二月何ていう寒いこの時期、体育の授業といえばマラソンだ。
学校の外周を延々と走り回り、走った距離によって評価も変わる。
頭を使う教科で点を得られなかった生徒達は、総合評価の平均点を少しでも上げるべく必死になって走る。
そして評価云々など考えることもなく、ただ純粋に身体を動かすことが好きな生徒は少しでも速く長く走れるよう全力を出す。
やる気のない生徒達の一部も、なんやかんや言いつつ競争心が騒ぐのかそれなりに集中して走る。
他は疲れない程度に流して走る程度か。
そんな風に冷静に分析しながら、体育教師であり、風紀委員会の顧問でもあり、生徒指導も兼任している佐々木は不揃いに整列した生徒達を見遣った。
その中に一人、無駄に元気そうな格好をしている生徒がいる。
「おい真田。お前なんで半袖なんだ…?」
律儀に休めのポーズをとり、背筋を真っ直ぐに伸ばしてきりっと佇んでいるのは真田という生徒。
この生徒は身体を動かすのが好きなタイプの体力馬鹿で、いつもありえない速度を維持して外周を爆走している。
迷うことなく三学期の評価は5の予定だが、生活態度に関しても素直で真面目な態度が好印象の、模範的な生徒だ。
…時々規格外の暴走をすることもあるが、まぁその件に関しては悪気は一切無いので気にしないことにするしかない。
そんな真田は、今日は何故か上の体操着が半袖一枚という寒そうな格好をしている。
いくらマラソンで身体が温まるとはいえ、走る前に関しては皆一様に寒い。
何週か走って温まった頃合で上着を脱ぐというのが殆どなのに、肌を粟立ててまで半袖を貫いている。
そしてその横では、大抵の時間を一緒に行動している猿飛という変わった名字の生徒が「寒い寒い寒い…」と虚ろに呟きながらガタガタ震えている。
上下ともに長袖の体操着を着ているのに、半袖を着ている真田の横でガタガタ震えているのは何だか見ていておかしい。
その寒そうに震える猿飛が、真田の変わりに口を開いた。
「俺の体操着をこの人が水没させたんで、上着を俺が貰ったんですよ…」
寒さのせいかところどころ弱弱しく掠れる声がそう答え、佐々木はなるほどと納得した。
よく見れば猿飛の体操着には、胸の部分に『真田』と名前が入っているのだ。
解決したところでさっさと走らせてしまおうと声をかけようとすれば、一つ疑問に気付く。
「下のジャージは二人とも長いのをはいているみたいだが…」
猿飛の体操着が水没したというのなら、同じジャージが二本あるのは計算が合わない。
授業には全く関係ないことだが、気になったのだから仕方が無い。
己をそんな言い訳で佐々木が納得させていれば、面倒そうな態度を隠そうともしない猿飛がまたも口を開いた。
「これは借り物っすよ。ってか先生早く走らして…っ!!寒すぎて死ぬっ」
その場で地団駄と足を踏み鳴らす猿飛の仕草はかなり寒そうだ。
しかしこの生徒に関しては走らせてもあまり意味がないように思える。
どれだけの距離を走らせても息一つ乱さないばかりか、汗すらかかないのだ。
マラソンの授業終了の時点でたった一人「寒い…」などというありえない言葉を呟く変な生徒だと今までの経験で認識している。
やる事為す事全てにおいてやる気という物が一切感じられないにも関わらず、この生徒の運動能力が一体どれほどの物なのか未だに計り知れない。
しかもあの真田と最後まで並走しているのだから、やる気が感じられなくとも評価は5になるのだろう。
そこで佐々木は一旦思考を切り、準備運動を始めるよう指示を出した。
適当にグループに分かれ、生徒達が各自体操を行う中、真田と猿飛の元へ向かう。
「体操服を借りるなら上も借りてきたら良かったんじゃないか?」
寒さのせいで固まった身体を全力でほぐしている真田を見ながらそう告げれば、控えめに筋を伸ばしていた猿飛が困ったように笑う。
「やー…まぁ、借りて来たんですけど、のっぴきならない事情で着られなかった感じです」
「は…?」
そののっぴきならない事情とは何だ、と佐々木が猿飛に目を遣れば、長袖の体操着の襟元から覗く半袖が見えないことに気付く。
「おまえその上着の下は裸か…?」
「裸とかいう単語やめて下さいよ。何か変態みたいじゃないっすか」
「下に何も着ていないだろうが」
「インナーは着てますって」
「半袖は?」
「旦那が着てます」
「二人で分けたのか…」
またそんな寒いことを…、と呆れた目で見遣れば、困ったように笑っていた猿飛が不意に嬉しげに目元を緩めた。
その表情の意味に僅かな疑問を覚えた瞬間、ポケットに入れていたタイマーがぴぴぴと音を立てた。
準備運動の終わりの合図だ。
「それじゃ各自走り始めろぉー」
周囲に向かってそう声を張れば、短距離走並みの速さでスタートダッシュを切った真田と、引き摺られるように連れて行かれる猿飛の姿が視界を掠めていった。
「あいつら、ほんっとに剣道部と帰宅部にゃ勿体無いな…」
助っ人でもいいから陸上部に入らないのだろうか、と思わず呟き、佐々木は他の生徒達を追いたてて走り始めた。
何週走ったかを記録するのは見学の生徒に任している。
そろそろ年を感じ始めた身体ではあるが、使わねば衰えるのは必然。
今日も身体を叱咤しつつ、若い生徒に負けるものかと足を速めた。












































その日三時間目の体育の授業の直前、佐助の体操着が主の手によって悲惨なことになったため、隣のクラスの友人からわざわざ借りて、やや汗臭いそれに嫌々袖を通していたときのことだ。
人の出入りの少ない更衣室の寒々しい空気になるべく肌が触れないよう、手早く着替えを行う佐助に向かって、幸村が奇妙な顔で話しかけてきた。
「お前、それ…」
眉間に皺を刻んで口をへの字に曲げた表情はお世辞にも機嫌がよさそうには見えない。
その視線の先には佐助が身につけた体操着。
何か変なものでもくっ付いているかと佐助も視線を下ろすが、特に何も見当たらない。
あえて上げるとすれば“冬だし洗濯なんて週一で十分だろ”とか言う汚い理屈付きで借りた体操着のため、少々泥汚れがついているくらいだろうか。
しかし泥汚れ程度の些事を指摘するにしては、幸村の視線は剣呑だ。
「何?」
あれこれ考えても仕方が無いので率直に問いかければ、幸村は一瞬視線を中に彷徨わせ、何か考えるように上のほうで視線を固定した後、結局答えが出なかったのか冴えない表情を浮かべたままこう言った。
「とりあえずそれは俺が着る。お前は俺のを着ろ」
豪快に脱いで差し出された幸村の体操着を呆気にとられたまま見送ってしまい、佐助は幸村の意図が読めず思わず固まった。
「ほら、早く着替えないと授業が始まるぞ」
催促するようにほれほれと体操着が掴まれた腕が佐助の身を小突いてくる。
しかしわざわざ交換する必要などどこをどう考えても無い。
「別に取り替える必要無くない…?どっちかってーと寒いからもう着替えたくないんだけど」
「お前の体操着を水没させたのは俺だろう。なら俺がお前に体操着を貸すべきだ」
「いやいやいや…わざわざ野田からこれ借りてきたの俺様だからね。そういう意味の分からん理屈はどうでも良いからとっととそれ着なさいよ」
上半身裸の幸村は見ていて凄く寒い。
露出しても恥ずかしくない引き締まった身体をしているとはいえ、それとこれとは話が別だ。
しかし幸村は佐助の言葉に納得できないのか、握り締めた体操着を引くどころかますます強く押し付けてくる。
「とりあえずお前はさっさと着替えろ。…でないと俺はこのまま外へ向かうが?」
えらそうに胸を張ったかと思えば、上半身裸で外へ出るぞ、なんて脅してくる。
一体なんの脅しなのか。
しかしここで佐助が「どーぞお好きに」なんていえば本気でこのまま飛び出していくのだろう。
恥をかくのは幸村だ。だからと言って佐助の心情的に幸村に恥をかかすことなど耐えられるはずも無い。
そういった仕えるもの特有の心の葛藤を幸村が理解しているのかまでは不明だが、こういった狡賢い知恵を働かせる回数は最近徐々に増えてきていた。
一体誰がこんな風に育てたのだろうか。
「おい佐助、聞いているのか?」
少し苛立ちの混じり始めた幸村の声に思考を中断させると、佐助は抵抗を諦めてさっさと着込んだ体操着に手をかけた。
汗臭いそれを主に着せるのは抵抗があるが、着ないよりはマシだ。
出来ればこんな二者択一したくは無かったが。
「ったく…訳分かんない我侭はこれっきりにしてくださいよ…って、うおっさぶっ!!」
脱いだことによって肌に触れる冷気が半端無い。
手早く差し出された体操着と交換すると、急いで身につけるべく袖を通した。
つい今しがたまで幸村が着ていたそれは、体温が残っていてほんのり温かい。
それを「ラッキー」なんて楽観視して首を通そうとした瞬間。
嫌な予感がした。
むしろ嫌な予感というより、己の中のちょっとした人間らしい感情のようなものが蠢いた。
その感情を明確に理解したと同時に、身体はもう行動を開始していた。
「旦那やっぱ待って!」
今にも着られようとしていた野田の体操着を慌てて引っ掴んで制止すれば、やはり寒かったのか幸村は眉を顰めながら佐助に視線を合わせてきた。
「寒い」
「やっぱりそれは俺が着るから!あんたは自分の着なよ!」
「何を今更。もう返さんぞ」
「そこを何とか!…って、もともとそれを借りてきたの俺様じゃないのっ!」
「いいからお前は俺のを着ていろっ!!」
「嫌だってば!!」
狭い更衣室でそんなやり取りを続ける二人は邪魔なことこの上ない。
始めは何とは無しに眺めていたクラスメイト達だったが、このままでは自分の身も危ないと察知したのか慌てて更衣室の外へ逃げ始めた。
佐助はその様子を、幸村との体操着争奪戦の最中に横目で窺いながら、人気が無くなった頃合を見計らって、そもそもの根本的な疑問点を問いかけた。
「何で俺が野田の着るのをそんなに嫌がるわけ?」
「知らん!!とりあえずお前が文句を言わず俺の体操着を着れば丸く収まるのだから、ほらっ!とっとと着ろ!」
「だから嫌だっつの!」
もはや口論では収まらず、力ずくでお互いをねじ伏せようとしている。
流石に力勝負で幸村に勝つのは佐助には不可能だ。
だから言葉で一つ、幸村が理解していないであろうその理由について明言してみた。
「あんたは俺が野田の体操服を着るのが嫌なんでしょ」
「それがどうした!」
「だからー、俺が“他の人間の名前の入った”体操服を着るのが嫌なんでしょ」
「は…?!」
「まぁ俺が着てるものに他人の名前が入ってるのが面白くないってのは分からないでもないけど」
「なっ…!!!」
「でもさぁ、そんな可愛い独占欲発揮してくれなくても、俺様はちゃーんとあんたのものですから」
「……っ!!!」
見事に幸村が黙った。
さっきまで岩のような堅固さで掴んで放さなかった野田の体操服をするりと放し、そのままその場にずるずると座り込んでしまう。
顔を手で覆ってはいるものの、みるみる赤く染まるそれを隠す役割はあまり果たしてはいない。
「はーい、んじゃ自覚してくれたトコで風邪引かないようにとっとと着替えるぜー」
「ま、待て」
往生際の悪いことに、幸村はがしっと再度野田の体操服を掴むと、顔を伏せ蹲った状態のまま唸るように抵抗を続けてきた。
「の、野田は駄目だ」
「まーだ言ってんの?」
「駄目なものは駄目だ。…どうにも腹が立っていかん」
「んじゃ誰ならいいっての」
「さ…猿飛」
「あんたが水没させた体操服にはそんな名前が入ってたよねー」
「で、では真田を」
「俺のに比べりゃ多い名字だろーけど、残念ながらこの学校に真田さんはあんた以外いないね」
「だから俺のを着ろと何度も言っている!」
「俺だってあんたが他の野郎の体操着着てるとこなんて見たかないんですよ」
「……っ」
「野田の五体満足を思うならソレ。…無理やり着ないほうがいいと思うよ」
そう言ってにやりと黒く笑ってみせれば、顔を隠した手の隙間からそれを見ていた幸村が息をのむのが分かった。
だって本当にむかつくのだ。他人の、しかも着用済みの衣類を幸村が身につけるということが。
野田に罪は無かろうと、見当違いの怒りだろうと佐助は容赦するつもりは無い。八当たりが多分に含まれた理不尽な感情のまま、無駄に卓越した技量をもって報復するだろう。
そんな佐助の本気を悟ったのか、幸村は慌てて妥協案を口にした。
「それなら…、武田でどうだっ」
「武田さんもうちの学年にはいないよ」
「三年の先輩に借りて来い」
「三年は二月はもう登校しねーよ」
「なら一年に弟がいただろう」
「ジャージの色が違うっつの」
「むぅ…」
そこで反論の手札が尽きたのか、幸村は黙ってしまった。
しかし野田の体操着を掴む手は放れない。
「…ったく、しゃーない」
このままじゃ風邪を引く、と危機感を覚えた佐助は、掴んでいた野田の体操服を放し幸村の体操着を取った。
「……?」
首を傾げている幸村のほうへ半袖を放ると「裸よりマシ」と告げて着るよう促した。
そして佐助は上着の方を頭から被る。
「半分で妥協したげるからあんたは半袖で我慢してください。水没の対価ってことで寒さには耐えてちょーだいよ」
「う…おう」
今度こそ幸村は納得してくれたのか、もそもそと半袖体操着を頭から被った。
結果的に必要の無くなった野田の体操着の上二枚に関しては、空いているロッカーへ突っ込んでおく。
制服と一緒にしてしまうと、一週間に一度しか洗濯されないという嫌な匂いが写ってしまいそうで気持ち悪いのだ。
「それじゃー行きますか。体育は佐々木先生だし、遅れたらすんげー怒られる」
「うむっ」
元気の良い幸村の返事を受け、ドアの傍に掛かった鍵を使って施錠してから更衣室を後にする。
そして前を行く主の背を見つめながら、聞こえないように小さな声でそっと呟いた。
「たかが名前くらいでこんなねぇ…」
自覚すら出来なかった幼い独占欲だったとしても、所有の証を不器用に主張する様が酷く面映ゆい。
そんなに証が欲しいのならば、いっそ彫り物でも何でも好きなだけ刻めばいいのに。
そんな風に考えて、消えない証を欲しがってるのは自分の方だと自嘲した。

本当にガキなのはどっちなのか。
































−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 突如加熱された学園モノ。
 体操服に名字が入っているのって「俺の!」って感じがして良いです。
 佐助が真田って名前の入った体操服着てると滾りますよ。ビバ☆所有宣言!
 そして冬って体育かならずマラソンありませんでした?
 毎年ひんひん言いながら走っていた思い出がいっぱいです。小中高と!
 外周走るの恥しかったなー。道ゆく人が微笑ましそうに見守ってるのとかがすんごく。
 応援されると泣きたくなった。変わって下さいそこで笑ってるおじちゃん…!てな感じで。