“面白い”
不謹慎ながらもそんなことを思ってしまった。
部屋の隅で隠れるようにして蹲る一人の男の姿。
身に付けた装束は見慣れた迷彩の忍装束で、微かに揺れている髪は橙色。
そして目を閉じたままゆっくりと規則的に繰り返される呼吸。
明らかに寝息と分かるその呼吸は、幸村がどれだけ近づいても乱れること無く、眠りがどれだけ深いのかを物語っている。
この忍が。
幸村が触れることすら出来そうなほど近くにいるのに起きずに眠り続けているのだ。
珍しいどころの話ではない。
奇跡だ。
過去数回。…否、数十回。
幸村は佐助の背後を取ってやろうと、もしくは不意を突いて脅かしてやろうとしたことがある。
しかしどれもこれも良い結果は得られなかった。
端的に言うとこれ以上無いほど失敗した。
どれだけ足音を殺して近付いても、何故かすぐに気付かれた。
寝込みに仕掛けてやろうと夜を待ち、闇夜に紛れて部屋を抜け出した時も「何やってんのあんた!こんな遅くまで起きてちゃ明日辛いでしょ!」と説教されるし。
しまいには何かする前にこっちが不意を突かれて脅かされる始末。
打つ手がなかった。
ただの悪戯に薬など使う訳にはいかないし、武器や火薬など論外。
どうにもならずにふてくされていると、佐助から「まぁ忍の土俵で勝負しようとした心意気は買うけどね…」と意味のわからぬ賞賛を貰った。
そんな忍が今、目の前でこんなにも無防備な姿を晒している。
珍しいとか微笑ましいとかそういう感想よりもまず“面白い”という思いが込み上げてくる。
しかも何故か勝ち誇ったような気分になるから不思議だ。
けれど、別にこの思わぬ寝顔は佐助の怠慢が招いたものでも幸村の努力が実ったものでもない。
理由は簡単。
薬だ。
何かの手違いで、草屋敷の一室で煙玉が暴発したらしい。
しかもその煙玉というのが曲者で、薬を扱う忍の中でも随一と言われる“藤”の手によるものだったのだ。
この世のありとあらゆる毒でも死なぬという逸話から不死の名を冠した、藤。
彼の者の調合した強力な眠気を誘う薬が練り込まれたその煙玉は、もくもくと煙を上げて草屋敷を呑み込みかけた。
しかしそれを易々と許すような鈍ら者が真田隊に名を連ねているわけがない。その薬に耐性がある方の幹部たちが直ぐ様駆けつけて術で煙を空へと逃がした。お陰で被害は最小限に止められたのだが。
そこで最初から最後まで事態の終息に奔走したのが佐助だったのだ。
ぶっ倒れるに決まっている。
事が収まるまで意識を保っていたど根性は「流石は忍の中の忍!」と誉め称えるに値する行為だが、今は穏やかな寝顔を晒している。
功労を労いたくとも出来ないのが現状だ。
しかし面白い。
どうにも我慢できずにその寝顔を覗きこむと、すうすうと穏やかな寝息が頬を掠めた。
これほど近くに居るのに、目を覚まさない。
こうもじっくりとこの男の寝顔など見たのは初めてじゃないだろうか。
伏せられた瞼を縁取る睫毛は、髪の色のせいか黒より少し明るいように思える。
近くで見なければ分らなかったことだ。
それにいつもよりその顔が幼く見える気がするのは何故か。
俯いているせいで髪が顔を隠しているが、それでも下から覗きこめば大して邪魔にはならない。
無防備な寝顔が見放題だ。
この期を逃したらもう二度と拝めないかもしれない貴重な寝顔なのだから、出来うる限り見ておかなければ勿体ない。
(気持ち良さそうだ)
そんな感想を抱きつつ、その頬へ触れたくなってきた。
眠っている様子が猫や犬のように見えて、撫でてみたくなったのだ。
「海野、触ってみても良いだろうか…?」
佐助の寝顔の珍しさについ今まで存在を忘れていたが、佐助が寝ている、とわざわざここへと連れてきてくれたその男へ小声で問いかけた。
すると答えは首肯で返ってきた。
どうにも佐助を起こしたくないらしく、声を出そうとしない。
それに加えてあまり佐助の傍には寄らないようにしているのか、入口近くで腕を組んで立ったままそれ以上近づく気配はない。
しかし幸村が触ってみるのは問題無いらしい。
折角許しをもらえたのだから、ここは遠慮なく触ってみることにした。
流石に触れれば起きるかも知れないが、近くで声を発しても起きないほど眠りが深いのだ。
軽く触れるくらいなら起きないだろう。…そう思って。
しかし予想は外れた。
手が触れるか触れないかというぎりぎりの頃合いで佐助の目がぱちりと開き、完全にその目が開き切る前に手が掴まれた。
「すまん、起こしたか…?」
ある程度予想はしていたため大して驚かず、この男の忍としての技量に素直に感嘆した。
これだけ無防備な寝顔を晒していたというのに、僅かに触れようとしただけでここまで俊敏に動けるとは。
流石は忍の中の忍。
煙玉暴発の一件と合わせて賞賛を送りたい気持ちでいっぱいだが、どうにも佐助の様子がおかしい。
幸村が挨拶程度とは言え「すまん」と謝罪を口にしたのだから、いつもなら何かしら反応が返ってくるはずなのだが。
「佐助…?」
「だんな…?」
しかも問いかけが被った。
いつもは幸村が口を開く時は声を被せるような真似はしない。
やはり、まだしっかり覚醒はしていないらしい。
「すまん、まだ寝ておれ」
「手、これあんたの?」
「う…うむ、俺のだが?」
「ふーん」
どうにも会話がかみ合わない。
本当に起きているのかも怪しくなってきた。
しかし佐助は幸村の動揺を余所に、掴みっぱなしだった手をだらんと下ろしてぎゅっと握りなおした。
そして指が手のひらに固く残る胼胝を辿ってゆく。
「鍛錬、終わったの…?」
「朝の鍛錬なら一刻ほど前に終えたぞ?もう少しで昼餉だからな」
「槍の片づけ水浴び身支度着物は用意してあったっけ」
「ぜ…全部問題ない、ぞ」
句読点をつけてくれ。
思わずそう言いかけたがそこは賢明にも我慢した。
どうも佐助は起きているように見えて、半分ほど寝ているらしい。
いや、もしかしたらもう少し寝ている割合が大きいかも知れないが。
どっちにしろさっきから色々発言がおかしいのだ。
「その、何だ…俺は問題ないからお前は安心して休んで良いぞ」
「久々の休みは何処へ行こう」
「ま、待て!その休みでは無い!別に暇をやるとは言っておらん!!」
後ろで海野が噴き出す気配がしたが、構っていられない。
慌てて身を乗り出すと、ぼんやりしていた佐助が顔を上げた。
顔にかかっていた髪が後ろに流れて、表情の抜け落ちた顔が露になる。そこにいつもの笑みは無い。
「だんな」
呼ばれたのは馴染みの呼称だが、どうにもいつもと声の感じが違うせいで別人のように聞こえる。
不思議なものだ、と一人頭を捻っていると頬に何かが触れた。
「?」
何かと思えば佐助の指だ。
さっきまで掴んでいた手を放して、今度は顔へ手を伸ばしているらしい。
何がやりたいのか。
流石にこの状態の佐助の行動を予測することなど出来ず困惑すると、答えは本人から返ってきた。
「大福食ったろ」
「食っておらん」
「嘘だ」
「嘘など吐くか!」
「でも粉付いてる」
そう言って佐助が口元をぐいぐい拭ってくる。
しかし本当に大福など食べていない。
これから昼餉だというこの中途半端な時間にお八つを盗み食いするつもりは無い。
鍛錬の後で腹は減っているから、くれるというなら食べたいが。
「粉など…、おい海野?笑っていないで確認してくれ。俺の口に粉はついておるのか?」
振り返って海野を見やれば、今度は首を横に振っている。
やはり佐助の見間違いらしい。
「むぅ…濡れ衣ではないか」
面白くなくて佐助を軽く睨んでみると、向こうも似たような表情をしていた。
「佐助?」
思わず問い返せば、剣呑な声で問いが投げかけられる。
「海野、いるの?」
「あ…ああ」
何故か物凄く嫌そうな顔をしている佐助へ頷いてやれば、低い声で命令が下された。
「海野、下がれ。不寝番なら俺がする」
「御意」
一瞬で海野の気配が掻き消えたが、それよりももっと何か突っ込むべきところがあったのではないだろうか。
何やら不寝番とか佐助はのたまったはずだ。
今は真昼間。
もうすぐ昼餉という正真正銘の昼間だ。
そんな時間帯に不寝番なんて必要ない。
「い…今は昼だぞ…佐助」
もうお前は寝てしまえ。
そう本気で願ったが、佐助はなかなか寝てくれない。
自分ではいつもと変わらぬ態度をとっているつもりのようだが、まるでちぐはぐだ。
やはりまだ薬の効果は切れていないのだ。
「佐助、すまなかった。俺が無理やり起こしたせいだな…、もう寝て良いぞ」
「俺、寝てるの?」
「う…うむ?半分くらいはそうじゃないか?」
「ああ…どうりで体が言うこと聞かねぇと…」
気だるく髪をかき上げる仕草一つでも、酷く億劫そうに息を吐いている。
よっぽど眠いのだ。
「すまん…」
こんな状態の佐助を見て楽しんでいたかと思うと、流石に罪悪感が湧き上がってくる。
心底悪いと思って謝罪を口にすれば、なぜか佐助が楽しげに笑った。
「旦那だ」
「…お、おお?確かに俺は真田幸村…だが」
「俺の主」
「そうだな」
これは本格的に寝ぼけている。一刻も早く寝かさなければ。
内心焦ってそう決意したところで、佐助がくすりと笑い声を洩らした。
「俺にしては珍しく良い夢」
そんなことを言って、じっとこっちを見ている。
良い夢と言うのは何を指してのことだろうか?
咄嗟に分からずその笑顔を見つめ返せば、さっき拭われた箇所をもう一度撫でられた。
未だに粉が付いているとでも言いたいのだろうか。
「大福は食べておらんぞ…」
恨めしげにそう告げれば、佐助の笑みが深まった。
「どんだけ甘味好きなのあんた?」
「好きなのは否定せぬが、元はと言えばお前が言い出したことではないか」
「そう?…それじゃ、俺が起きたら買ってきてあげるよ」
「まことか!」
「あ、その顔」
佐助はへらりと笑ったまま、ゆっくりとこちらの頬を撫ぜた。
そして途中で力尽きたようにふらりと体が揺れて、倒れかけたのを思わず抱き止める。
眠りに落ちかけたその体はいつもより随分と体温が高い。
それでもこちらよりはずっと低くて。
熱を移すように項の辺りをそっと撫ぜると、胸元で吐息交じりの眠そうな声が響いた。
「起きた俺にも…見せてやって」
何をだ?と問いかけようとして、さっきの己が笑った顔だと気づいた。
とくりと鼓動が跳ねる。
「…ならば、お前は大福を忘れるな」
じわりじわりと上がり始めた己の熱を誤魔化すようにそう告げれば、胸元でこくりと首が僅かに動いた。
こんな寝ぼけた状態での約束を、起きた佐助がしっかり覚えているか定かではないが、もし忘れていたならば強請れば良い。
口では文句を言いながらも結局は買って来てくれるに決まっている。
「そしたら共に茶でも飲むか」
既に意識は無いであろうその身へ話しかければ、やはり答えは返って来なかった。
変わりにすうすうと寝息が聞こえてくる。
寝顔は見えないが、きっと心地よさそうに眠っているのだろう。
そして今から佐助が見るものこそ、本物の夢だ。
佐助が言うには、日頃から夢見は良い方では無いらしい。
寝惚けていたとはいえ、こんな何でも無いありふれた日常を“珍しく良い夢”と言ってしまう程だ。
今は穏やかに寝息を立てているが、これから本物の夢を見た場合、確率的には悪夢の可能性の方が高いということだ。
この心地よさそうな寝息が苦しげに変わることだって、大いに在り得る。
それならば。
「…悪い夢は、俺が貰い受けよう」
伏せられている頭に己の額をくっつけて、そう呟いた。
夢は移ると聞いたことがある。
女たちから聞いたのか、それとも城下で童たちに聞いたのか。
もう忘れてしまったが、何かのおまじないだと教わった。
佐助の意識がある内にこんなことをすれば絶対怒られるだろうが、今はそんなものは知らない。
見るかもしれない悪夢の一つや二つ、この身に移ってしまえば良い。
そして叶うなら、本物の夢の方にもこの身が存在していれば良い。
いつもみたいに笑って、どうでも良い話をしよう。
そうしたらさっきみたいに、良い夢だと言って笑ってくれるだろうか。
「お前には、良い夢を」
そう一つ願って、そっと体を離した。
「おやすみ」
部屋から立ち去る間際、幼い頃佐助に何度も言われた言葉を仕返しのように言い残す。
夢うつつに聞くその言葉は、部屋から佐助が去ってしまう時にいつも言い置いていくものだった。
眠る為のただの挨拶だと知ってはいても、それは一人にされるという宣告の意味もあって、酷くさみしく響いたものだ。
たったそれだけのことだけれど、悪夢の対価としてこれくらいは置いて行かせて欲しい。
そんな童子のようなことを考えながら。
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寝ている佐助を見て幸村が色々考える、っていう話を書いていたはずがこんなことに。
この後佐助の寝顔見たのを誤魔化すのに幸村は必死になるでしょう。
佐助は佐助で「あれぇ?」とか絶対疑います。でもちゃんと大福は買ってきます。偉いよ長。
佐助は忍としての矜持は高そうだと思ったので、寝顔晒さない方向で参ります。
そして拙宅の海野さんは佐助をからかう事に命を懸けています。
古株だからこそできるスリル満点の趣味です。