どうもこんにちは、由利鎌之助です。今日は湯治に来ています。






















































































































そこらじゅうから立ち昇った湯煙のお陰で、最近めっきり冷え込んできた空気もここは暖かくて心地いい。黒々と突き出した岩だって地熱のお陰で温かいし。座り込んでても全然寒く無いし。
湯治と言っても湯に浸かっているのは幸村様お一人で、俺と佐助ともう一人は護衛に来てるだけなんだけど、それでもこの暖かさなら見張りと言ってもそう悪くない。
それに幸村様だってすぐ傍に居るし。
それだけでもうこれ以上無いほどの優良条件だ。この任務、絶対後で羨ましがられる。
一緒に供に来た佐助は、さっきまで幸村様に程近い岩肌に凭れてのんびりと見張りをしていたんだけど、すぐに幸村様に呼ばれて今は湯船のすぐ傍で話し相手になっている。
何していようが佐助の危機察知能力は折り紙つきだし、護衛対象の幸村様だって供の必要が無いくらいの豪傑だから話し込むくらいどうってこと無い。
物騒な世の中と言えどこの隠し湯は領内だし、見張りも立てているから安全面は保障できる。
だから佐助で良ければいくらでも話し相手に持って行って下されば良い。
そう思って二人が居る方向へ目を向ければ、片膝を立てて座っている佐助と、その佐助が座っている岩肌に頬杖をついて楽しげに笑う幸村様が見えた。程よい高さの岩が湯船の中にあったのかそれに腰掛けていらっしゃるようで、肩までくるはずの湯は胸より下の辺りに留まっている。
そのお陰でここからだと幸村様の鍛え抜かれた上半身が良く見えた。
背に流した髪が濡れて肌にはり付いているとこだとか、健康的に日焼けした血色のいい肌だとか、何ていうかもう目の毒だ。そして何より、さっきまで粘っていた夕日が山の向こうへ沈んでしまったせいでここ一帯を照らすのは幸村様が灯してくださった篝火のみ。
炎が不規則に揺らめいて作る独特の陰影は、紅蓮の鬼と謳われる幸村様の姿をこれ以上無いほど惹きたてた。
だから俺が目を奪われるのも仕方が無い。
何度見ても思うのが、幸村様は良い身体をしているってことだ。
忍の俺達とは違った武人の体つきで、しなやかながらも力強く引き締まった体躯は思わず見惚れるほど。
いつかはお館様のようにもっと逞しい身体になってみせる、なんて良くおっしゃっているけれど、俺は今のままでも十分逞しい良い身体だと思う。
って…うおっ。
吃驚した。
佐助がこっちに向いて、冷やりとした視線を向けてきたからだ。
多分じろじろ幸村様の身体を眺め回していたのがいけなかったらしい。
確かに主の身体をじろじろ見ているなんて不敬にも程がある。が、別に疚しい気持ちで見ていたわけではないし、そこまで殺気の篭った視線を向けなくたって良いじゃないかって思う。
佐助はその辺ちょっと融通が聞かない。もう少しその辺妥協というか柔軟に見て欲しいところだ。
けれど悪かったのはこっちなので、視線はしっかり外す。
そうでないと佐助が怖いのだ。後でぶん殴られるのはいくら俺でも怖い。
しかし視線を外しても、聞こえてくるものはしょうがない。
目には瞼という便利なものがついているけれど、耳には蓋なんて出来やしない。
だから会話をたまたま俺の記憶力の良い頭が記憶していても、悪いことではないのだ。
「やはり湯治は良いものだな。疲れが湯に溶けて行くような心地がする」
穏やかな幸村様の声音と一緒に、水をぱしゃんぱしゃんと叩く音が響いてくる。
「そりゃ良かった。でも疲労回復よか俺はあんたの打ち身に効いて欲しいんですけどね」
対する佐助の返答は素直じゃない。
こういう時にそんな憎まれ口叩くんじゃなくて、もうちょっと優しい言葉をかけて差し上げればいいのに。
「分かっておるわ。だからこうして長い間浸かっておけるように肩を出しておるのではないか。しかもそれに関してはもう何度も謝ったであろう…」
案の定幸村様は機嫌を損ね、さっきまでの穏やかな声音は何処へやら。少し拗ねた声でそんな風に答えを返された。
実はつい最近幸村様は遠駆けに出られた時に、何故か野盗と出くわして少し負傷して帰っていらっしゃった。
何でも女子供を人質に取られた状態で一戦やらかしたそうで。
そこいらの野盗ごとき瞬殺だったろうに、人質を庇ったせいで打ち身擦り傷衣服はボロボロ。
供に付いてた連中は傍仕えの者も忍も途中で撒かれて役に立たなかったらしいし。
怪我が酷いものじゃなかったから良かったものの、一歩間違えば大惨事だ。
最悪の想像も出来てしまって、あの時は俺も一瞬頭の中が真っ白になった。
ほんとにその辺はもうちょっと幸村様にも落ち着いて貰わないと困る。
お供していた忍隊の連中については、「忍が主人に撒かれてどうすんだ!」って後から佐助に大目玉食らってた。
それから減給と鍛錬の追加も食らってた。それだけで済ますのはまだ温情な措置だったと思う。
そんなことがあったせいで、今日は隊内でも俊足の部類に入る俺と、長である佐助が供に付いている。
因みに外で見張りについてるのは黒助って奴で、夜目が利くからって今回付いてくるように言われたらしい。
真面目な奴だから今頃外で目を皿のようにして見張りに当たってるんだろう。
それはそうと、幸村様と佐助の会話は継続中だ。
口論になりそうな雰囲気だったのに、何故か楽しげ様子に逆戻りしている。喜ばしいことだけど。
「以前お前は確か、温泉は飲んでも身体に良いと言っておったな?」
「あーうん。味は微妙だけど」
「微妙?」
「どっちかっていうとしょっぱい…ってのが一番近い表現かな」
「ふむ…苦くは無いのか?」
「苦味は無いよ。舐めてみれば?」
「……。微妙な味だ」
「だから言ったでしょ」
「何というか…これは、しょっぱいな」
「だから言ったでしょ」
「しかも美味くない」
「不味くないんならいいんじゃないの?」
「むぅ…しかし後味が悪いというか…うむぅ…」
何というか、微笑ましい。
いつも思うけどこの二人の会話は何故か心が和む。
「口直しをかねて冷水汲んであるけど飲む?」
「おおっ気が利くな!貰おう」
弾けた明るい声に視線を二人に戻せば、幸村様が破顔して佐助に手を伸ばしているのが見えた。
だからここに来る前に水筒に水汲んでたのか佐助。
やっぱり細かいとこに気が回るし、そういうところはいつも感心する。…忍の仕事じゃない気もするけど。
「ついでに酒もあったり…」
「お前こそ忍の中の忍!!」
佐助ほどの忍になる為にはこういうことも出来なくちゃいけないのかぁ…なんて本気で迷った自分が悲しい。
明らかにこれは忍の仕事じゃない。
っていうか佐助ってばちゃんとつまみまで用意してやんの。
保存食用に作っといた鮭の燻製。
そのまま食べるには塩辛いけれど、つまみには最適だ。
「そいじゃ一献」
「お前も飲まぬか?」
「気持ちだけ貰っとくよ」
「…つまらぬ」
「そんな顔しても駄ー目!仕事中に俺が飲まないのあんたも分かってて聞いたでしょうが」
「少しくらいならと…」
「駄目です。とりあえず酌で我慢してくれよ」
そんな感じでささやかな酒宴は始まった。
佐助の所作はお世辞にも流麗なんて言えるものじゃなく、どちらかというと粗野に近い。
片膝を立てて座ったまま、手を添えるでもなく片手で徳利を傾ける仕草は丁寧のての字も無く、相手が幸村様で無ければ無礼を咎められているところだ。
でもそんな仕草は何故か様になっていた。
何処をどう見ても忍にしか見えない男なのに、例えば武人のような、貴人のような、ふと目を奪われるような所作をとるのだ。
幸村様に恥をかかせるまいと、一通りの礼儀作法は習ったとどこからか聞いたことはあるけれど、それのせいなのだろうか。
しかし武田に属する多くの武将を見ていても、俺達忍が目を奪われるようなことなんて無い。
ということは佐助のこの、完成しているようでどこか砕けている粗野な所作が俺の目に好ましく映っているということなんだろう。
盃を受けているのが幸村様だからっていうのもあるだろうけど。
なんてあながち外れてもいないような視覚効果を分析しつつ、注がれる酒を見やれば。
抜け目の無いことに、持参したのはほんの少量。湯に浸かると酒が回り易くなるから気を遣ったらしい。
幸村様は酒に弱い方ではないけれど、念には念をいれたのか。相変わらず佐助はその辺り心配性だ。
そんな少量の酒を、幸村様は惜しむでもなく一口で盃を空けた。
相変わらず豪快な御人だ。
「そんな調子で飲んでるとすぐ回っちまうよ?」
「初めの一杯は一息で干さねばな」
「どんな拘りですかそりゃ」
「この方が見てて快いだろう」
「そりゃそうだろーけどね。でも量持ってきて無いから加減して飲みなよ?でないとあっという間に無くなっちまう」
「分かっておる。それより何処で冷やしたのだ?熱には困らぬ場所故、てっきり燗の方かと思ったが」
「すぐ傍の沢でだよ。もうちょっと寒くなったら雪で冷やせたんだけどね」
「十分冷たくて美味いぞ?」
「そりゃ良かった。まぁあんたが日頃口にしてるような良い酒じゃないから燗した方が味は誤魔化せたかもしんないけど」
「そうか?冷でも十分美味いが…」
「そう?」
「疑うなら飲んでみろ」
「あーそれじゃ一口…ってコラコラ何乗せようとしてんだよ!!」
「ちっ…」
「舌打ちしない!」
うっかり乗せられて一口飲みそうになってた佐助が慌てている。
幸村様ってば意外と策士。
けれどちょっとした悪戯心から来る行為だったらしく、舌打ちしつつも幸村様は楽しそうだ。
「あと少しだったというに…」
「確かにちょっと危なかったけどね」
「お前でもこれくらいの引っ掛けに掛かりそうになることはあるのだな」
「そりゃ俺だってそんくらいありますよ。第一あんた相手に警戒しててどうすんの」
「それはそうだ」
暗に信じてます、って佐助に言われて幸村様はご満悦だ。
佐助は意識せずにそうやって幸村様を喜ばせることを言うところが凄い。
相手にとって胸を射抜かれるに等しい言葉をぽんぽん日常で無意識の内に発して、お互いに赤面してることだって良くある。
周りからしてみれば勝手にやってて下さい、って感じだけど見ていて微笑ましいのも事実。
因みに俺は楽しんで見てる方。
だから日頃楽しんで見ているやり取りを、こんな風にゆっくりと聞いていられるのは中々心地がいい。
そう思って口元に笑みを浮かべれば、温まった胸のうちを冷やすかのように、いきなり木枯らしが吹き込んできた。
傍に生えた木々の枝葉を揺らし、かさかさと音を立てて残り僅かとなっていた枯葉を見事に掻っ攫ってゆく。
この強さの風だと、間違いなく二人の方へも届く。
「む?風が冷たいな」
「寒いなら肩まで浸かんなさいよ」
そう言って酌の手を休めた佐助の手を、幸村様が不意に掴んだ。
「何?」
「お前も入らぬか?」
「あー…や、それも気持ちだけ貰っとく」
「そう言うな。俺だけ浸かっているのもどうにも居心地が悪い。…昔はよく入っていただろう」
「昔は昔、今は今!第一今日は護衛に来てんの!風呂入って寛ぐなんて論外でしょーが」
「海野と十蔵は供として来ても一緒に入ってくれたぞ」
「はぁっ?!」
これには流石の佐助も吃驚したようだ。
そりゃあ部下が知らない間に幸村様と風呂入ってた、なんて知らされれば誰だって驚く。
しかも大抵のことはどんな些細なことでも佐助に報告のいく幸村様絡みのことなのに、今聞かされたのが初耳だというのだから驚くのも無理は無い。
種明かしすれば、幸村様ご自身に口止めされていたから、というのが最大の理由だ。
実は幸村様はいつも同じような理由で断られているで、『お供に来ても一緒に風呂に入った』という前例を作ってしまわれたのだ。
邪気の無い笑みで作戦を伝えられ、「そういう事だから一緒に入るぞ」なんて言われて断れるような奴は隊内に佐助を除いているはずが無い。
二人とも喜び勇んでお供して、年甲斐も無くはしゃいで入っていた。
その時も見張りに就いていた俺が、そのはしゃぎっぷりに頭痛を覚えるほどに。
「というわけだからお前も入れ。気持ち良いぞ?」
「え、いや…。あいつらホントに入ったの?!」
「うむ。本当に入ったぞ。…なぁ鎌之助?」
「入ってましたよー。ついでに背中も流して貰ってましたよー」
幸村様の問いかけにしっかりと答えて、余計なことまで付け加えておく。
あれは流石にやりすぎだと俺も思ったのだ。帰って佐助に絞られるといい。
「言質もとれたぞ。俺は嘘は吐いておらぬ」
「…へぇ」
「ん…?どうした佐助?顔が怖いぞ?」
俺はちょっと今さっき付け加えた余計な言葉を撤回したくなった。
戦場でも無いのに項がちりりと危険を告げ、忍としての悲しい性がついつい武器に手を伸ばす。
しかし慣れた得物を手にしても、どうやって元を断てば良いのか。
発信源は佐助なのに。
もう「恐怖」の一言に尽きる。
忍の中の忍なんて言われているだけあって、俺らの長はとんでもない奴だ。
暗殺密偵戦働き、どれをとっても超一流。
掃除洗濯飯炊き甘味、忍と関係ないことまで超一流。
そんなとんでもない腕を持った男が本気で怒ればどうなるのか。
想像するだけでも頭の中が真っ黒になるのに、今現在そうなりかけているのだ。
しかも普段あんなにへらへらしているこの男が他愛の無いことで本気になるのは、幸村様に関してのみ。
俺ってばなんでこんな危ない綱渡りしちゃってるんだろうか。
目が「何でお前止めなかったの?」と物凄い鋭さで語りかけてきている。
戦場のど真ん中に無造作に置いておけば軽く一小隊くらい全滅させられるんじゃないだろうかと思うほどの鋭さだ。
もし殺気が凶器になるのなら、俺は今頃全身針鼠になっているだろう。
見ていただけの俺がこうなんだから、一緒に湯に浸かった海野のおっちゃんと十蔵がどうなるのか。想像するだけで怖ろしい。
内心がたがた震えていると、存在自体が陽光みたいな幸村様がその極寒の視線を遮断してくれた。
「佐助、これでもう断る理由が消えたぞ」
「って言われても…」
「往生際が悪い」
「いやいややっぱり一緒とか」
「嫌なのか?」
「そうじゃなくて、恐れ多いっていうか…」
「やはり、…嫌なのか」
一瞬傷ついたような表情を浮かべた幸村様に、佐助が跳び上がった。
「ちちち違う違う違うからっ!!決して嫌とかではなくっ…ああもう何でそう」
「お前が嫌だというなら仕方が無い…。今までしつこく我侭言ってすまなかった」
「だから違うってば!!嫌じゃないから!!むしろ嬉しいから駄目なんだよ分かるこの複雑な俺様の心境?!」
「嬉しいなら入れば良いではないか」
「そう言われりゃ終いなんだけど…、その前に一緒に護衛に来てるやつらもいるんだよ?」
「…?」
「俺様だけぬくぬく温泉浸かって寛いでちゃ合わす顔が無いってこと」
流石は佐助。あの手この手で逃れようとしている。
しかし幸村様も負けてはいなかった。
「それなら問題ない!俺と佐助が上がった後に鎌之助と黒助の二人が湯に浸かれば良かろう」
「はぁ?!」
「鎌之助!安心していいぞ!俺と佐助の守りならたとえ千の兵だろうと通しはせぬ!」
「わぁありがとうございますー」
ついつい幸村様の熱い宣言に感動してお礼なんて言ってしまったが。
…しかしその前に、だ。
「ちょっと待った旦那!!それじゃ本末転倒だから!!何で護衛対象のあんたが護衛を護衛すんの!!」
「もっと分かり易く言わぬか!!護衛護衛と意味が分からぬ!」
「だからあんた守る為の俺らなのに、そのあんたが俺らを護衛してどうすんの!って話!!」
「この武田の領内で俺を暗殺できるような手練が襲ってくるはずなかろう!!」
「限りなく零に近いだろーけどほんの僅かでもその可能性があるから俺たちがいるんだって!」
「どのような敵でも一歩も退かぬ気概で臨もうぞ!」
「だーかーらー!!!」
こういう口論でなら勝つのは佐助だ。
さっきの泣き落とし…というか情に訴えかける作戦の方が勝算は大きかった。
このままでは佐助に丸め込まれてしまう。
だから俺は佐助が後からどれだけ激怒するか分かっていて、この言葉を口にした。
「幸村様ぁー俺らのことは気にしなくて良いんでご自由に湯浴みなさって下さーい」
「んなっ?!由〜利ぃ〜〜〜!!!」
「そうか!では鎌之助達とはまた今度来ような!」
佐助の殺気の篭った絶叫はもの凄く怖いけれど、幸村様のこの言葉で全て救われる。
この方は何てお優しいのだろうか。
次も一緒に連れてって貰えるなんて俺ってばなんて幸運!
「さぁ佐助!入るぞ!!」
「ま…待ちなって、旦那ちょっと」
じりじり距離をとろうとする佐助の足をがっちりと幸村様が掴んでいる。
あの方の握力を知っている者ならまず逃れることを諦めるだろう。
「それとも佐助、装束を脱がぬまま湯に引き擦り込まれたいのか?」
幸村様が良い笑顔だ。
邪気の欠片も見当たら無い表情を浮かべているというのに、言っていることは結構黒い。
「それとも、お前はこんなことでまで俺に命令させたいのか?」
不意に声を落として言われた苦笑交じりのその言葉に、何か言いかけていた佐助がぐっと詰まった。
命令になら従うのは簡単だった。
けれどあくまで“お願い”の姿勢を崩さぬ幸村様に、佐助が揺れに揺れている。
佐助はどうにも幸村様のこの“お願い”に滅法弱いようなのだ。
「分かったよ…」
「まことか!!」
結局折れた佐助に向かって、幸村様はぱっと顔を輝かせた。
この笑顔に何人陥落させられてきたのか。それを思うと目頭が熱くなってくる。
けれど次の一言でその笑顔が一気に曇った。
「でも足だけね」
「…っな、何故だ!!」
「もー頼むからこの辺で許して?僭越ながら足だけ浸からしていただきますんで」
「……やはり引き擦り込むか」
「わーちょっと!!頼むから許してってば!!お願い!お願いします!!」
未だに納得していない様子の幸村様を放って置いて、佐助はぽいぽいと履物と足袋を脱ぎ始めた。
今日はいつもの忍装束ではなく、地味な柄の小袖を纏っているので仕込んだ武器もそう多くは無い。
足だけなら脱ぐのもすぐに済む。
「仕方が無い…。これだけでも良しとしてやろう」
しぶしぶながらも幸村様からのお許しが出たところで、佐助がそうっとお湯に足先を伸ばした。
しかし。
「ぅ熱うっ…!!」
足先をちょこっと浸けただけで、佐助は慌てて足を引っ込めてしまった。
そんな大層な…とも思ったけれど、お湯に浸けた部分の肌は真っ赤になっている。
本当は物凄く熱かったりするのだろうか。
「そんなに熱がることも無いだろう。…ほら、足が冷えておるせいで余計に熱く感じたのだ。ちょっと貸してみろ」
そう言って幸村様は佐助の足をがしっと掴んで引き寄せた。
「ちょちょちょっと待っていきなり浸けたら絶対熱い!!うわっこら待てって!!旦那ぁ!!」
佐助の情け無い叫び声を見事に聞き流し、幸村様は程よく温まった手で佐助の足を包み込んだ。
「へ?」
「こうやって温めておけば湯に浸けても熱く無いだろう」
「…え、あ、そう」
「…どうした?変な顔になっておるぞ?」
「いや、何ていうか…あんたも大きくなったもんだと思って…」
「ふふふ…お前とももうほとんど背丈が変わらぬようになったからな!」
「や、そういう意味じゃ無かったんだけど…」
佐助は足を熱湯に突っ込まれる覚悟を決めていたんだろう。
しかし思いもよらぬ穏便策に呆気に取られたみたいだ。もちろん良い意味だけど。
「そろそろ温まったか?ちょっと浸けてみろ」
そう言われて佐助は恐る恐るお湯に足先を伸ばした。
普段信じられないような戦地へもやる気無く笑って飛び込んでいくような男なのに、こんなことで尻込みしている様子はどうも可笑しくて仕方が無い。
「んー…まぁさっきよりまし、かな?…うん、我慢出来なくも無い」
「そうか」
そのまま満足したように笑った幸村様は、ちゃぷんと音を立てて肩まで湯に浸かりなおした。
いくつかある隠し湯のうちでも、ここのは深さが結構あるほうで、背筋を伸ばして座らないと顔まで浸かってしまう。
奥のほうへ行けば足も着かなくなるほど深く、更に熱くなってしまうから注意しておかないと火傷を負う可能性もある。
「旦那ぁー奥行ったら危ないからなるべくこの辺にいてよ?」
案の定佐助は泳ぎだしてしまいそうな幸村様に向かって小言を言った。
いつもならここで幸村様の「それくらい分かっておるわ」という反論が可愛らしい仕草と共に返ってくるはずなんだけど、今回は違った。
にんまりと笑って幸村様はすい、と水を掻くと佐助の方へ近づいて、湯に浸かったままの佐助の両足を取った。
「うっわあんまり波立てたら裾が濡れちまうっての!ちょっと旦那おとなしく浸かっててくれよ!」
幸村様が勢い良く動いたせいで、佐助の腰掛けている岩に向かって湯が波になって押し寄せたようだ。
何とか淵まで湯が上がることは無かったみたいだけど、後もう少しで完全に掛かっていた。折角足だけ浸かるってことで許してもらったのに、意味が無くなるところだ。
幸村様は佐助のそんな様子に笑って「すまん」とおっしゃった後、ぱしゃぱしゃ泳いで佐助の両膝の上に顎をこてんと置かれた。
言っておくが可愛い。
物凄く可愛い。
見張りそっちのけで凝視したいくらいには可愛い。
案の定佐助は色々ぶっ飛びそうになったのか、げふんげふんがふごふっと変な咳をして目を、…というか顔ごと思いっきり逸らした。
あの距離であの角度だと相当威力は凄かったはずだ。
流石は佐助。それを食らってあんな程度の動揺で済ませるとは、やはり忍の中の忍だ。
「佐助、頭を洗ってくれ」
「あんたなぁ…」
上目遣いでそんな風にお願いされて断れる人間なんているのだろうか。いや、居はしまい。
佐助は口では嫌そうにしている癖に、手は桶を引き寄せているので準備は万端。洗う気満々だ。
「ちょっと…んなとこに顎乗っけてたら洗えないでしょーが。向こう向いて座る!」
「うむ!」
幸村様は上機嫌でくるりと方向を変え、ざぷんと肩まで湯に浸かり直すと、さっきから掴んだままの佐助の足を両手で交互に動かし始めた。
「ちょっと旦那!頭洗って欲しいなら足放す!!」
「む…それなら片足にするか」
「はぁ?両方放さないと洗いにくいでしょーが」
「良いから片方だけ俺に貸せ」
「もー!一体何なの?」
「礼に揉んでやる」
「へ?」
幸村様は佐助の片足を放すと、残った片方を丁寧な手つきでうにうにと揉み解し始めた。
「えっちょっ何やってんの!!!」
「頭の礼だ」
「いやいやそんなことしなくて良いから!!」
「俺が好きでやっておるのだ。こうすると疲れがとれるらしいぞ」
「だーかーらーもうっ!!俺様にどんだけ僭越行為許す気だよ!!」
「その言葉は俺は嫌いだ」
「嫌いでも必要なことなんだってば!!」
「人前で控えるくらいの分別は持っておるぞ?」
「〜〜〜〜〜〜っ」
驚いたことに、幸村様が口で佐助に勝利された。
今までに無い快挙だ。
これは帰って隊の奴らに言って、赤飯用意しないといけない。
「大体お前はいつまでも俺を子ども扱いしすぎなのだ」
「そーいうことは甘味食いすぎて腹壊したり寝てる時に布団蹴って熱出したり頭洗ってって我侭言ったりしなくなってから言って欲しいんですけどー…」
「誰かれ構わず我侭言っておるわけでは無かろう」
「甘味は無視?」
「…それに関してはもう少し胃袋を鍛える」
「意味ねーよっ!!!」
「寝相が悪いのは諦めてくれ」
「ある意味潔いけどさっ!!」

「佐助」

不意に幸村様の声の調子が変わった。
吸い寄せられるような声音に、背筋が伸びるような心地がする。
佐助もそれは同じようで、さっきまでの茶化した雰囲気は一掃して、足元の位置にある幸村様の後頭部付近を真面目な顔で凝視している。
急に引き締まった空気は辺りの音すら巻き込んで、さっきまで頭の片隅に捉えていたはずの沢の音までここへと響かせてきた。ざあざあと水の流れる音がどうにも冷たい。思わず腰掛けた岩に手を押し当てて熱を確かめた。
たまに爆ぜる篝火の音もやけに大きく響く。それよってひときわ大きく揺らめいた炎は、幸村様の表情を俺に鮮明に届けてくれた。
けれど佐助の位置からはあの顔は見えない。
綺麗な形の眉を僅かに寄せて、それと分からぬくらい目を眇めて、奥歯をかみ締める。
一点のみを見据え、ゆっくりと瞼を下ろし、同じ速さで開く。そして宿った静かな眼光。
あれは耐える表情だ。
だからさっき幸村様は“頭を洗ってくれ”と言って、背を見せたんじゃないだろうか。
「なぁ佐助」
「はい」
「…お前が俺に極力肌を見せぬようになったのは、幼い頃お前の傷を見て俺が泣いてからだろう?」
佐助の身体がぴくりと動いた。
表情を動かさないのは流石だと思うけど、幸村様は佐助の足を掴んだままだ。
動揺は悟られているに違いない。
「湯治に付き合ってくれぬようになったのは、幾つか前の戦でお前が大怪我を負って死に掛けてからだな」
幸村様は、酷く静かな声音で話されている。
佐助は何も答えない。
「見くびるなよ?俺はもう弁丸ではないし、お前の傷を見て泣き出す童でもない。そして部下の大怪我の名残を見て取り乱すような情け無い主でも無いぞ」
少し拗ねたような口調で言われた言葉に、佐助が顔を歪めた。
多分痛いのだろう。…色々と。
佐助から幸村様の表情は見えないけれど、それは幸村様も同じだ。
佐助が情け無い表情になっているのを幸村様は知らない。
けれど多分肌で感じていらっしゃるのだろう、同じように泣きそうな顔をした幸村様は首まで湯に浸かって、一言。
「それくらい、背負わせぬか…馬鹿者」
少し震えた語尾に、佐助が腰を浮かした。
手を幸村様に伸ばして、振り向かせようとした。
しかし。

ぶくぶくぶくぶく…

佐助の手が肩を捕らえる刹那、幸村様はぽちゃんと湯に頭まで浸かってそのまま上がって来られなくなった。
泡の弾ける間抜けな音が響き、佐助の伸ばされた手は行き場をなくす。
「………。」
しかし呼吸三つ分待っても中々浮き上がっていらっしゃらない。
そろそろ息が続かなくなってくる頃のはずだが。
「ちょ、ちょっと旦那?旦那ぁ?!」
返す答えはさっきと変わらずぶくぶくぶく…だ。
幸村様は泳ぎも得意だけれど、流石にそろそろ上がってきてもらわないと困る。
俺が動こうかと思った瞬間に、佐助がばしゃんと湯の中へ降りた。
「ちょっと旦那そろそろ上がんないと!!息!!」
引っ張り上げようとした佐助の力もなんのその、幸村様は潜ったまま、すいと泳いで逃げてしまわれた。
「なっ?!ちょっと旦那ぁ?!」
もちろん佐助は手を放すはずは無い。
そして力勝負でどちらに軍配が上がるかなんて考えるまでも無く。
佐助は案の定湯の中に引っ張り込まれた。
大きく上がった飛沫。
冷静な奴だから無様にもがいたりすることは無かったけれど、勢い良く頭から突っ込んでいったのはこの男にしては珍しい失態だ。
未だに動揺から立ち直っていないらしい。
衣は見事にずぶ濡れ。髪も濡れ放題。もともと明るい色の髪が水を吸って普段より濃くなっている。
しかもいつもなら体術で幸村様に後れを取らぬ男なのに、見事に組み伏せられて湯の底へ沈められていった。
幸村様は佐助を引き摺り込んだことに満足されたのか、すぐに勢い良く水面に浮上してこられた。顔を出した瞬間にぜぇはぁと肩で息をしている様子から、かなり息が苦しかったことが分かる。
でも見た感じ無事そうなので、こっちは浮かしかけていた腰をもとの場所へと落ち着けた。少し燻っていた不安な思いがすとんと抜けてゆく。
安心してふぅと息を吐いたところで佐助がゆっくり顔を出した。
髪からぼたぼた湯が滴り落ちて「あち…」なんて言っている姿はそれなりに様になっているが、幸村様を視界に収めた瞬間一気に情け無い顔になった。
幸村様の言葉を待つように湯の中でじっとして、落ちる水滴を構うことも無く、顔に貼り付いた髪も払わずにじっと動かない。
「馬鹿佐助め」
言って伸ばされた幸村様の手に、佐助は一度だけぱちりと瞬いた。
そのままその手をじっと見据え、顔に貼り付いた髪をゆっくりと掻き上げてゆくのもされるがまま、何度か梳かれるように動く幸村様の腕をじっと見ていた。
しかし幸村様の手が離れた瞬間、今までぴたりと動かなかった佐助が離れていくその手を掴んだ。
力なんてほとんど入れられておらず、幸村様ならほんの少しの力加減で解けてしまいそうな緩い拘束だ。引き止めたいのか振り払って欲しいのか分からない。
けれど幸村様は解こうとはせず、逆に強く握り返した。
「馬鹿佐助め」
もう一度言われた言葉に佐助がゆっくりと目を伏せる。
眉根を寄せて悔いる様子は俺から見ても男前。
佐助が真面目に反省しているところなんて滅多に見られるものじゃない。
あの男は仲間内でさえそういうものを見せない格好付けだから。
だから今のうちに目に焼き付けて、帰ったら隊のやつらに話してやるのだ。
「…すんません」
佐助は一言謝罪を口にして、困ったように笑って見せた。
この不器用な笑い方に、実は幸村様は滅法弱い。
佐助はそれに気付いていないからたまにこうやって笑う。もし幸村様がこの笑い方に弱いと知ってしまったらこれから一生この表情は浮かべなくなるだろう。あいつはそういう奴だ。
それを無意識ながら察している幸村様は、隠し事が苦手なのに必死でそれを隠してる。
なんとも涙ぐましい努力だ。
そんな健気な様子に絆されて、今では忍隊総出でその弱点の隠匿に掛かっている。今のところ『佐助に言えない忍隊の掟』の中でも最優先事項だ。
そんな努力をして隠しまくっている幸村様の弱点は、今回も見事に作用したようだ。
「…頭を洗え」
「はい?」
唐突に言われた幸村様の言葉に、佐助は分からず首を傾げた。
「背中も流せ、さっきの酒もまだ足りぬ、上がった後は甘い物を持ってこい」
「ちょっとちょっとちょっと」
幸村様の次々と飛び出てくる我侭に佐助は未だに混乱しているようだけれど、俺には察しがついている。
この後の展開も。
「あと、一緒に風呂に入るぞ」
「いったい何…」
「それで許してやろう」
やっぱり。思った通りだった。
佐助が謝るようなことが起こった場合、幸村様はいつも何かしら理由をつけて許して下さる。
普段は幸村様が無茶をして佐助がお説教する、っていうのが殆どなのに、たまに起こる立場の逆転の際はいつもこんな感じだ。
他愛の無い我侭を佐助が叶えて、それで終わり。
今回の件に関してはもう少し臍を曲げていたかったみたいだけど、佐助にあの顔をされたらそんな思いは吹っ飛んでしまったのだろう。
「どうだ?良い条件だろう?」
にやりと男前に笑った幸村様をあんな近距離で視界に収めて逆らえるわけが無い。
案の定佐助は呆気なく落ちた。
「りょーかい…」
力なく言われた承諾の言葉に、幸村様は快活に笑って早速行動に移された。
「そうと決まれば風呂は全裸と決まっておる。さぁ脱げ!!」
「ぎゃあ――――っ!!自分で出来ます出来ますって放してちょっと破ける破廉恥―!!!」
力技で剥かれてゆく佐助を腹を抱えて声を殺しつつ笑いながら(結構難しい)、俺は水を差すわけにも行かないので気配を潜めた。
幸村様は佐助の抵抗を物ともせず、上衣を取っ払って、下に着込んでいた黒地の忍服も手早く剥いてしまわれた。
幸村様の腕がいいのか、それとも佐助が情けないのか。それは今の俺には判別できなかったけれど、どっちにしろ佐助は今現在相当格好悪いことになっているのは間違いない。
やっぱり佐助が情けないということにしておこう。
後は下を残すのみとなった佐助を満足げに見遣った幸村様は、露わになった佐助の肌を直視した瞬間、少し口をかみ締めて動きを止めた。
ばしゃばしゃと騒がしかった水の音が止み、またも一時の奇妙な静寂が戻ってくる。
つい動きが止まってしまうのも無理はない。
取り乱すとまでは行かなくても、あの傷痕を見れば誰だって息を呑む。
肩から腕に掛けて、脇から胸に掛けて。そして腹。
酷い傷を見慣れている俺ですら“良く死ななかったな”って思うほどの傷跡がくっきりと残っている。
もう完全に塞がっているものの、引っ掻けば今にも血が滲み出してくるのではないかと錯覚しそうになる。
それほど、酷い傷跡だ。
幸村様は眉を少し寄せて、佐助へと無理やり笑って見せた。
「俺がこういう反応をするのが嫌だったのだろう?」
佐助は問いには答えず、困ったように笑い返した。
あれは肯定の意味の笑いだ。
普段饒舌な癖してこういう時は言葉にしない。
「しかし、もう泣かぬぞ…俺は」
誓うようにそうおっしゃった幸村様は、肩から腕に走った傷を指でそっとなぞった。
「酷い傷だな」
「人様には見せらんないくらいにね」
「だが俺には隠すな」
「……」
佐助の軽口も、幸村様に掛かれば威力をなくす。
あんな風に真剣に返されれば、誰だって言葉が出てこない。

「もう、隠すな」

祈りのように響いた言葉は、忍の心を溶かす。
内側から思いっきり揺さぶられたみたいな心地になってしまうのだ。
いつも、この方の言葉は。
「………」
無言のまま、佐助が揺らいだ。
傾ぐように身体が前に崩れ、湯を掻いて手が伸ばされる。
ゆっくりと伸びた指先は幸村様の方へ伸ばされ、肩に触れる。
そのまま滑るように動き、そして。
俺はこのとき佐助は幸村様に縋りつくのかと思った。
あれだけ僭越行為がどうとか、主従の線引きがどうとか煩かった佐助が、自分から崩れるのかと思った。
けれど、違った。
奴は、あの鉄壁の理性の持ち主は途中で分かるか分からないかくらい動きを止めて、次動かしたときにはさっきまでの危うい空気は微塵にも感じさせなかった。
そして何を言い出すかと思えば。
「頭洗ったげるよ」
そんな見当外れな事を言って、肩を掴んだ佐助は勢い良く幸村様を反転させた。
湯の中は体重がなくなるから回し易いのは分かる。
分かるが。
俺は脱力してその場にへたり込んだ。
誤魔化すにしても、もうちょっとやりようがあるだろう!
何でこんな間抜けなことをするのだろうか。
幸村様は突然の回転に驚いて「うおおわわ」とかよく分からない言葉を発して吃驚してるし。
案の定驚きから立ち直った瞬間に文句を口にされた。
「佐助!いきなり回すな!」
「うんごめん」
「謝るくらいならやるな!!というかその前に手を放せ!!」
「うんごめん」
「だから放せと言っておろうが!!何故明後日の方向向いて説教せねばならんのだ!!」
「うんごめん」
「だからこのっ放さぬかっ!!佐助!!」
何だこの二人は。
幸村様は必死に佐助の方に向き直ろうともがいていらっしゃるし、佐助は湯すれすれに顔を伏せて、俺に顔を見られないようにしている。
そして幸村様にも見られないように必死に肩を押さえつけている。
そんなに見られたく無いなら、いっそさっきの幸村様みたいに潜ってしまえばいいのだ。
というか今更誤魔化そうとしても、幸村様ならともかく俺にはばればれなのに。
伏せられて見えない佐助の表情は、多分赤い。そんで少し泣きそうになってるはずだ。
こんな離れたところで眺めているだけの俺ですら、少し揺れた。
当事者だった佐助がどうなったかなんて、面白いほど想像できる。
今頃必死で内面を落ち着かせているはずだ。表情も同じく。
未だに無駄な抵抗を続けている佐助だけれど、そろそろ押さえつけているにも限界だ。
幸村様の腕力は馬鹿力と言ってもいい位だし。あ…もちろん誉め言葉としてだけど。
佐助が自分を落ち着けるのが先か、幸村様が佐助の束縛を振りほどくのが先か。
「ぬぅぅぅううがぁ!!」
「あーもうちょい待って旦那」
「お前あんなに身軽な癖してどこにそんな力を隠し持っておったのだ!!」
「力であんたに敵うはず無いっしょ。抑えるのにコツがいるの」
「…このっ、ふぬぁっ!!」
幸村様は再度一つ吼えて、ばしゃんと大きく水を掻くと見事佐助を振りほどかれた。
どれだけ佐助が巧みに押さえ込もうと、それを凌駕する力で跳ね除ければ良いのだ。
…といっても今のは佐助が少し押さえ込む手を緩めたからだろうが。
「どうだ佐助!!見事振り解いたぞ!!」
「おー凄い凄い。でもこの向きだと頭洗えないよ?」
「はっ!!しまった!!」
何の為に振り向いたのか、幸村様は既に忘れてしまわれたようだった。
一つのことに熱中すると他が見えなくなってしまうことがあるのはいつものことだけれど、これは流石に単純すぎる。
そんな幸村様を貶すべきか、その辺をよく分かっている佐助を誉めるべきか。
敬うべき主を相手に俺は本気で思案してしまった。
一応一つの手としてここで俺が「佐助に説教するんじゃなかったんですか?」と本来の目的を思い出してもらうように忠言することもできるけれど、そんなことをしたら佐助的にかなりまずいことになるのは目に見えている。
才蔵あたりならそういう恐ろしいこともさらりと言って、佐助をからかったりすることも出来るだろうけれど、俺にはそこまでの勇気は無かった。
それくらい己を弁えているのだ。
佐助は上手い具合に誤魔化せたことに安堵して、相変わらずの器用さを発揮して幸村様の頭を丁寧に洗っている。
指の腹で緩く力を入れて洗うあのやり方はやたらと気持ちがいい。
一度忍隊で争奪戦になったことだってある。因みに勝ち取ったのは俺。そしてその後幸村様に何とも言えない目で見られてから、『佐助に言えない忍隊の掟』に“佐助に頭を洗ってもらうべからず”何ていう項目が増えたりもした。
因みにこれは幸村様にも言えない。
可愛らしいと笑ってしまえるような幼い独占欲は、非情と恐れられる忍隊から見ても微笑ましく、どうにも放っておけないのだ。
そして何より、忍にそこまで心を預けるあの方の心が嬉しい。
苦笑を漏らして二人を見やれば、ちょうど髪を流し終わったところだった。佐助が何やらぼやいている。
「それにしても俺どうやって帰ろ…」
「ん?歩くのが億劫なら馬に乗せてやろうか?」
「いや違うから。…こんな全身ずぶ濡れでこの寒空のなか帰ったら絶対風邪ひくだろーなぁって」
「ああ!それなら問題ない。鎌之助―!!!」
名前を呼ばれたので俺は腰を上げた。
そして傍にあった手荷物も掴む。
「お呼びで?幸村様」
素早い身のこなしで姿を現せば、幸村様はにっこりと笑ってこんなことをおっしゃった。
「佐助の着替えを出してやれ」
「御意」
「え…?着替え?っておいちょっと…」
目を白黒させている佐助を無視して、俺は風呂敷に包んだそれを一枚一枚丁寧に広げて言った。
上衣、袴、足袋に内着、…そして下帯。
「おいコラちょっと待てぇぇぇ!!」
「何?」
「それ俺の?!マジで俺のなの?!」
「うん。幸村様のご命令であんたの荷物の中から持ってきた。忍隊の皆で家捜ししてさ」
「何さらっととんでもねぇこと言ってんの?!」
「いーじゃん減るもんじゃ無いし」
「減る減らないの前にお前何順番に広げてんだよ阿呆!!」
鬼の形相で言葉と共に放たれた苦無を首を傾げて避けた。
「だって幸村様が出してやれって」
「広げろとは言ってねぇだろ!!」
「あ、俺ってばうっかり!」
「もうお前死んでしまえ!!」
なおも襲い掛かってこようとする佐助を、幸村様がやんわりと制してくださった。
実に楽しげな笑みを浮かべつつ。
「まぁまぁ佐助。そこまで怒ってやるな。鎌之助だってたまにはうっかりしてしまうこともあるのだ」
「あんたが言うな!!着替え持って来させたってことはあんた初めから俺を引き摺り込むつもりだったて事じゃねーか!!この策士!」
「あー佐助それ世間一般では誉め言葉だから」
「目指すはお館様よ!俺の企みなどまだまだ足元にも及ばぬ!!」
「それにまんまと嵌った俺の立場無いだろうが!!」
「あっはっは!見事に引っ掛かっちゃったもんねー佐助」
「もうお前黙ってろ!そしてとっとと俺の着替えを仕舞えぇぇぇ!!」




























































「って感じだったかな」
鎌之助がそう締めくくると、彼の周囲に集って息をつめて聞き入っていた者達がほう、と息をついた。
「長も相変わらずですねぇ」
「主殿もだと思うが」
「しかし結局幸村様がおっしゃった“隠すな”というお言葉に対して何も言っておらぬのかあいつは」
「あー…そういや何も言ってなかったかな」
「…どうしてそうあいつは」
「まぁいいんじゃない?あれから何度か湯治一緒に行ってるみたいだし、態度で答えてるんだよ」
「なるほどな…」
「しかしこうなると幸村様が夜盗ごときを相手に負傷して帰ってこられたのも、これの布石かと疑ってしまいたくなりますな…」
「いや…それは流石に」
「いくらなんでもそれは無いんじゃないか?少し考えすぎだろう」
「え?でもそれ俺もちょっと思った。だって負傷を理由にしないと佐助なんか絶対捕まらないって!」
「そ…そうか」
「むむぅ…やはりそうなのか?」
「知将の血はやはり引き継いでおられたということですかな」
「昌幸様の血でしょうかね」
「真田の血でしょ」
「先が恐ろしいな…」
「でもその前にさ。海野さんこそ大丈夫なの?佐助にぶん殴られてたけど」
「全くもって大丈夫じゃない」
「物凄い腫れてるしね」
「しかし十蔵のほうも大変だぞ」
「ああ…任務?十蔵が大っ嫌いな地味で時間がかかって最後もあんまりぱっとしない感じの華の無い任務だったっけ」
「やけに詳しいな…」
「佐助が冷笑浮かべながら呟いてたし」
「怖っ!」
「自業自得。背中流してもらうのはやり過ぎ。長が罰を与えなかったら俺がやってたよ」
「小介…幸村様そっくりの顔でそういうこと言うな…」
「日頃から似てない似てないってあれだけ言ってるくせに、こういう時だけそっくりとか言うな」
「う…すまん」
「あーはいはい落ち着けって!」
思っていたより小介の怒りが深かったらしく、鎌之助が慌てて止めに入った。
怒りの矛先である海野はすぐ熱くなるような性分ではない為、隊の誰であろうと険悪になるような反応はしない。
しかし小介の機嫌が悪すぎる今、放っておけば喧嘩勃発なんてことになりかねない。
こうなったらこの場を解散させるまで、と鎌之助は少々強引ながらも終わらせる為に口を開いた。
「とりあえずこれで任務報告終わり!もう話すことなんてありません!はいっ解散〜!」
身振り手振りで部屋からの退出を促すと、小介はさっさと立ち上がって去っていった。
波風立てるのは向こうも本意では無いらしい。
それに続いて他の連中も次々と姿を消してゆく。退出の時でさえ音をたてないのは流石真田忍。
ゆっくりと去ってゆくように見えた海野も、瞬きの間に姿が掻き消えている。
やはりあんなに情けない姿を晒していても、この忍隊で幹部を務めるだけはある。
「で、才蔵は気配断って何してんの?」
そう言って鎌之助は後ろを振り向いた。
部屋の端に影に溶け込むように立っている男が見える。この男の隠形はやたらと巧みでちょっとやそっとでは気付けない。今だって部屋から退出した人間を一人一人数えていなければ気付けなかったくらいだ。
そんな才蔵は、ゆっくり足を踏み出しながらこう言った。
「念のため言っておこうと思ってな」
低くも無く高くも無い、どこか耳に馴染み易い声が静かに響く。声すらこの男は忍らしい。
鎌之助はくるりと向きを変えて座りなおすと、にやりと笑って言葉を待った。
あまり表情を変えようとしない才蔵と二人だけで話すとなると、どうにも陰気になりやすい。
ここは鎌之助の方で笑っておかないと外から見れば暗殺の相談のようになってしまう。
変な気を使いつつ才蔵を見やれば、いつの間にかすぐ前に座していた。
仲間相手にもこういう不意を突くような動作を好むところが才蔵の特徴だ。
「…相変わらず動きの読めないやつ。心臓に悪いって」
「もう癖みたいなものだ。そろそろ見切れ」
「見切る前に諦めるわ」
「挑発し甲斐の無い奴だな」
「そーいうのは他の奴らに言ってやって。…で?本題は?」
「夜盗の件だ」
「…ああ」
話というのは、幸村が負傷して帰ってきたというあの夜盗騒ぎだ。
…鎌之助の予想した通りだが。
「主殿はわざと負傷されるような方ではない」
「知ってるよ」
「…なら、良い」
才蔵はあっさりと切り上げて、ふわりと姿を消してしまった。
「それを言うためだけに残ったの…?まどろっこしい」
虚空に向かってそう呟き、鎌之助はほくそ笑んだ。
あの時の夜盗が、ただの夜盗ではなかったことは鎌之助も気付いている。きっかけは湯治の際に見た幸村の傷跡だ。
あれが夜盗によるものだと言うなら、その夜盗は大金叩いて召抱えていいほどの腕をもっていることになる。
記憶にある、ぼろぼろになっていた衣服の多数の刀傷。
あの時は頭の中が真っ白になっていたせいで冷静な判断が出来なかったけれど、記憶を思い返すことは出来る。
等間隔に走った三本の線。
そんな傷跡を残す武人など、あの奥州の竜しか居まい。
幸村はこっそり一騎打ちに出かけ、決着がつかぬまま帰還した、というのがあの夜盗騒ぎの全貌のようだ。
それならいけないと知りつつも警護役を振り切って行ってしまったのも頷ける。
誰にも邪魔をされぬところで、命の削り合いをしに行ったのだ。
確かにそれは公言してしまっては不味い内容だ。佐助と才蔵が頭を痛めながら隠すのも分かる。
だから幸村は「夜盗に出くわした」なんて下手な言い訳を吐いてしまったのだろう。
佐助と才蔵の苦労を何となく察した鎌之助は、幸村の負傷の理由にもう一つ付け加えることにした。
それが『負傷はわざとかもしれない』というものだ。
これなら相手が夜盗だろうが、あの真田幸村が負傷して帰ってきてもおかしくは無い。致命傷にならないかすり傷ばかりだったことも、理由に真実味が増す。
しかし幸村の気質を考えれば少々無理が出てくるが、それまでに独眼竜との一騎打ちの痕跡を消しておけば問題はないのだ。
「って言っても隕石落下並の規模だろうから、それが大変なんだろうけど」
鎌之助は一つため息をつくと、退室するべく腰を上げた。
真田忍隊の唯一無二の主、真田幸村は、今回の事に反省はしていても後悔はしないのだろう。
あれだけ穏やかな笑みを日常で浮かべられる人なのに、やはりその本質は戦場を知った修羅。
宿命の好敵手を見つけてしまったあの紅蓮の炎は、どんな制止でさえ振り切って、あの竜と刃を交えに行ってしまうのだろう。
たとえ師である武田信玄でさえも。
それを知っているから、佐助は幸村の傍にいるのではないだろうか。

止められないなら、ついて行く。

にやりと口を歪めてその言葉を反芻すると、今日の夕餉に思いを馳せた。
厨から漂ってくるそれは、小豆ともち米の匂い。
忍手ずから作ってしまった幸村の口論勝利祝いの赤飯。
いつかそれが独眼竜との勝負の勝利祝いになることを夢見て、鎌之助はその場を去った。
































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 温泉真田主従。
 佐助は装束の下は傷だらけだと良い。
 鎌之助って呼びにくいから、佐助は「由利」って呼ぶMY設定があったりします。
 それにしても、無駄に長い…。