※死にネタ注意
「佐助ぇぇぇ!!帰ったかぁっ!!!」
「ぐほぇっ」
幸村の勇ましい声と共に、任務から帰還したばかりの忍の悲鳴が上田城の一室に響き渡る。
避けようと思えば簡単にできることではあったが、主が嬉しそうに飛びついて来るのを避けるのは流石に悪いと思ったのだ。
そのため座したまま回避行動も取らずに受けとめた訳だが。
力の加減を忘れた幸村の腕力を嘗めてはいけなかった。
「だ…旦那…もうちょい加減してくんない…?」
「う…おお?すまぬ…!!」
佐助の力無い懇願に、幸村は慌てて腕の力を緩めた。
心のまま飛びつく幸村を微動だにせず受け止めることができるような人間など、天下に名を轟かす名将、武田信玄公くらいしか思いつかない。動かざること山の如しの言葉の通り、危なげなく受け止めることだろう。
しかし佐助はそうはいかない。
ぱっと見華奢に見えなくもない体躯をした幸村の信じられないような馬鹿力を前に、忍の敏捷性に特化した体では持ちこたえることなど出来る訳がない。どれだけ衝撃を逃がそうと、絶対に何処かに響く。
しかしその辺は鍛え抜かれた忍耐力で補うことにする。
例え野生の虎のような迫力で飛び着かれようと、万力のような腕力で抱きしめられようとも。
「あー…どーも、お久しぶり。えっと何か月振りだっけ?」
「馬鹿者!半年以上経っておるわ…!!お前の事だから心配は無用とわかっていたが、やはり顔が見えぬと落ち着かぬものだぞ…?」
「そりゃあ…うん、ごめん」
幸村のやや不安げな表情に素直に謝罪の言葉を口にした佐助だが、実は何度か城には戻っていた。
しかしそれを幸村は知らない。
理由は簡単だった。
幸村自身が、意識を失っていたからだ。
負った傷が深かったのか、受けた毒が強かったのか、それとも殴られた頭の打ちどころが悪かったのか。
もしくはその全部か。
原因を探すのも馬鹿らしくなってくるほど、幸村の傷は酷いものだった。
生きているのが不思議なくらいの傷だったのだ。
それは先の戦での出来事。
武田の力を徐々に削いでいく卑劣な戦術。
自軍の消耗を覚悟で、未来ある武将、しかも戦力の一角を担う猛将…つまり、真田幸村を標的にしたえげつない作戦だった。
若き虎として、甲斐の虎の意志と熱い魂を継ぐ未来への若芽、それを巧妙な罠で絡め捕り、集中して潰しにかかった悪夢のような手管。
「時間は万人に訪れる死の指先。猛き虎も老いには勝てまいよ…。それなら僕は秀吉の未来のために、あらゆる種を芽吹く前に握りつぶす」
そう言った策士は、天才と呼ばれる竹中半兵衛。
戦開始直後、どこから仕入れたのか分らない巨大な兵器でまずは兵を蹴散らし、武田軍に大打撃を与えた。
しかし威力で圧倒した兵器も万能ではない。機動力が大幅に劣るのだ。その分射程は申し分ないほど素晴らしいが、命中率は落ちる。
そこで、忍の出番だ。
どれだけ威力のある兵器だろうと、忍の身なら避けられない攻撃では無い。
鈍重な動作で発射される銃弾など、慣れれば見切ることは安易なことだった。
躊躇なく忍隊は兵器の破壊へと動き出した。
数体同時投入された兵器を短時間の間に破壊するには、卓越した技能を誇る真田忍隊でも複数に分ける必要があり、ここで佐助は幸村のもとを離れて兵器の破壊へ向かった。
もちろん敵は兵器だけでなく人間も大勢いたため、各武将は敵兵を相手取っていた。
武田の誇る騎馬隊も、鉄砲と兵器の前に次々倒れてゆく。
豊臣軍はたとえ味方兵士のいる場所であろうと容赦が無く、欠片とも砲火の手を緩めることなど無かったために戦場は大混乱だった。
その混乱に乗じて豊臣秀吉自ら出陣し、武田軍大将、武田信玄へと肉薄した。
当然、幸村は主君のもとへ駆けつける。
そこへ豊臣の忍衆が立ちふさがったのだ。
それはもう惨状を見るまでもなく凄まじいものだった。
忍を使い捨てのように扱う容赦のない手口。
使用した本人すら無事では済まされないような猛毒を撒き散らし、幸村を足止めした。
素晴らしい危機察知能力でとっさに風上に逃げた幸村だったが、ごく微量を体内に入れてしまったらしく、だんだん槍を振るう腕に力が入らなくなってきた。
そこで間合いを取られ、飛び道具が矢のように降り注ぐ。
大半ははじき返したものの、いくつかその身に受け血を流した。
その時点で、佐助は幸村の窮地に気づいていた。
しかし、駆けつけることが出来なかったのだ。
兵器への破壊へ向かったその先に、狙い澄ましたかのように現れた竹中半兵衛。
不可思議な得物を巧みに操り、まんまと足止めを食わされた。
ありとあらゆる飛び道具で距離を稼ぎ、その場を脱した時には既に幸村は満身創痍の状態で。
それでも雄々しく奮闘した幸村だったが、彼とて人間だ。限界は訪れる。
白刃が迫り、幸村の命が奪われる寸前、何とか佐助が間に合いぎりぎりでその場を脱したが。
忍鳥にぶら下がり空を飛んで逃げている最中、腕の中の幸村は既に虫の息だった。
本陣に帰還した時には体は既に冷え切っており、秀吉と信玄公の激戦の最中に医師たちは幸村の治療にかかりきりになった。
その時点で命はもう消えかかっていた。
そんな主の危機に、戦うことに特化した戦忍が付いていることなんて出来るはずもなく、その後は己の仕事場へすぐさま舞い戻った。
普段の飄々とした態度の一切を捨て去った佐助が大将同士の戦いに乱入し、秀吉に手傷を負わせて戦は終幕を迎えた。
一騎討ちなど糞喰らえだった。
後になって考えてみると、狙いは幸村だったのか、それとも信玄だったのかは判別できない。けれど、どちらにせよ結果となって残ったのは瀕死の重傷を負った幸村と、多大な犠牲を出した武田豊臣両軍の兵士、そしてしばらく戦場に出ることができない程度の傷を負った敵軍の大将だった。
敵大将をしばらく戦闘不能にしたのだから、戦の成果としてはまずまずだろうが、それでも佐助にとっては最悪に近い戦だった。
幸村が命を落とさなかっただけまだマシなほうだろうと、何度も己に言い聞かせたが、荒い呼吸を繰り返し何度もあの世とこの世を行き来するように眠る幸村をみていると“それは俺の役目だろう?”という気持ちが込み上げてくる。
何度も「何でここで死にかけてるのがあんたな訳?」とか「普通逆でしょ?」とか、聞いても仕方がないことを問いかけた。
猛毒も、忍の体なら耐えられたかもしれない。
迫りくる大多数の敵兵も、忍の身なら背を向けることなど躊躇いはしなかった。
己がもっと早く駆けつけていれば。
相手の卑劣な策を、事前に察知できていれば。
意味のないことと知りながらも、ああすればこうすればと考えても仕方のないことが浮かんでは消えていった。
そうしているうちに、薄く掠れた忍の心にふつふつと込み上げてくる不思議な感情が宿った。
否、感情と言えるほど確かなものではない。
酷くあやふやで、不明瞭な何かだった。
荒々しく猛ることもなく、悲しみに揺らめくこともなく、それは静かに佐助の中に居座り、ただ淡々と決意を促した。
いつか、殺す。
身の内から囁かれる何かに促されるまま、静かにそう決意したところに、信玄から依頼が舞い込んだ。
暗殺の依頼だった。
標的は、竹中半兵衛。
戦後の処理も終わらぬ状態での早急な指示だった。
両軍の損害は五分。
守りも強化しなければいけないそんな時に、忍隊の戦力の要を放ってでも抹消するべきと判断されたのだ。
もちろん佐助は“是”と答えた。
負傷した主の姿に揺らめいていた意識を研ぎ澄まし、心を凪ぎ、一切の私情を抹消する。
暗殺者としての忍の性が戻ってくる。
ここまで迅速な指示なのだから、もたもたして良いはずが無い。
佐助はすぐさま行動に移した。
仕事は迅速に。
戦後の後始末や己の休息など意識の外に締め出す。
あとは、標的をいかに早く、確実に殺すことだけを考えた。
時間にして一月経つか経たないか。
それくらいだっただろうか。
仕事は比較的手早く終わらせることが出来た。
一度闘りあったこともあって、相手のあの厄介な武器にも十分に備えることができたのが大きい。
潜り込ませていた数人の草の者が帰らぬ人となったが、仕事の成果を考えれば妥当な犠牲だった。
竹中半兵衛の最期の言葉は“秀吉、すまない”。
血反吐を吐きながら紡いだ言葉は、向けた相手に届くはずもない。
持てる知識の全てを駆使して嬲り殺してやっても良かったが、それは暗殺者のすることではない。
囁きかけてくる甘い誘惑を断ち切って迅速に作業を終えた。
まだ意識が消え切っていない時を見計らって、相手にとって絶望と等しい意味の言葉を投げかけたが、死へ直走る相手にとっては大した餞にはならなかっただろう。
残念な事だ。
あとは大した感慨もなくその場を脱し、痕跡を消す作業を念入りに行った後、足は自然と上田城へ向いた。
飛ぶように駆け、一週間もせぬうちに目的の地へと辿り着いた。
疲労のたまった体を誤魔化して、一目だけ幸村の姿を目に映した。
床で微動だにせず昏々と眠り続ける主。
筋肉の落ちた肢体、青白い顔色、浅く荒い呼吸。
それを目に焼き付けて、信玄公の居城へとすぐさま足を向けた。
その道すがら、部下の報告を反芻する。
…主はあれから一度だけ目を覚ましたらしい。
“お館様は?”と声の出ない喉で問いかけて、薬湯を口にして、顔をしかめて、またすぐに意識を手放した。
それから5日。一度も目を開けず眠り続けている。
しかし、一度は目を覚ましたのだ。
口を開けば“お館様”それも変わっていない。
苦い薬湯が嫌いなところも。
真田幸村は死なない。
それをもう一度己の胸に刻み込み、佐助は夜を駆けた。
そして一日かけて信玄公の居城へ辿り着くと、すぐさま報告を始めた。
竹中半兵衛の怪死については噂はもう広まっていたが、一番近くでその死を見た者…否、それを実行した者より詳しい人間などいない。
手早く簡潔に、ただし注意深く報告を済ませると、一日だけ休みを貰えた。
いつもの調子で働かせすぎだとぼやいてみたけれど、やはり天下を目指す者の慧眼は恐ろしい。
“もう暫し忙しくしておれ”
そう言われた。
その通りだった。
体に溜まった疲労は僅かな時間で調整できる。
それが忍の体だ。
心も然り。
そのはずだった。
しかし佐助のとっての幸村は、唯一の例外だったのだ。
必要とあらば消し去ることもできる心だが、幸村のことに関しては労力を要する作業になる。
心を凪いでも気を抜けば波紋が広がり、闇に溶かせどいつの間にか浮き上がる。
それが真田幸村だ。
だから、忙しくしていないと考えてしまう。
幸村の体は大丈夫なのだろうか?毒の後遺症は?傷の具合は?視力は?声は?耳は?
全て、回復するのだろうか?
心配で心配でどうにかなってしまいそうになる。
忍の癖にだ。
下手に気の抜けた日々に戻ると、慣れない心の負荷のおかげで精神に疲労が蓄積する。
だから、心を消しやすいようにお館様は忙しさをくれた。
何とも矛盾していて、不条理で、どこか狂っている道理だが、忍をよく理解した采配だった。
内心どきりとしたものだが、それをおくびにも出さないで佐助は“旦那の分も今はあくせく働かせていただきますよ”と答え、すぐさまその場を辞した。
一日だけの休みはもっぱら体を休めるためだけに使った。
溜まった疲れを癒すためにただ黙々と休息を消化していると、慌ただしい気配が佐助の眠りを妨げた。
何とも不甲斐無いことに部下の忍の気配だった。
忍の癖して信じられないくらい騒がしい気配。
佐助は疲労が増した気がしたが、告げられた一言に疲れが吹っ飛んだ。
幸村が目を覚ましたのだ。
佐助が発ったすぐ後に、普通に起き出したらしい。
周りの人間が血相を変えて止めるのも構わずふらふら歩いて厩へ向かい“ひと月以上もこのような不甲斐無い姿を晒すなど…お館様に一言お詫びせねば!!”と言って聞かなかったらしい。
馬鹿だ。
しかし辿り着く前に力尽きたらしい。
馬鹿だ。
本当に馬鹿だ。
起きるならもうちょっと早く起きて欲しかった。
それならあんな、あんな儚げな姿を目に焼き付ける必要なんて無かったのに。
声も聞けたのに。
そんな思いを抱きつつも、部下からの報告を全て聞き終えると、佐助は部屋の隅で丸くなってもう一度眠った。
胸の内で不満が燻っているはずなのに、なぜか安らかに眠ることができた。
複雑な造りをしていると思っていた己の精神構造は、案外単純にできていたらしい。
夢うつつにそんなことを思った。
一日だけの休みが終わりを告げる頃、佐助は信玄の許へ律儀に馳せ参じた。
話題は案の定幸村のことから始まった。
普段よりずっと柔らかい表情で、“一安心じゃな”と笑いかけられた。
こちらも同じように笑い返して“全くです”と答えておいた。
そのあといくつか幸村のことで他愛ない話をした後、信玄がいきなり表情を引き締めた。
あっという間に一変した空気に佐助も気を引き締めると、信玄は声を低くして一言こう言った。
“豊臣が動く”
片腕とも呼ぶべき軍師を失った秀吉が、天下を取るためにまた動き出すというのだ。
面倒なことになる。
確かに軍師は既にこの世にはいないが、その身を削って築いた強力な軍事力はいまだ衰えずある。
打撃は受けたとしても、先の戦からは既にひと月をとうに過ぎている。
補給路も堅固な豊臣軍の回復力は凄まじいものだった。
武田と戦になれば戦況は五分、もしくはそれ以下か。
未だ幸村は床についたまま、どう考えても戦える状態では無い。
幸村を欠いた真田隊は、戦力としては他と比べて見劣りはしないものの、やはり違う。
あの人は必要だった。
佐助は静かに信玄の言葉を待った。
“正面からやりあうのは得策では無い”
遠まわしに言われたその言葉に口角を上げて応えると、信玄もにやりと笑んだ。
そうして続けられた言葉は“掻き回せ”。
秀吉を消す必要は無いが、戦力を削ぐために内側から軍を滅茶苦茶にしろ、という指示だった。
この依頼にも佐助は“是”と答えた。
上田に戻り、幸村の状態を確認したかったのはもちろんだが、そこに私情を挟む余地は無かった。
豊臣の軍事力を侮ってはいけない。
主が動けないのなら、その影が動けばいい。
佐助は簡単な準備に一日使い、翌朝には信玄の居城を発った。
それからが大変だった。
まず忍びこむのに相当苦労した。
潜り込ませていた草の者は数人が既に始末されており、何とか誤魔化して潜んでいた者も、接触すれば危うい立場にあった。
成り替わるのに適した人間を殺すにしても、対人関係やら組織内での動向など、下調べにかなりの労力を必要とした。
情報の攪乱と陸路海路への火種作り、有能な人材の埋没、組織系統の混乱。
何とか端の方からコツコツと崩して、内部まで食い込むのに数か月。
内部から崩すのにも同じくらい掛かった。
本当に骨の折れる仕事だった。
しかし成果はあった。
出陣が延期されたのだ。このまま戦に出ても多数ある火種が火を噴くことがわかったのだろう。
しかもその火種は佐助の手によるものだけでは無い。
全国各地から多数の同業者が潜り込んでいたのだ。
佐助ほどの腕を持つものはそう多くはなかったが、同じ匂いを纏った人間は何となく察しがついた。
他の者が仕掛けた火種をこちらの有利に動かし、漁夫の利を得ること多数。
こちらの気配を悟らせるような真似はしなかったが、別の人間が毒殺されたのは佐助と間違われた可能性が高い。
この辺が潮時か。
そう思って、あとは一切の痕跡を残さずそこを去った。
しかしやはり忍というものは一筋縄ではいかないものだ。
自らを評するようで気持ち悪いが、どこまでも不気味な存在だった。
あれほど鮮やかに、というより凡庸と紛れて姿を消したのに、追跡の手からは逃れられなかったのだ。
甲斐へ向かう様な真似はしなかったため何処の者かは割れていないようだが、戦って逃せば正体に気付く者もいるだろう。
佐助の忍としての腕は、やはり有名だ。
ここは、完全に殺さなければならない。
むやみやたらと殲滅するような殺しはあまり好まない方だが、こういった事態でそんな私情を挟む気はさらさら無い。猿飛佐助と知らずに刃を向けた不運を嘆いて貰うほか無かった。
それに、少し冷酷な気分だったのだ。
いつもより冷えるのが早く、覚めるのも遅かった。
そして完全に浮上することもなかった。
全員を単調に片づけて、遺体すら消し去って、その場を去っても冷えた心が戻らない。
滲んだ闇が、広がったまま戻らないのだ。
寒い。
そう自分で呟いておいて、何が寒いのか自分で分からなくなった。
ただ身体の動くままに駆けて、体に熱を戻そうとした。
けれど低いはずの気温に対し、吐く息は白くはならない。
その意味もだんだんどうでも良くなってしまい、ただ「寒い」という思いだけが込み上げてくる。
そしてそれと同時に、温かい何かを強く望んでいる己に気づいた。
どこかで何か大切な物を戒めていた箍が外れてしまったらしい。
ずっと奥の方へ押し殺し沈みこませていたものが浮きあがって来てしまったらしい。
それに気付いたらもう駄目だった。
上田に向かう足が止まらない。
無事を確かめたくて堪らなかった。
何でも良いからあの暑苦しい声が聞きたかった。
押し込めるのも我慢するのも全部限界だった。
会いたくて、どうにかなってしまいそうだった。
「…って感傷に浸ってる場合じゃねえ」
軽く跳びまくっていた思考を今に引き戻すと、腕の中にはあれだけ熱望した存在が収まってしまっている。
肌で感じる幸村の体温と鼓動の強さが嬉しくて、つい抱きつかれたまま放置していたがよくよく考えてみると放っておいて良い状況ではない。
佐助は任務から帰ったところで体中泥だらけ。
昼夜問わず駆けてきたため汗だくだし、多少戦闘もこなしたため血の匂いも纏わりついている。
はっきり言って物凄く汚いのだ。
出来れば屋敷に上がる前に川なり井戸なりで体を清めてから参上したかったのだが、目を覚ました幸村に会うのは半年振りとあってはそうも言っていられなかった。
一目見たら一旦戻ろう。
そう決心したはずなのに、姿を捉えた瞬間動けなくなってしまった。
安堵とか懐かしさとかもう訳の分らない感情がぐっちゃぐちゃに混ざり合って、立ち尽くしてしまった。
見れば安心できると思っていたのに、見れば見るほど近づきたくなって、気づけばもう戻るなんて考えは頭の中から吹き飛んでいて、屋敷の庭へと降り立ってしまった。
ふらりと一歩を踏み出し、なかなか埋まらない距離と思うように動かない体に苛立った。
己の優秀な視力のせいで、あの人までの距離が酷く遠い。
それを苦々しく感じながら駆けだそうとした瞬間、下男に見つかってしまった。
それに気付けなかった己を恥じ、一気に冷静に戻った頭でその場から離れようとしたのだが、既にあとの祭りだった。
どれだけ固辞しようと引き摺られそうな勢いで部屋に通され、どうにか逃げようと疲労の極みにある頭を動かそうとした瞬間、佐助の帰還の報せを聞いた幸村が飛び込んできたのだ。
そして今に至る。
会えたのは嬉しい。本当に久々なのだ。
けれど、抱きつかれたままでいるわけにはいかない。
まず幸村の体だ。
腕に感じる感触から、傷も塞がり筋肉も戻りつつあるのが分かる。
筋力に関しては先ほど身をもって体感した。
しかしそれでもついこの間まで死にかけてた人間なのだ。
心の臓も実際一度止まった。
一回死んだと言っても過言では無い。
そんな人間に不衛生な状態の人間がくっついて良いはずがない。
一刻も早く離れるべきだ。
さらに幸村が今身に付けている衣。
屋敷の主の服装としては機能性重視の略装だが、それでも生地は一級品。
汚しては職人に泣かれてしまう。
しかも色は枯れ色の赤蘇芳。
暖色の似合う幸村だが、こういった落ち着いた色の着物も結構似合っているのだ。
駄目にするなんて勿体無さ過ぎる。
思いっきり私情が入っているが、この際どうでもいい。
とにかくこの衣も汚すのは嫌だった。
「あー…その、俺今めちゃくちゃ汚いんだけど、」
「うむ。任務ご苦労だったな」
「どーも…。それでね、今更だとは思うけど…あんまりくっついてるとあんたも汚れるっていうか…」
「本当に今更だな」
「そうなんだけど、うんでもやっぱ離れた方が良いって。匂いとか写るのも良くないし」
「そうか?」
「そうなんです」
「ふむ…匂いは特に気にならぬぞ?」
「駄目です。その衣高いんだから」
「そうなのか?」
「そうなんです」
「…衣くらい洗えば済むぞ?」
「洗う人のこと考えなさいよ」
「む…そうか」
「そうなんです」
「…自分で洗ってみるか?」
「駄目。」
「何故だ?」
「二度と着れなくなるから」
「何故だ?」
「この布普通に洗ったらボロボロになるから」
「そうなのか?」
「そうなんです」
「……」
「……」
「…仕方がない、離れてやろう」
「はいどーも」
「……」
「……」
奇妙な沈黙が続く。
「佐助?」
「なんです?」
「離れろと言う割に、手が背に回ったままなのだが…」
「ああ、こりゃ失礼」
「うむ」
「……」
「……」
またも奇妙な沈黙が続く。
幸村がわずかに身じろぎしたが、それだけだった。
「…佐助?」
「ああ、うん…その、ね。」
佐助は何かを言おうとしたが、どうにも歯切れが悪い。
幸村が少しの間返答を待っても、佐助の口からは続きが出てこない。
代わりに手に力が込められた。
「…?」
疑問に思った幸村が、顔をあげて佐助の表情を確かめようとした。
しかしそれを佐助の手が制する。
普段力の加減を間違えたりしない佐助にしては珍しく、痛いほどの力で幸村を抱きしめて。
かすれた声で一言つぶやいた。
「無事で…」
最後はほとんど聞き取れないほどの音量だったが、耳元で囁かれたその言葉はしっかりと幸村の耳に届いた。
「…お前もな」
幸村がそう返すと、返事の代わりに腕の力が更に強められた。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
ホントは最後らへんしか書いていなかったはずが、理由をどうこう考えているうちに付け足し文を六千文字以上打ってた不思議。
勿体ないから消せなくなった貧乏根性です。
半兵衛が自軍大将突撃させるような作戦立てるはずねぇよ、という突っ込みはスルーで…すみませっ。
幸村は死ぬ時は潔さそうですが、生きる時はしぶとそうです。
そして佐助の方は、幸村がこんな状態になったら、いつもどおりに見えてだんだんおかしくなっていくと良いと思います。
緩やかだけど、絶対他の誰にも止められない変化があったらいい。
でも主従は仲良しでいて欲しいです。