「寝るなら屋敷に戻んなさいよ」
「少ししたら戻る」
「それまでは?」
「ここで寝る」
きっぱりと言い切られた言葉に反論を封じられ、佐助はそっと溜息をついた。
「布団も枕も置いてませんけど」
「そこまで本格的に寝る気はない」
「風邪ひかない?」
「お前が傍にいればいい」
「……。」
幸村の言った言葉の真意を測りかねて、思わず沈黙を返してしまったが、幸村は特におかしな様子はなく寝やすい体勢を取ろうと、もそもそと板張りの上を転がっている。
「…八つ刻に起こせ」
収まりの良い体勢を見つけたのか、幸村は左腕を枕にして佐助に背を向け、そんな一言とともに完全に寝る態勢に入った。
利き腕である右を下にしないところは武人らしいと言えるが、非番の部下の部屋に押しかけ無理難題を押し付け、その上そのまま寝入ってしまう主というのものは一体何なのだ。
幸村がこの部屋に来てからの行いを一から順に思い返していけば、かなり理不尽なことをされている自覚はある。
しかしだ。
何故か佐助は手近な衣を引っ張ってきて幸村に掛けてやり、棚の中から洗ったばっかりの装束を引っ張りだしてきてそれを布で包み、即席の枕にすると幸村の頭の下に突っ込んだ。
そして自身は幸村の背に触れる位置、決して凭れかかったりはしない位置へ腰をおろし、片膝をついてぼんやり宙を見上げた。
「何やってんだか」
自分の行動に自分で突っ込みを入れつつ、背に感じる体温を意識すればそんな疑問も溶けて消えてゆく。
火の勢いで押しかけて来たついさっきとは打って変わり、穏やかな寝息を立てて寝入る幸村を思えば今のこの状態も悪くはないと思ってしまう。
幸村の行動は紛うこと無き甘えであると思うけれど、戦明けの休日には嬉しい穏やかさだった。
八つ刻に幸村を起こした後は、雫屋の新作草餅を用意すると決めて、今はだた背に感じる体温を受けつつ静かに座す。
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なんやかんやと難しいことを言いつつ、幸村はお休みの佐助に理由を付けて会いにきただけです。
じゃれてる二人は可愛いと思います。