肌を刺すような冬の寒さも幾分か和らぎ始めた三月初め。
桃の節句の祝いという名目で始まった酒宴は、姫という主役を欠いた今でも終わる様子が無い。
あれだけ酒の回った大人たちの中に戻る気はさらさら無く、早々に部屋へと引き上げてしまった。
静まり返った部屋を、さっきの賑やかな雰囲気と比べて寂しく感じるかと思ったが、誰かの手によって生けられた桃の一枝に思わず心が温まる。
ふんわりと甘く漂う桃の香をゆっくりと吸い込み、ほうと息を吐いてみたが、もう吐息は白く曇らなかった。
春の訪れめいたものを感じて口元を綻ばせれば、遠くから何か声のようなものが聞こえた。
酷く不鮮明なそれは音として捉えることすら出来ないほど頼りなく、耳を澄ませど上手くゆかない。
それでも何故か、声だと分かった。
しかもとても近しい者のものだと。
理由を探しても明瞭な答えなど返すことは出来ないが、あえて例えるならば、血の繋がりの為せる不思議な絆とでも言うのだろうか。
そんな不確かなものが、この音の主を伝えてくれる。
「弁丸が泣いているわ」
誰もいないはずの部屋で、聞かせる相手の無い声を紡ぐ。
問いかけの相手は己。
ただ漠然と胸に落ちた思いを声にした。
それによって、思いは確信へと変わってゆく。
空気を僅かに振るわせながら届く、頼りない泣き声。
どうして泣いているの?
悲しいことがあったの?
苦しいの?
寂しいの?
次々と湧き上がってくる疑問と不安を胸に、手は自然とそれへと伸びた。
柔らかく光を照り返す表面と、すべらかな手触り。
長く愛用したことにより独特の風合いの滲む暗色の美しい、一つの竜笛。
慣れた所作でそれを構え、一つ深く息を吸い込む。そして、そっと音を奏で始めた。
もともと楽を好むような雅な性格をしているわけではないが、これは別だ。
父の真似事で始めた戯れごとではあったけれど、澄んだ音色といい見た目の軽さといい、竜笛はしっくりとこの手に馴染んだ。
それに見た目の良さに反し、奏でることが意外と体力を必要とすることも気に入っている。
初めてまともに練習したときは目を回した。
そして何より、自分では上手いなどと思ったことも無いこの音色を、あの可愛い弟達が気に入っているのだ。
師事したこともなく、ただの見よう見まねの音遊びだというのに、にこにこと笑って「綺麗な音色です」なんて言われてしまっては止めることなど出来るわけが無い。
だから今も、思いを込めて息を吹き込む。
高く澄んだ笛の音であれば、遠く離れた場所でも届くだろう。

どうか泣かないで

慰めの言葉の代わりに、笛を奏でる。
聡い子だからすぐに気付くだろう。
そして少しでもその涙が止まれば良い。
心に安寧が訪れればいい。
悲しみが和らげばいい。

願いを込めて、音を響かせる。










































事の起こりは何だったか。
理由はもうこの際どうでも良いが、とにかく佐助が弁丸の部屋を訪れたのが始まりだった気がする。
佐助が来たことにも気付かず、一心不乱に何をしているのかと思えば、その小さな手には紙細工が握られていた。
多少不格好ながらも完成したそれは、どうにもひな人形のように思えた。
だから声をかけたのだ。「ああ、それ姉姫様のために作ったの?良く出来てるねぇ」と。
佐助はてっきり桃の節句のお祝いに、いつも仲の良い姉のためにひな人形を紙で作ったのかと思ったのだ。
けれどどうやらそれは間違いだったらしく、佐助が声をかけた瞬間弁丸は一瞬硬直し、次の瞬間泣き出してしまった。
しかも、いつもは火がついたかのように激しく声を上げて泣くのに、今は佐助にしがみついて声を押し殺して泣いているのだ。余計に困惑する。
だから何か失言があったのだろうかと謝罪を口にしようと思ったが、なぜか弁丸の口からは嗚咽と一緒に「ごめんなさいぃぃぃ」という謝罪の言葉が漏れ出てくる。
何故佐助が涙ながらの謝罪を受けなければいけないのだろうか。
初めから考えなおしても、答えは一向に出ない。
とりあえず分かることといえば、弁丸は何か悪いことをしたと思っているということと、佐助がその悪いことをしている現場に居合わせてしまったであろうこと。
しかし、その肝心の“悪いこと”というのに見当がつかない。
部屋を見回しても、不格好な雛人形が畳に鎮座しているくらいだ。
「ちょっと弁丸様ぁ?どうしちゃったの…、泣いてちゃ分かんないよ?」
「ごめんなさいぃぃぃ」
「や、だからね…」
さっきからこれの繰り返しだ。
理由を聞こうとしても、嗚咽と謝罪しか返ってこないのだから、どうしようもない。
泣き止むのを待とうかとも思ったが、こんなに悲痛な声を押し殺して泣かれては酷く心苦しい。
「弁丸様ぁ…」
むしろ泣きたいのはこっちだ。くらいの気持ちで苦し紛れに名前を呼んでみたものの、やはりこんな問答を繰り返していても埒が明かない。
…と思ったのだが。
「あれ?」
押し殺された鳴き声が僅かに弱まり、それと同時に何か音が聞こえた。
その音を探ろうと耳を澄ませば、弁丸も同じことを考えたようで泣き声がぴたりと止んだ。
そして聞こえたのは、高く澄んだ笛の音。
「あねうえ…」
その音色の主が誰か気付いたのは、弁丸が先だった。
音として捉えたのは佐助が先だとしても、やはり姉弟の絆なのだろうか、この認識の早さには舌を巻く。
まだしゃっくりは上げているものの、涙を流すことを止めた弁丸は音色に誘われるように部屋を飛び出した。
当然佐助も後を追う。
ぱたぱたと音を立てて走ってゆく小さな背中をぴったりと追いかけ、転ばないように、ぶつからないようにと周囲に目を走らせる。その最中、上下左右更には前後。そりゃあもう鬱陶しいほどの視線がぶすぶすと佐助へ容赦なく突き刺さってきた。
間違いなく忍隊からのものだ。
要訳しなくとも分かり過ぎるほど分かるだろうが、ここはあえて訳させて貰う。
『訳:弁丸様泣かせてんじゃねえよ』
遠慮なく殺気が込められたその視線は、恐ろしいとか言う前にまず鬱陶しい。
今佐助には周囲の視線云々よりも、弁丸があんなに悲しげに泣いた理由を確かめなければいけないことと、一心不乱に走ってゆく弁丸の道行きの安全の方が大切なのだ。ほかに構っている余裕はない。
そうやって余計な思考を閉め出すと、刺すような視線の数々を「邪魔」とばかりに手で振り払い、ぱたぱたと先をゆく主へ集中する。
こんな時間に部屋を抜け出したりすれば小言の一つや二つは頂戴するかもしれないが、幸い桃の節句の祝いと称した酒宴が開かれているため、この辺りに人気はない。
今日の主役であるあの姉姫も、笛の音の方向から察するにもう自室に引き上げているようだった。これなら誰かに引きとめられることもないだろう。
そう思って佐助がそのまま足を進めれば、音色はますます大きくなり、それに混じって微かに桃の香が漂ってきた。
桃の木など植わっていた記憶はないため、誰かが今日のために生けたものだろうと辺りをつければ、その香は音とともに一つの部屋から流れてきていた。
未だに冷気の木霊する外気をものともせず、大きく開け離れた障子が手招きする、優しい空間。
弁丸の姉、於国の部屋だ。
弁丸はその部屋を目にした瞬間、若干駆ける足が鈍ったが、それでも歩みを止めることはなく音に引き寄せられるように部屋へと近づいて行った。
そしてその入口に小さな手を掛け、ゆっくり中を覗き込む。
「あねうえ…」
姉を呼ぶ弁丸の小さな声は、はっきりと響いた。
笛の音が止んだからだ。
音が途切れたのを合図に、部屋の中からは柔らかい声がその呼びかけに答えた。
「来たわね、…やっぱり泣いてた」
どこか楽しそうにもとれるその声と一緒に、絹ずれの音が響く。それと同時に弁丸が再度歩を進めたということから、手招きしたのだと分かった。
次いで、ぽすりと音が聞こえた。
抱き止められたのだろう。
目にしていなくとも、その優しい光景が思い浮かんで、佐助は思わずほっと胸を撫で下ろした。これで弁丸の憂いも慰められるだろう。こうなれば姉弟水入らずの空間に忍などが踏み入って良い訳がないので、ここらで警にでも着こうかと視線をめぐらせれば、意外なところから声が掛った。
…部屋の中だ。
「佐助、何をしているの?早く入って障子を閉めて頂戴」
「え、はぁ…。はい?」
何で自分まで招き入れるんだ、と出かかった問いかけを無理やりねじ伏せ、言われた通りに部屋へ入るとそっと障子を閉めた。
そしてその場に膝を付く。
まだ幼いといえど、嫁入り前のれっきとした姫。ここが真田でなければ佐助の首は今頃胴と離れているだろう。
しかしここは真田だった。
おかしいくらい忍に気安く、警戒心が無い。その上偏見もない。
何かおかしいこと言った?とでも言うような表情で、にこにこと弁丸の姉姫は佐助の前で笑っていた。
柔和に細められた目は、慈愛に満ち溢れた表情のように見える。目元なんかは弁丸そっくり…というより父譲りの整った顔立ちをしている。
意図的に緩められた表情のせいで印象が変わっているが、平時はこれが意思の強そうな目をすることを佐助は知っている。今は優しげに微笑んでいるが、やろうと思えば不敵に口を歪めてみせることも佐助は知っている。
何はともあれ、この人はやはり真田の姫だった。
「弁丸がどうして泣いていたのか教えてくれない?」
「それが困ったことにさっぱりで」
肩をすくめて答えを返せば、姫は困ったように笑いながら腕の中の弁丸へ目を向けた。しっかりと背に回した腕にぎゅと力を入れなおして、あやすように問いかけを落とす。
「弁丸?佐助が意地悪して教えてくれないから、変わりに弁丸が教えてくれない?」
意地悪されてるのは俺の方じゃないの。思わずそんな突っ込みを入れそうになった佐助だが、ここはぐっと我慢する。こんなところで茶々を入れたら何を言われるか、考えるだけで恐ろしい。
それにしても、やはり弁丸の姉をやっているだけあって、弁丸の扱い方を心得ている。
こんな風に頼まれれば、幼いながらも責任感のある弁丸は口を開きたくなってしまうだろう。
そして思ったとおり、弁丸は伏せた顔をゆっくりと上げて、姉の視線をまっすぐに受けた。
「姉上」
「うん?」
目と目で何か通じ合ったのだろうか、短いやり取りの後、弁丸の目からすーっと涙が伝ってゆく。
佐助はそれに仰天したものの、姫は動じることなく優しげに微笑んでおり、弁丸もまた自分が泣いていることに気づいてないようだった。
そして、嗚咽に染まらぬ声がゆっくりと言葉を紡ぎ出す。
「姉上に謝らねばなりません」
「私に?」
「はい、…申し訳ありません。弁丸は最低の弟です」
「弁丸が謝りたいなら私はそれを受けるけど、まずは理由を聞きたいわ」
白く細い少女の手が、柔らかい弁丸の髪をくしゃりと撫でた。謝罪を受けるという言葉の割には、その動作には許ししか宿っていない。
その思いを無意識に悟ったのか、弁丸はぱちりと瞬き涙を瞼から溢れさせ、噛みしめるようにその理由とやらを口にした。
「今日が終わると知りながら、弁丸はひな人形を作ってしまいました」
「あら、お雛様?…見たいわ」
「違うのです!」
のんびりと響いた姫の声を、幼い声が切り裂いた。
そして怒涛のように、言葉が次から次へと溢れ出す。
「弁丸が悪いのですっ、ひな人形を仕舞い忘れれば、どうなるかを知っているのに、弁丸はっ…!」
「え…?」
「ごめんなさい、我儘を言って、ごめんなさいっ…」
一瞬理解が追い付かなかったような表情をした姫だったが、何となく理由が思い当たったようで、すぐに弁丸へ笑いかけた。
「もしかして、弁丸は“お雛様を仕舞い忘れれば、嫁き遅れる”ってことを言ってるの?」
優しく問いかけられた言葉に、泣いて顔を伏せていた弁丸の頭がこっくりと動く。
それに笑みを深めた姫は、今度は内緒話でもするような声で、もう一つ問いかけた。
「私にお嫁に行って欲しくないの…?」
その問いに対して、弁丸は抱きつく腕に力を込めることで答えを返した。
幼い手で精いっぱい姉の背に手をまわして、離さないとばかりに力を込める、酷く可愛らしい仕草。
そして極めつけの一言。

「…どこにもいかないで」

消え入りそうな声色の、幼く愛しい我儘は、狙いを外すことなく姉の心のど真ん中を貫いた。
ついでに佐助もその余波をくらった。
思わず佐助が胸を抑えて己の心臓の無事を確かめたところ、姫が今までうつむけていた顔を上げ、薄く涙の滲んだ目で佐助を睨みつけてきた。
いや、睨むというよりはただ見ているだけといった方が正しいが、その表情に込められた感情があまりにも強すぎて、睨む、なんていう姫らしからぬ表現がしっくりきてしまっているのだ。
しかし視線は弱まること無く、雄弁に感情を語り続けている。
つまり、「何なのこの可愛い生き物はっ…!!」と。
それに佐助も全力で同意したいところだが、雰囲気をぶち壊すにもほどがあるので声にはしない。ただ静かに何度も頷いて見せた。
そうやって二人で固く意思の確認をとったところで、弁丸がぐすっと鼻を鳴らした。こんな可愛い我儘を未だに気に病んで、泣いているのだ。
姫は抱きしめた腕に力を込めて、優しく弁丸の髪を撫でると穏やかに話し始めた。
「弁丸が悪いことなんて一つもないわ。安心しなさい、私は弁丸の傍にずっといるわ」
「…姉上」
これは優しい嘘だと分かっている。
真田の姫として生まれた以上、いつかはどこかへ嫁ぐ定めにある。それはこの姫自身が誰よりも分かっていることだ。それでもこうやって優しい嘘の約束をすることを、佐助はとても好ましいと思った。
が、しかし。
やはり、姫といえど真田の御仁だった。
弁丸と同じく、大真面目に佐助を振りまわしてくれる。
真剣以外の何ものでもない声で言われた言葉は、次の一言。
「佐助、今すぐ分身の術を教えなさい
「はぁ?!」
さっきのほのぼのとした空気は何処へやら、佐助の素っ頓狂な叫び声とともにどこかへ飛んで行ってしまったようだ。
もう名残すら見当たらない。
思わず思考ごとどこかへ逃避したくなった佐助だが、そんなことをしている暇はない。ちゃんと反論しなければ。
「いやいやいやいや無理っすよ!出来ませんって!!」
「何を言っているの、人間やろうと思えば気合いで何とかなるものよ。ほら、お館様だっておっしゃっているじゃないの常日頃から」
「なな、何言ってんですかっ?!」
こんなところで根性論を持ち出されても、大いに困る。
主家の姫が何を言いだすかと思えば、気合いで分身の術を習得ときた。
どうしろと。
今までにないぶっ飛び具合に、佐助は思いっきり動揺した。忍の名が泣きそうになるくらいに。
しかし姫は佐助の様子など気にすることもなく、にっこりと弁丸に笑いかけてこんなことを言っている。
「弁丸、安心しなさい。私はお嫁になんて行かないわ。分身を身代わりに立てるから大丈夫よ」
「おお…なんとその手が!!」
「ちょっとあんたら落ち着けー!!!何言ってんのかわかってんのー?!」
「私は冷静よ、どこから考えても最高の案じゃないの。…さぁ佐助、明日から早速始めるわ。私が女だとか言う理由で遠慮なんてしたら許さないからね」
「いやいや性別云々とかの前に…」
「それなら弁丸も一緒に!」
「あら良いわね。弁丸がたくさんいたら私も嬉しいわ」
「弁丸も姉上がたくさんいたら嬉しいです」
「うふふ、良い子ね」
「姉上…」
穏やかに笑い合っている姉弟に対し、佐助は思わず絶叫した。

「ああもうあんたらいい加減にしろぉぉぉぉっ!!!!」

姉弟の仲が良いのはとても良いことだ。
しかしもうちょっと常識ってものを考えてくれ。
佐助の切実な願いは、真田の姉弟には届く様子はないようだった。

































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 ひな祭りテキストです。
 あーやっちゃったー…。という思いでいっぱいですが、お祭りテキストということでご容赦願えればうれしく思います…。
 女の子のお祭りですからね、お…女の子!
 史実はほぼ無視してます。笛吹いていらっしゃったかどうかも知りません…。
 真田の兄弟は姉も含めてみんな仲良しだと良いと思います。
 佐助は全員に振り回されていれば面白いです。
 こんなイロモノネタ、読んで下さってありがとうございました!