しんしんと降り続けた雪は、日中にも関らず溶けずに形を留め、ここら一体を白一色に染め上げてしまった。
葉を落とした木々の茶も、黒々と光る岩も、全て真っ白。
馴染んだ様相は全て雪の下に隠されてしまっているため、凹凸の乏しいのっぺりとした空間のように見える。
幸村はそんな面白みの無い色合いの庭を一望し、足元へ視線を移せば濡れ縁の縁の部分まで雪が被さってきていた。
地面との高低差はそれなりにあったはずが、今では続きの間のようだ。
ふんわりの誰の跡も残していないその白雪がどうにも心地よさそうで、誘惑に任せて一歩足を踏み出す。
「ぬぉあっ」
案の定、…というよりは予想以上に足がめり込み、幸村は思いっきり雪の中へ突っ込んでしまった。
均一に積もっていた雪の中に、酷く不恰好な人型が残る。しかも顔面から勢い良く突っ込んだため、顔の部分だけは酷くくっきりと跡が残っている。魚拓ならぬ人拓のようではっきり言って不気味だ。
「………。」
不気味ながらもあまりに綺麗に残っているので誰かに見せてみたいという気持ちと、そんな子どもじみた真似をこの年になってやっていいものかという二つの気持ちが葛藤を生む。
とりあえず幸村は雪の中に蹲ったまま暫し黙考した。
しかし思い悩んでいる間に、未だ空からはらはらと舞い散る風花が徐々に凹凸を消し始めている。
これでは見せる云々の前に対象物が消えてしまう。
仕方なく幸村は片手で雪にくっきりと残っている自分の顔の部分をぺしぺしと叩き、更には両脇の雪を被せて消しに掛かった。
一体一人で何をやっているのか。
ただちょっと雪に足を突っ込んでみるだけのつもりが、気付けば立派な雪遊びのようになってしまっている。この状態をあの口達者な忍に見つかれば、どんな風にからかわれるか。
次々に思い浮かぶ何通りものからかい文句に、幸村は思わず顔を顰めるも、次の瞬間にはそれは無いとすっぱりその可能性を切り捨てた。
なにせ、今あの男は任務のためこの屋敷にはいない。
出掛けにいやに明るい声で「ちょっくら西で厄介な戦が起きそうなんで様子見にいってきまーす」なんて言い残し、それから今日でちょうど10日。
こんな寒さの厳しい時期に起きる戦なんていうものは、よっぽど切羽詰っていたのだろうと予想はつくが、確かなことを知るには帰りを待って報告を受けるしかない。
何にせよ、今あの男はいないのだ。
そこで一旦思考を切り、幸村はそっとため息を吐く。薄く吐いた細い息だったというのに、ぷかりと白く曇った吐息は今この場の気温がどれだけ低いかを物語っている。そろそろ部屋に戻らなければいけない。
時間を計るために空を見上げれば、灰色の雲の覆われた空が視界いっぱいに映った。
こんな雪雲に覆われた空では太陽の位置が読めないが、その雲の合間から僅かに漏れている赤みを帯びた光が大まかな時間を伝えてくれる。
もうすぐ日が暮れるのだ。
このまま日が落ちれば、今積もっている雪の上に更に分厚く積もるのだろう。そして今ここある、幸村が作った窪みもなだらかに消されてゆくはずだ。
「さて」
区切りをつける意味も込めてわざと声に出し、そのまま勢い良く立ち上がった。
衣についていた細かい雪がぱらぱら零れ落ち、頭からもいくつか雪が散った。知らぬ間に頭にも積もらせていたらしい。
それを手で無造作に払いのけつつ濡れ縁へと片足を掛け、地面に着いている方の足へ力を込めた。
一応予定では、このあと両足共に濡れ縁の上に乗っているはずだったのだ。
しかし現実は予想外の事態へ転がった。
まず蹴ったはずの地面がいきなりめり込んだ。座り込んだ状態で固めた雪面だったため、片足分の面積では体重を支え切れなかったらしい。
そのお陰で上手く地面を蹴れず、申し訳程度に着いた勢いは上体をぐらつかせる役割を果たし、それでも鍛えぬいた体幹を駆使して何とか踏ん張って。
結局はめり込んだ片足が中途半端に固まった雪面に引っ掛かり、またも盛大に雪へ突っ込む羽目になった。
しかも背中から。
「…不甲斐無いっ」
あまりの不甲斐無さに思わず口に出せば、ぱらりと降ってきた雪が口へと入った。それすら今は不甲斐無い。
何とも言えないもどかしさがこみ上げ、同時に何故か笑いの衝動もこみ上げてくる。
もう、本当に一人で何をやっているのか。
衝動に任せてくつくつと笑い声を洩らしながら片方の手で目を覆って、そのまま体から力を抜いてゆく。
見た目の通り雪はとても柔らかく、すっぽりと体を受け止めてくれた。そしてまた、酷く冷たい。体の熱を確実に吸い取りながら、その身を水へと変えてゆく。衣へ少しずつ沁み込んでくるその水分がまた体を冷やす。
凍えそうだ。
戯れのような思いを胸に、幸村はそのままじっと目を閉じていた。
そこへやけに耳に馴染む声が響いた。
「雪遊びですか」
遠くから問いかけられたのかと思い、顔の上の手をどけて目を開けば、視界に映ったのは曇り空ではなく灰色を纏った人の姿だった。
常なら長めの前髪が隠している目元が、今は幸村が見上げる位置にいるため良く見える。鋭い目つきの中に、二つの黒々とした目がひたとこちらを見つめていた。
「才蔵」
こんな近くにいつの間に。そんな思いを込めて幸村が名を呼べば、才蔵はほんの僅かに口元を緩めて「はい」と答えた。
そこではっと気付く。
今回の佐助の任務には、才蔵も同行していたのだ、と。
「良く戻った!」
条件反射でそう告げて、勢いをつけてがばりと起き上がる。
そして才蔵のほうへ向き直ると、もう一度その姿を上から下まで眺めた。
「?」
問いかけの意味なのか、不思議そうに目を見開いた才蔵に答えを返さず、幸村はそのままぐるりと目を動かした。
いつもの鴉のように真っ黒な装束は雪にあわせたのか、くすんだ灰色の物を身につけている。頭はさっきまで頭巾で覆っていたのか、耳の辺りに不自然な癖がついていて僅かに跳ねていた。
そこここに旅の痕跡を見つけることができるが、何処にも怪我の跡は見当たらない。衣服のほつれは見つけられても、切り裂かれた跡は無い。髪の癖を見つけても、血の跡は見つけられない。
それに安堵して、もう一度「良く戻った」と口にした。
幸村の対面に膝を着いていた才蔵はそれに頷いて答え、苦笑のような表情を浮かべながら周囲へ目を走らせた。
その目の動きに幸村も釣られ、同じように周囲を見渡す。
そして、今回の任務へ出ていたであろう忍たちがずらりと並んでいる様を目に収め、ぱっと顔を輝かせた。
「おお、皆戻ったのか!」
佐助が何人隊から連れて行ったのかは聞いていないが、この人数であれば殆ど揃っているのだろう。
そう当たりをつけて、主らしく声を張る。
「湯を用意させてある。皆で使うと良い」
ちゃんと体を温めろ。そう続ければ、微妙な表情をした才蔵が口を開いた。
「我らの前に、主殿でしょう。…またそのような薄着で」
「まだ庭へ降りてそう時間は経っておらん。…問題ない」
「しかし雪の中にずいぶんのんびりと埋もれていらっしゃったように見えましたが」
「ちょっと足が滑ってな」
「………。」
才蔵はなおもじーっと何か言いたげに見つめてくるものの、幸村はそれを不敵に笑って弾き飛ばし、もう一度言った。
「とりあえずお前達は湯を使ってこい」
「……御意」
多少の小言は言えるものの、結局才蔵は幸村には逆らえないのだ。
しぶしぶといった態度を隠しもしない才蔵は、二三言周囲へ指示を出し忍達を湯殿の方へ向かわせた。そして何故か本人は幸村の元に留まった。
まだ何か小言を言うつもりか、と身構えた幸村だったが、才蔵の表情からそれは違うと知れる。
そして、何を言われるのか何となく悟った。
「佐助か」
一瞬嫌な予感が過ぎった。
本来なら誰よりも早く姿を見せているはずなのに。
いつもなら当たり前のように浮かぶ疑問を、半ば無意識で避けていた。
知らず知らず、幸村の喉が不自然にごくりと鳴る。
そんな幸村の固い表情に、才蔵は慌てて「ぴんぴんしてます」と答えた。そして更に言葉を続け、姿を見せない理由を口にする。
「佐助は川で身を清めてから戻るそうです」
「この真冬の凍りそうな川でか」
「はい」
「血でも浴びたか」
「戦ですから」
「お前達だけ先に帰して?」
「はい」
「…わかった」
幸村は短いやり取りをそう言って終わらせると、部屋に濡れた足のまま上がりこみ、刀を掴んでもう一度外へ出た。
そして素足に草履を引っ掛け、雪の中を突っ切ってゆく。
「…どちらに行かれるので?」
「あの馬鹿を迎えにだ」
「お供は」
「いらぬ」
短く答え、幸村は腰へと指した刀を示す。才蔵ならこの仕草だけで「これで十分だ」という意味を受け取ってくれる。
「ではせめて上着を」
「いらぬ」
「いえ、一枚だけでもかまいませんので」
才蔵がここまで言い張るのは珍しい、そう思って幸村が振り返れば、才蔵が幸村の肩に羽織を掛けるところだった。
特に値の張る生地でもないが、幸村が好んで身につけている部屋着の一つだ。決して厚いとは言えない布ではあるが、それでも布一枚で随分違う。
ゆっくりと体温を留めてゆく上着を素直に感謝し、才蔵へ「あまり心配するな」と告げる。
しかし言葉だけでは不十分かと思い、幸村は息を詰めると拳を握って勢い良く前へ突き出した。
その瞬間、厚く積もっていた雪がじゅっと音を立てた。そして音がした部分から、もうもうと蒸気が浮かび上がってゆく。
流石に積もっている全ての雪を気化してしまえば、水蒸気爆発なんていう恐ろしい現象が起きるため、湯気になったのは表面の部分だけだ。しかし、一瞬ぬらりと這った炎は雪を水へと変えるには十分な熱量だったらしい。
さっきまで目の前に広がっていた白一色の景色は、幸村の前方のみ雪が溶け切り本来の姿を現していた。
「なっ…?!」
才蔵は言葉にならない声を一言発し、常ならば表情の乏しい顔にめいいっぱい驚愕の表情を貼り付け、ぽかんと口を開いている。
そしてそのままからくり仕掛けのように首を動かし、幸村へ視線を合わせた。目が「何やってるんですかあなたは?!」と物語っている。
それを口に出される前に、幸村は先に口を開いた。
「これで分かったろう、才蔵」
そのままにやりと不敵に笑んで先を続ける。
「俺に寒さの心配など、無用だと」
才蔵に教えられた通り、山際の奥まったところを流れている川に佐助は居た。
幸村が近づけば、気配に敏い佐助のことだから寄ってくるだろうと予想していたのに、それに反して佐助は未だに川の中だった。一体どれだけあの場所に留まっているのか分からないが、たとえ短時間だろうと冷水に身を浸していれば体が動かなくなるはずだ。
せめて川べりから水だけ汲み上げて濯げばいいというのに、川の中心部に膝を着いて作業を行っている。
普段から気温に関して煩いほど文句が多いと言うのに、正気の沙汰とは思えない。
「佐助!」
見ているだけで凍えそうなその行動を中断させる意図も含め、鋭く名を呼べば佐助は直ぐに幸村のほうへ顔を上げた。
表情を確認できる程に近づいていたというのに、本気で幸村に気付いていなかったのか、佐助にしては珍しく驚いた表情を浮かべている。
「旦那、なにしてんの?」
「…お前が遅いから迎えに来たのだ」
間抜けな問いかけに幸村が律儀に返すと、佐助は立ち上がりつつ濡れて顔に掛かった髪を煩わしげにかき上げて水気を払った。
が、毛先のほうは凍りついていたらしく、指が髪に引っ掛かったようで途中顔を顰めて「痛て」なんて呟いている。行動がいちいちいつもの佐助らしくなくて、幸村は分厚く積もった雪も構わず蹴り進んだ。
近づいて何かをしようというわけではないが、見える位置で会話をしているのに、こんな風に距離を開けているのはどうにも落ち着かない。
「あ、旦那ちょっと待った。雪で隠れて見えねぇかもしんないけど、その辺から川になってる」
だから止まれと言いたいらしいが、幸村に止まるつもりはない。
「雪も川もそう変わるまい」
「いや、変わるでしょ」
佐助が冷静にそんなことを言ったが、幸村は意に介さずそのまま川の中へと歩を進めた。
片方の足を体重に任せ踏み込むと、ばしゃんという音と共に派手な飛沫が飛び散る。流石に雪のせいで深さが見えにくくなっており、水の中に足を入れた瞬間予想以上に水が上のほうまできた。
佐助の居る位置よりは浅いが、それでも膝下くらいまではある。
「深いな」
「あーもう、だから言ったのに。もーちょっと待っててくれりゃあ俺がそっち行ったのに何で来ちゃうかな」
「お前が遅いのが悪い」
「はいはい、分かったからもう上がって下さいよ。無事な方の足まで濡らすことは無いでしょ」
「……。」
言われた言葉はいつもの戯言めいた小言には違いなかった。
しかし、違う。
いつもの佐助がこの場で言うであろう言葉とは、明らかに違う。
それがどうにももどかしく、幸村はもう片方の足も水の中へ踏み入れた。
「ちょっと旦那?」
非難の意味を込めて呼ばれた名前を黙殺し、幸村は飛沫を上げながら川を進んでゆく。裾が濡れるのは気に留めなかったが、やはり武人の性なのか刀が濡れるのはどうにも嫌で、柄を押さえて鞘を水面から放す。
そして丸い石が歩みを邪魔する川底へと意識を戻せば、段々足の感覚が鈍くなっているのが分かった。
据わりの良い地面を探る足先がその役割を果たさなくなってきている。
幸村が感じた佐助へのもどかしさは、これだった。
「寒い」
足を水につけた瞬間、足の先から脳天を突く様な衝撃が走り、一瞬の内に冷気が体中を駆け巡った。
両足を浸けて川の中足を進める際も、足を動かすたびにぞくりと寒さが背筋を這う。
それなのに、どうだ。
佐助はさっきから一度も温度に関する言葉を口にしない。
水は凍りそうなほど冷たいのに、佐助は「冷たい」とは口にしない。
雪の舞う日没直前の空気は肌を引き裂くような寒さなのに、佐助は「寒い」とは口にしない。
幸村がこんな薄着で外を出歩いているのに、どうして一度も「風邪をひく」といわない?
川に入った時だって濡れる心配はしても、濡れるとどうなるかなんて何も言わなかった。
いつもはあれだけ寒い寒いと煩いのに、今はこんなにも無関心だ。まるで体温という概念ごと、どこかに落としてきてしまったかのように。
それが酷くもどかしい。
熱いのも寒いのも、命に危険が及ぶような温度でさえも、佐助が平然としていられることは知っている。
必要とあらばどんなことだって我慢できることも知っている。
けれど、今はそんな必要なんて無いのに。
「…馬鹿者」
堪えきれない何かが胸の内に溢れ、幸村は噛み締めるように口の中で呟いた。
そして感覚の消え始めた足を動かし、歩を進める。
今回の任務で、何があったかはまだ知らない。身を清めなければならないほど何かを身に浴びたのならそれでも良い。
けれど、こんな風に一人で、自分がどこかおかしいことも気付かずにいられることが幸村には堪らないのだ。
「佐助」
名前を呼びながら、幸村は佐助のほうへ手を伸ばした。手の先にはもう触れられるほど近くに佐助がいる。
血の気は完全に引いていて、顔色は青いを通り越して透けるように白くなってしまっている。
微かに上下する肩が呼吸の存在を教えてくれはするけれど、吐く息は決して曇りはしない。
それが、佐助がどれだけ冷え切っているかを知らせてくれる。
「なぁ、佐助」
もう一度呼びかけて、幸村は佐助の頬へ手を添えた。刀を支えていた方の手も伸ばして、顔の両側から包み込むように触れる。
やはり、触れた頬は氷のように冷たかった。
幸村が佐助の体温を冷たいと感じるという事は、向こうにとってはこの体温を温かいという事。それをちゃんと佐助が認識しているかは知らないが、幸村の熱が徐々に移っているのは事実だ。
だから冷えた部分を求めて、頬からゆっくり手を滑らせて体温を移していった。片手はこめかみの髪をかき上げるように。もう片方の手は耳の後ろへ指を差し込むように。そしてどちらの手もそっと撫ぜるように滑らせた。
すると佐助がくつりと喉を鳴らし、楽しげに口を開いた。
「旦那、くすぐったい」
「…他に感想は?」
幸村が求めている言葉とは、ここまできても違う。
少し憮然としてそう返すと佐助が今度は「近い」と言った。
意味が分からず眉根を寄せれば、佐助は苦笑しながら手を動かし、首元に添えられていた幸村の手を取った。苦笑の意味も良く分からないが、触れた手のあまりの冷たさに思わず息を呑む。
どうしてこんな体温で普通に動けているのか、不思議でならない。普通なら手の感覚が麻痺して、上手く動かせないはずなのに。
それに驚いて口を噤んでいれば、佐助が苦笑しながら口を開いた。
「あんた俺が言った意味が分からなかったってことは、一体なんの為に触ったの?」
「え?」
「いやぁ頬とか髪とかをこう、実に意味深な手つきで触ってくるから一体何なのかと…」
「いや、意味も何も、」
お前を温めようと。
そう幸村が口にした瞬間、佐助はとても言葉では表せないような顔をした。
眉なんか左右別の動きをしたし、目は笑ってるのか怒ってるのかよく分からない形になった。
口はとても不味い物でも口にしたような形になりかけて途中で動きを変えたし、とりあえずとても変な顔だったのだ。
「佐助?」
「いや、うん。流石旦那だよ…もう俺様びっくり」
「は?」
「何でもないです。ただの俺様の悲しい勘違い?…みたいな」
「ん?」
「いーのいーの。それより温めようとしてくれたわけでしょ」
「うむ」
「あれだけじゃ足りなくてさ」
「うむ?」
「だからもっと温めてくんない?」
「うむ」
何だか佐助がいつもの調子に戻ってきた気がして、幸村は佐助が言っている言葉の意味がよく分からなくても返事をしてしまう。
そんな風に何となく勢いで返事を返してしまったことを、幸村がふと自覚した瞬間、いきなりその冷気は来た。
ぺたりと張り付く感じの濡れた感触と、氷柱に抱きついたような心地の極寒の冷気。
それがぎゅうと幸村にしがみ付いてきている。
「冷たっ!!」
思わず幸村がそう叫ぶと、そのしがみ付いてる冷気の元はくつくつと体を震わせて笑い始めた。
幸村の方は笑い事では無い。
「このっ…佐助!冷たいぞ!」
「えー?温めてくれるって言ったじゃないの」
「言ったのは確かだがもう少しやり方を考えろ!衣が濡れて気持ち悪い!」
「川まで入っちまったんだから変わらないでしょ。ほらほらー温めてー」
「……っ!」
こんな状態になってしまっては、佐助がのらりくらりと幸村の言う事をかわして、結局は言いくるめられてしまうことは目に見えている。何となく結果が読めてしまった幸村は、賢明にも口を噤み、実力行使に出ることにした。
正面からぎゅうとしがみ付いてくるその体をよいせと持ち上げ、肩の上に米俵のように担ぎ上げたのだ。
「ふぇっ?!」
佐助が幸村の頭上でそんな間抜けな声を上げた気がしたが、この際無視だ。そのままずんずん川を横切り、雪に覆われた川辺へ向かってゆく。
その最中もちろん佐助は「下ろして」だとか「腹がちょうど肩に当たって苦しい」だとか「ちょっと俺様荷物じゃないだからさ」だとか「何だかこれ、俺様めちゃくちゃかっこ悪くない?」などと不平不満をそれはもうたくさん口にしたが、その全てを幸村は黙殺し、川辺に着くまでは一言も口を利かなかった。
しかし雪の上で佐助を下ろした後、まだ煩く文句を言おうとしていた佐助と目を合わせ、幸村は一言こう言い放った。
「佐助、よく戻った」
本来なら、出会いがしらに一番に口にしたい言葉だった。
それなのに佐助が変な態度で幸村の調子を崩すから、こんな今思いだしたような態度で言わなければいけなくなったのだ。多少頃合いを計り間違えても、その辺りは目をつむって欲しい。
そしてその言葉を言われた佐助の方は、予想外の言葉だったらしく一呼吸分呆けたように沈黙した。僅かに目を見張って、寒さに凍えた思考で掛けられた言葉を噛み砕いているらしい。
しかしその沈黙も一瞬のことで、すぐに我に返ったように表情を改めると、困ったような笑みを浮かべながら、一つ小さく答えを返した。
「ただいま」
返事と言うには声量の足りない言葉ではあったけれど、佐助が困ったように浮かべた表情が、嬉しいのか悲しいのか、感情をかけ間違えたような複雑なもので、それがあまりにも佐助らしくて、幸村は思わず笑ってしまった。
初めからこうやって素直に答えを返していればいいものを、なんてそんな風に思ったけれど、それを口にした瞬間この口達者なこの忍から何十倍にもなって文句が返ってきそうな気がして、結局は何も言えなかった。
けれどほんの少しだけ、いつもの小煩い小言を聞きたいなんて思ったのは、佐助には決して言えない秘密だ。
ひらりひらりと前を行く主の背で髪が踊っている。
雪の白に閉ざされた景色の中、迷いなく足を進める幸村の姿は酷く際立って視界を彩っていた。夜の帳の下り始めた薄闇の中だというのに、そこだけ光が残っているかのように見える。
その姿を包む衣は薄い布地の部屋着一枚だけで、こんな寒い中にどうしてそんな薄着で出てきたのか、甚だ疑問だ。
しかし、その身を僅かに温めていたであろう一枚の羽織は、今は佐助の肩に掛けられている。これは「多少水気は含んでいても、全身ずぶ濡れのお前よりマシだ」というありがたい言葉と一緒に幸村から被せられたものだ。
遠慮したくとも幸村を濡れ鼠に巻き込んだのは佐助自身のため、どうにも強く出られない。
仕方なく借り受けたものの、前を行く幸村の姿が明らかに寒そうで目に痛い。
それでもつい目がその姿を追ってしまうのは、周囲の景色が白一色で、幸村の姿以外に見るものが無いからだとでも言い訳しておきたい。
「さーむー」
そこでほぼ無意識の内に、口にし慣れた単語をつい口走ってしまった。
しかし言ってから、この状況でこれほど馬鹿な言葉は無いと自分で思う。
案の定それを耳にした幸村が、背を向けたまま「自業自得だ馬鹿者」なんて答えを返してくれた。
それに関して反論なんて全く出てこない。
なんて言ったってこんな真冬の、しかも雪がちらつく空気の中、馬鹿みたいに川へ入って全身を水に浸してしまっていたのは佐助自身なのだから。
初めは体を汚した返り血を大まかにでも流せればと思って川に入ったはずだったのに、どうしてか思ったより長い時間をあの凍えそうな水の中で過ごしてしまっていたらしい。きっと思考も一緒に凍り付いてしまったのだ、何て戯言として片付けてしまったけれど、主にあれだけ心配を掛けてしまったのはいけなかった。
まさか川にまで踏み込んでくるとは。
今思い返してみれば、どうして川に入ってくる前にしっかり止めなかったのかと少し前の自分を絞めてやりたい気分でいっぱいだが、今後悔したって遅いことこの上ない。
その上佐助は幸村に思いっきり抱きついた。
ずぶ濡れのままで。
「………。」
自分の取った愚行を思い返し、佐助は頭を抱えたくなった。
しかも思い返せば思い返すほど次々出てくる。
例えば、幸村は触れてきたあの手の感触。
未だに残る、頬や首を辿っていった温かな熱が、芯まで凍えきった佐助のこの体を動かしてくれている。そして今、前を行く背を追いかけることで、足が勝手にそっちへ向かうのだ。
ひらりひらりと佐助の前で気ままに跳ねている主の髪が、迷いなく進められる確かな足取りに揺られ、時たま佐助のほうへゆらりと流れる。
それに咄嗟に手を伸ばしてしまいそうになって、自分の意思で動きにくくなってきたその手を抑えるのが酷く億劫だ。
鈍い主のことだから、跳ねるその髪に指を絡めるくらいやっても気付かないかもしれない。
…というか気付かないだろう。
佐助の胸の内に生まれたそんな結論は、とても素直に思考を行動へと直結させた。
姿勢良く前を歩くその背を見据え、ひらりひらりと踊る髪へ手を伸ばす。
どうにもさっきから動きにくい手は、緩慢な動きで少しずつ前へと伸びていった。そして動きを止めたのは髪が指先を掠めるか掠めないかという、そんな曖昧な位置。
この距離がもどかしい。
たまに指先を掠めるような気配があっても、寒さに麻痺した指では感触など分からない。もう少し手を前に伸ばしてみても、感触なんて全く分からなかった。
ただ、目で距離が何となく測れる程度だ。
けれど今は、確かに触れている。
佐助の白く血の気の引いた指の合間に、さらりと茶色い髪が絡んでいる。
それが見えているのに、感触が分からない。
こんなことならもっと早くに水から上がっておくのだったと、そう独り言ちた瞬間、指に絡んでいた髪が勢い良くするりと抜けていった。
慌てて前を向けば、幸村が振り返って佐助を見ている。
「………あ、」
何か言わなければ、と焦って口を開くが言葉が出てこない。
頭の中では「手の感覚が無くなった状態で何馬鹿なことしてんの俺?!」だとか「こんな手じゃ力加減できなくてばれるに決まってるじゃねーか!」という言い訳というより、幸村が振り向いた原因のようなものがぐるぐると回っていた。
こういうのを混乱というのだ。
いつもはこういった時に冷静な態度で誤魔化すくらいは出来るのに、まともな思考も寒さで鈍ってしまったようだ。
何かを口にしたくとも、沈黙以外の行動が取れない。
そんな風に佐助が固まっていると、幸村が動いた。
何をするかと思えば、つい今まで佐助が髪へ絡めていた手を取り、がっちりと握り締めるとそのままぐいぐい手を引きながら前へと歩き出してしまった。
そして佐助に背を向けたままの状態で、幸村の落ち着いた声が響く。
「髪などより、こっちの方が余程良い」
そう言って手に込められた馬鹿力に、いつもなら出てくる「痛い」なんていう軽口が出てこなかった。
ただ、触れた部分から徐々に移ってくる幸村の熱を閉じ込めるように、その手を握り返すのでいっぱいいっぱいで、何を言っていいのか分らない。
さっきからもう、調子が狂いっぱなしだ。
一応僅かなりとも残った冷静な思考が、今の状態がどれだけ格好悪いかを主張してくる。
何せ一人中々帰ってこない忍隊の長を、主自ら迎え行き、帰ってきたと思えばお手手繋いで帰還というのだから。
これはもう格好のからかいの的だ。隊の者に見られれば、どんな風にからかわれるか想像に難くない。
けれど、それでもこの手を放すのは惜しいと思ってしまう。
そんな忍にあるまじきありふれた欲ですら、今はひたすら心地良く感じるのだから、これはもう完全におかしい。
おかしいと感じているのに、どうすれば良いのかが分からない。
「何したいんだか、もう」
普段の自分ならどういう行動をとるのかすら今は思い浮かばなくて、それならばと半ば開き直った思考が浮かび上がってくる。
髪に絡めるくらいなら手に、と言われた。では、その背に飛びついたら一体どうなるのだろう。
こんな馬鹿みたいな言い訳を、今はくだらないと切り捨てることが出来ない。
その衝動の全てを、寒さのせいだ、なんて自分に言い聞かせて、佐助は惹かれるままに主の背に向かって大きく一歩踏み出した。
もっと触れたいなんていう、欲なんて知らない。
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曼珠沙華の双葉さまへの捧げもの。
貰って頂き感謝です!