ごうごうと狂ったように翻る炎が、目の前でひたりと笑みを浮かべる男の顔を照らし出す。
くっきりと浮かび上がる陰影と笑みの形に歪められた唇。
溶けることの無い氷の様なその笑みは、焼け付くような炎の熱さに対し酷く違和感を際立たせた。
そんな違和感すら凌駕して、男こと松永は穏やかに口を開いた。
「炎は美しい…。いっそ暴力的なまでの激しさと絢爛の華やかさ。すべてを灰燼に帰す圧倒的な破壊力…。名工の最高傑作だろうと、御仏を模した木像だろうと、そして路傍で朽ちた一欠片の価値さえない屍だろうと…この紅蓮の蹂躙を受ければすべて同じ灰となる。なんと味気なくも美しい終幕だろうか?」
目を細めて、本当に美しいものを愛でるかのように炎を見る松永は、同意を求めるかのように佐助へと目を向けた。
「炎ね…。」
佐助は静かに呟いた。
冷徹なのにどこか狂気めいた眼差しを真っ向からやる気なく受け止めて、胸の内でしばし黙考する。
炎。
確かにそれはとても美しいものだ。
くるくると形を変え色を変え、いくら見ていても飽きはしない。
闇夜を照らすその光は見る者すべてを惹きつけて止まないし、じんわりと染みいるように温めてくれる熱は、傍に在るだけで泣きたくなってくる。
近づきすぎればこの身を焦がす、あの灼熱の劫火もまた美しい。
存在にしても奇跡みたいなものだし、何でこんな綺麗なものが当たり前のようにあるのだろうと何度思ったか知れない。
紅蓮、赤、緋色、紅。
連想するものなんて鮮血や血飛沫くらいしかなかったのに、今ではもうたった一つしか浮かんでこない。
炎。
完成された忍の思考すら塗り替えてしまった不可触の何か。
自分にとっての数少ない大事な何かの一つで、存在すら危うい確固たる自我の根底にあるかもしれない何か。
「炎が美しいかって?」
腹の底から相手を嘲笑ってやりたいという衝動が湧きあがってくる。
本当に、なんて滑稽な問いかけだろうか。
この猿飛佐助に炎の美しさを問うなどと。
苛烈でひたむきで、高潔で純粋な、あの紅蓮の美しさを、他の誰よりも近くで見てきたのだ。
今更聞かれるまでもない。
「あんたとは気があわなさそうだけど…」
佐助はにやりと笑った。
口を歪ませるだけの愛想の欠片も無いような笑みだ。
けれど瞳には嘲りの色をのせて、口から紡がれる言葉には、全身からかき集めてきた精一杯の誠意をのせた。
「俺も炎は大好きだよ。」
何とも馬鹿らしいやり取りの中、この言葉にだけは感情をのせて佐助は武器を構えた。
含ませた誠意は今対峙しているこんな不気味な男に向けたものでも何でもなく、ここにはいない人に気まぐれ程度に向けた精一杯の賛歌だ。
己の内にある感情を形にした訳ではない。
おぼろげな何かを言葉にして表すことなど不可能だ。
音にして届けることなど出来るはずのないものだし、それ以前に存在さえ曖昧なものなのだ。
けれど、今口にした言葉は嘘ではない。
どのような意味を内包していようと、己はあの紅蓮の炎が好きだった。
しかし目の前には火薬によって無理やり狂わされた炎が踊っている。意図せず、触れるもの全て灰燼に帰す狂乱の炎だ。
鎮まることを知らされることなく、傍にあるもの全てをただ飲み込もうとしている。
やがてすべて燃やし尽くし、すべてを灰燼に帰した後、己も霞のように消える結末が待っているというのに、ただただ狂ったように燃えている。
こんなものをこの男は美しいと目を細めて愛でているのだ。
こんな異常なものを、だ。
(気持ち悪いったらありゃしない…)
火薬を使役して紅蓮の飛沫を操るなど、無粋にも程がある。
炎は自由に猛ってこそ美しいというのに。
構えた武器の刃越しにかち合う視線に、佐助は目を細めて相手に答えた。
「せっかく意見が一致したところ申し訳ないんだけど、困ったことにどうもあんたの事は好きになれそうにないんだよね」
「それはまた悲しい。…しかし私も卿のことは嫌いのようでね。ああ、また意見が合ってしまった」
ちりりと狂気の中に殺気を滲ませて笑う松永は、表情と相俟ってひたすら気味が悪い。穏やかな口調がそれに拍車をかける。
「いやーほんとあんた良い性格してるよ」
飄々とした態度で適当にその挑発を受け流すと、身を低く構えていつでも跳びかかれるようにした。
そろそろこの馬鹿げた遣り取りにうんざりしてきたのだ。
佐助の変化に気づいたのか、松永はゆったりと太刀を佐助のほうへ向けた。
丁寧な物腰とは裏腹に、一気に膨れ上がった不気味な殺気がこの男の本質を物語る。
じり、とお互い得物を手に睨み合い、一触即発の空気があたりを満たした。
ごう、
狙い澄ましたかのように炎が鳴る。
その音を合図に、両者が足に力を込めた瞬間。
「?!」
「!!」
ものすごい熱量を纏った何かが松永と佐助の対峙するど真ん中へ吹っ飛んできた。
お互い慌てて飛びずさる。
次いで目の前を過ぎ去った熱の塊に視線をやると、そこには、無理やり斬り飛ばされたような扉の残骸が落ちていた。
しかも、吹き飛ばされたことによる風圧で消し飛ぶはずの炎はまだまだ健在で、あろうことかただでさえ燃えている建物の火の勢いを増量させるかのような強さで燃え盛っている。
佐助は燃える木片から視線を逸らし、反対側…つまり木片が吹っ飛んできた方向へ眼を向けた。
無意識に上がる己の口角。
視線の先には一人分の人影が揺らめいていた。
言うまでもなく、炎の塊を吹っ飛ばしてきた犯人だ。
(これまた絶妙の登場だね…)
扉を吹っ飛ばした犯人など、考えるまでもなく分かっていた。
周囲を滑る炎よりもなお熱く燃える紅蓮。
そんなものを纏って現れる人間などそういはいまい。
狙い澄ましたかのような登場と、あたりを彩る紅蓮の花。
文句なしに格好良い。
その人物はそれこそ炎のような勢いで飛び込んでくると、熱く口を開いた。
「佐助ぇっ!!何を敵と歓談しておるかっ!!」
「うそぉっ?!今の会話が楽しそうに聞こえたの?!あんたの耳どうなってんの?!」
「どこから聞いても楽しそうだったではないか!何が美しいとか意見が合うとか!」
「どんっだけ前から会話聞いてた訳?!それならもっと早く駆けつけてよ!」
「お前と違ってこっちは空を飛べんのだ!壁が邪魔でなかなか辿り着けぬ!」
「あんたなら壁なんてあってないようなもんでしょうが!」
「だから今扉吹っ飛ばして入ってきただろう!それよりお前こそどうなのだ!敵と楽しそうに語り合いおって…!」
「だからどこをどう聞き間違えたら楽しそうに聞こえるんだよ?!これ以上無いほど仲悪そうだったろうが!」
「どこがだ!何が好きとか意見がどうとか言っておったではないか!」
「ぎゃぁぁやめてーっ!もうなんでそういらんとこばっかり抜粋してくんだよあんたの耳は!!もう独経もあんたの耳にゃ睦言になって届くんじゃないの?!」
「むっむむ睦言とはななな何を!!」
敵大将そっちのけだ。
もはや松永の姿など目に入らない、とでもいいそうな勢いで言葉の応酬が続けられる。
「俺はあんたが睦言の意味を理解してたことが嬉しいよ…。あーそれくらいの知識はある訳ね?いや〜安心した〜」
「おまっお前…!!はははは破廉恥なことを申すでないわぁ!!!」
「あれー旦那ってば照れてんの?」
「そっそうではない!せせ戦場でふざけている場合では無いと言っておるのだこっこっこの愚か者!!」
戦場だということを分かっている幸村に佐助はちょっと驚いた。
素晴らしい勢いでどもっているところは面白いが、思ったより我を忘れてはいないようである。
しかしまだまだふざけた言葉の応酬は止まらない。
「ふざけてなんて無いって!もう心の底から真剣に安心してんのっ」
「なお悪いわっ!!」
面白いくらい打てば響く幸村の様子に内心愉快に思いながらも、佐助はちろりと横目で松永を見やった。
思惑としては、松永をまるで存在していないかのように扱い、自尊心なり何なりと傷つけられれば面白いと思っていたのだが…。
思惑とは裏腹に、松永は(表面的には)実に楽しそうにこちらのやり取りを眺めている。
周囲から脱力するだとか、やる気が削がれるだとか、心が和む(これに関しては真田忍隊の発言だが)という意見が寄せられる幸村とのやりとりだが、初見から楽しそうに眺めることのできるような人物にはこれまで武田信玄にしか会ったことはなかった。
佐助が顔には出さないながらもいぶかしんでいると、不意に松永が穏やかに口を開いた。
「卿の言う“炎”とは…これのことかね?」
ぞわり
一気に皮膚が粟立つような感覚が背筋を駆け抜けた。
悪意、殺意、戦慄、悪寒、どの言葉にも当てはまらない正体不明の不気味な感覚だ。
敵意に満ちた眼差しや殺される寸前の死に物狂いの抵抗などには慣れ切っている佐助だが、今感じたような異質な気配はあまり馴染みのないものだった。
例えるならそう、妖気のようなものだろうか。
淡々と作業のようにひたすら殺して、殺して、己自身も傷付いて、怪我して、それでもまだ殺して、殺して、殺して、薄闇の中で血に濡れて武器を振るった時の己の気配に近い。
息使いも鼓動も体温さえも遠のいて、ひたすらただ殺すだけ。
もう戻れないのではないか?
何処に戻り自分が何になりかけているかもわからないまま、漠然とそう思ったあの時の感覚。
一筋の光もない冷えた暗黒とは違った、絡みつくようなぬばたまの闇に落ちるような感覚。
すでに人として色々欠落している忍の身でこのように思うのも変な話だが、それでもこの男は異質だと直感が告げてくる。
そんな不気味な男の眼が、幸村の姿を映している。
松永のいう“これ”が何を意味しているのか、そんなもの言われるまでもなくわかっていた。
相手は、本人が一番大事にしているものを好んで奪う根っからの悪党なのだ。
目をつけられていいことなんてまるでない。
思わずそっと幸村を窺い見ると、槍を構えて既に体制を整えていた。
闘志が肉眼で見えるかのような覇気と、隙のない構え。
笑えばまだあどけなくも見える顔は一変し、武士の凛々しい眼光が一対の目に宿っている。
佐助の胸に、別の何かが込み上げてきた。
それに口元を綻ばせると、佐助は答えを返すために口を開いた。
「さぁ…何のことかまるでわかんないね」
明らかに馬鹿にした態度で笑って見せてやった。本当は「うん格好良いでしょー?」とか愛想よく聞いてやっても良かったのだが、同意されたら気持ち悪いので止めておいた。
対する松永はそんな佐助を気にした様子もなくなおも続ける。
「いつか消えゆく存在、ただ脆いだけの人間ごときに宿った炎を愛でるのは愚かなことだ。…逝く時は酷くあっけないものだよ?」
何もかも分かっているぞ、と諭すように告げる松永に、佐助は余裕の笑みで答えた。
「ありがたい言葉に俺様感激しちゃいそうだけど…あんたさ、忍に人の儚さ説いてて情けなくなってこないの?」
「おおこれは失敬…、専門家に素人が口出しすべき問題では無かったようだね?」
「そーゆーこと」
にっこりと白々しい笑みを浮かべた佐助に、松永も穏やかにほほ笑んだ。
この上なく気色悪い図だった。
そこへ幸村が勇ましく乱入した。
「その奥歯にものの詰まったようなやり取りを止めよ!武士なら潔く己の技と魂で熱くぶつかり合い、極限の遣り取りの中で心を語りあわぬかぁぁああああ!!!!!」
獅子の咆哮のような大喝だった。
幸村はイライラしていたのだ。
いざ敵大将のもとへ赴けば、己の部下が楽しそうに話込んでいるし、だからと言って入口はどこを探してもないし、やっとこさ突入してみればとんちんかんな内容でからかわれるし、せっかく空気が張り詰めたと思えばなんとも気持ち悪い曖昧な会話を始めるし。
直情型で、何事もきっぱりものをいう幸村には耐えられるはずもない空気だった。
むしろしばらく口を挟まなかったのを褒めてもらいたいくらいだ。
「松永殿!参られよ!!某は誠心誠意お相手仕る!!!」
限界まで切れてしまった幸村の様子に、佐助は素早く行動に移った。
「はいはいそれじゃあ俺様も主の命令通り一働きしますかね!」
飄々とした態度を崩す様子もなく一言宣言すると、寄り添うように主の傍らで武器を構えた。
臨戦態勢は完璧だ。
「行くぞ佐助!」
「はいはい付いてくぜ!」
勇ましい呼び声にいつもの答えを返して、佐助は足に力を込めた。
人が結構簡単に死んでしまうことも、命が儚いことも、いつか必ず散ってしまうものであることも知っている。
それはお館様だってそうだし、幸村だって例外ではない。佐助自身もだ。
けれど、忘れちゃいけない。
人は燃えるのだ。
火がつくまでちょっと時間はかかるが、どれだけ余分なものを削ぎ落としても油は必ず残っている。
それなら簡単だ。
もしこの炎が消えそうになったら、その中に跳び込めばいいのだ。
消えかけた炎は燃えうつり、この身を焼き、徐々に力を取り戻す。
後はこの身を糧に、炎はまた勢いを増して燃え盛る。
それだけだ。
消えかけたら己の血の一滴、魂の一欠片、最後の声の残響の一つまで、すべて糧にして繋ぐだけなのだ。
そうすれば少しでも長く、この炎は燃え続けることができる。
世迷い言のような答えでも、それは確かに佐助の内に宿る意志の一つだ。
他人どころか己にさえも告げぬ答えだけれども。
だから松永にも答えは返さない。
こんな物騒な奴にくれてやるものなど、殺意をのせた刃だけで十分だ。
「愚かな…」
松永の憐みと嘲りの混ざった言葉に対し、幸村と佐助は元気よく答えを返した。
渾身の一撃で。
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佐助の丸焼き?