■後日譚
(最終話のその後の真田主従)








見慣れたアスファルトの道路に走った、ここ数日毎日目にしている雑草が少し生えたその割れ目。
子供のころからずっとここに住んでいるのだから、水道管の工事のせいで凹凸の出来たその段差さえ既に見慣れたものだ。
これを目にすると家に帰ってきたなぁとさえ思う。
時折冷たい空気が頬を掠めていく外の風は、幸村がこっちに戻って来た時には、既にその冷たさを増していた。
あっちに行っていたのは僅かの合間と思っていたが、半月という時間はあらゆるものを大きく様変わりさせていたようだ。
「やはり、少し…寒い」
あれから数日が経った。
佐助の尽力のおかげで騒ぎににはなっていなかったが、そのしわ寄せは全て佐助に行ってしまったようだ。
昔からどれだけ不摂生な生活をを続けようと、体調など崩したことのなかったあの佐助が熱を出したのだ。
しかも39℃越えの高熱だ。
医者に見せても風邪では無いという。レントゲンも念のため取ったが、肺炎などの異常はどこにも見当たらなかった。
やはり、極度の疲労が原因らしい。
家に帰っても家族のいない佐助を一人で帰せるはずもなく、佐助は幸村の家で数日養生を続けていた。幸村の心情としても己のせいで佐助がこうなったのだから、本人がどれだけ遠慮しようが構うことはなかった。
しかしそれも、昨日までだ。
今日は熱が下がったとかで、引きとめる真田一家の言葉をやんわりと往なして、佐助はいつもどおりのへらへらした顔をして、今朝帰って行ってしまったのだ。
本人曰く「大事を取って、学校は休んで家でゆっくりしてるよ」とのことらしい。
どうせゆっくりするなら真田の家で休めばいいのに、と幸村は思うのだが、病人相手に強くは出られず、今日は帰っても佐助はいない。
その事実に落胆して、ついついため息が漏れる。
「いっそ俺も、明日から学校を休むか…?」
うっかり浮かんでしまったそんな不真面目な考えを口に出して呟きつつ、幸村はもう目の前に迫っていた己の家のドアを勢いよく開いた。
「ただいま……ぁ?」
そして帰宅して一番に目に入ったのが、顔の真ん前に突き出されたナイロン袋。
「…??」
なんの変哲もないそのスーパーの袋をぱちぱちと瞬きしつつ凝視していると、その袋の脇から兄が顔をひょっこりと覗かせた。
「お帰り」
「た、ただいま」
一体このナイロン袋とその中身は何だろうと思いつつ首を傾げると、察しの良い兄は穏やかに笑ってこう言った。
「お見舞いに行っておいで」

幸村は、そんな兄が大好きだ。











***












兄に言われて早数分。自宅には上がることなく佐助宅へ足を向けた幸村は既に目的の場所へと到着していた。
ガチャ、バタン。
妙に急く気持ちを表してか、思ったよりもドアが大きな音を立てて開閉される。相手は一応病人なのだから、静かにしようと思っていたのに存外に上手くいかないらしい。己の馬鹿力を制御し損なったのだろうか。
幸村はそんなことを考えつつ、ノックは当たり前のように省いて佐助の家へと上がり込んだ。
佐助の靴が一足だけ置いてある玄関に己の靴を加えるように脱ぎすて、部屋へと続く廊下へと足を踏み入れる。
すると、ひやりとした空気が頬を撫ぜた。普通室内へと入れば外よりも暖かいのが当たり前だが、この場所はどうもそんな一般常識が通用しないらしい。
体調を崩しているのならば、もう少し暖かくしていろ。
早速佐助の行動に問題を見つけた幸村は、声には出さず独り言ちた。
何気に用意は万端である。スーパーの袋に入っているのは、冷却シートと体温計とインスタントのお粥。そしてスポーツドリンクにヨーグルトが二つ。真田家に置いてある常備薬もいくつか入っている。ちゃんと探せばもっと色々入っているかも知れない。
もし佐助がまた熱を出して寝込んでいたら、これでもかと世話を焼いてやろう。
そう思って、幸村は部屋のドアを開けた。
「………。」
が、しかし。
「さ、さす…」
「あ、やっぱり旦那だ。どしたの?何かあった?」
あっけらかんと返された佐助の声。幸村はまともに言葉すら出てこないというのに、どうしてこうも本人が堂々としているのか。
「佐助っ」
「ん、何?」
「何て恰好をしておるのだっ!!」
そう、佐助は上半身が裸とかいう明らかに病人とはほど遠い恰好をしていた。
幸村は慌てて、冷蔵庫の前に突っ立っている佐助へと詰め寄って睨みつける。。
体調を崩していた奴が寒い中こんな恰好でいていいはずがない。
「なっ…しかもお前、髪が濡れているではないかっ」
「や、だって今まで風呂入ってたんだよ。今ホントに上がったとこで…」
確かに佐助の言うとおりほんのりと石鹸の香りが辺りに漂っている。普段は体温の薄い佐助からも僅かな熱気を感じられるくらいだ。
だからといって、こんな恰好で放置できるものか。
「風呂上がりなのはまあいいっ…しかしまずは服を着ろ!」
「うぇ?だってまだ暑…」
「さ・す・けっ!!命令だ!!」
「えぇ〜?…ったくそれ職権乱用だぜ?」
ぶちぶち文句を言いつつ佐助がベットへと向かい、そこに無造作に置かれていたシャツをもそもそと被り始めた。言っておくが幸村は職権など乱用したつもりはない。そもそも幸村に職権など無いのだから。
「お前が寒そうな格好をしておるから悪いのだろう。病人は病人らしく温かくして寝ておれ」
「つっても俺様もう寝飽きちゃったんだけど?これ以上寝たら体から根が生えちまう」
そんな可愛くない口答えをした佐助は、飄々と肩を竦めながらベットに腰かけた。
…さっきの状態から半袖シャツがプラスされただけの恰好で。
「………佐助」
どうやらこちらの言っている言葉の意味がしっかり伝わっていなかったようだ。
幸村は現状を見てそう判断した。
そして判断したからには、実力行使に出た。
「もう口では言ってやらん。これでも着てろっ」
そう言って己の羽織っていたジャケットを肩から被せ掛けてやる。ちょうど体温も移っているだろうし、防寒という意味では最適だ。途中佐助が「えぇ暑い!」などと文句を言ってきたが、そんなものは無視だ。
そして幸村にはもう一つやることがある。
「髪が濡れたままだからなっ」
一つ宣言して、幸村は佐助の腰のあたりを腕で後ろからぐいと押してやった。
「うぉわっ」
もちろん、ベットに腰かけていた佐助は床へ落下することになる。
「ちょっと!いきなり何!!」
「お前はヨーグルトでも食べていろ。アロエとイチゴの二択だ」
「や、それはいただきますけどっ」
「何、力の加減はしてやるさ」
そう言って幸村はさっきまで佐助が座っていた位置に腰かけ、佐助の肩に引っ掛かったままだったタオルを引っ掴んだ。この状態でやることと言ったら一つしかない。
ガシガシガシガシ。
そんな擬音語で表現するのが一番正しいだろうか。
とりあえず幸村はそんな音を立てつつ、佐助の髪をそれなりに丁寧な手つきで拭き始めた。
「…ひっ!!」
失礼なことに佐助は上手く聞き取れないような大きさの声で悲鳴を上げた。
しかも蛇に睨まれたカエルのように硬直してしまっている。
「旦那っ俺様自分で!」
「ならぬ。やりたければヨーグルトを完食してからにしろ」
「横暴!」
一言文句を叫んだ佐助だったが、手はアロエヨーグルトへ素早く伸ばされた。
そして今まで見たことの無いような速さでそれを食べ始めた。その必死さに妙に腹が立つ。
「それを食ったら次はイチゴだな」
「なっ…?!さっきあんた二択って言っただろ?!」
「さぁな」
「ちょっと、旦那!!」
キッっと睨むように幸村の方へと体を反転させた佐助は、なんと既にアロエヨーグルトを完食していた。
必死になれば早食いも出来るらしい。
「何だ、もう食べ終わったのか」
「頭皮の危機ってんなら俺様もそれくらいやりますよっ」
「失礼な奴だな…」
明らかに幸村の力加減を信用していない様子の佐助に、幸村は半眼で返した。
因みに腕に動きは止めていない。
「別に髪を拭くらい自分でやれるって。そりゃ昨日まで寝込んでたけどさ、もう元気だし…」
「信用できんな。お前の“元気”は当てにならん」
「そりゃあんたの方でしょうよ…。どこから見ても死にかけてんのに“大丈夫”って何回聞かされたか」
「何の。お前に比べれば俺の痩せ我慢など可愛いものよ」
「わぁ、信じられないこと言ってるよこの人。自分のこと棚に上げてさぁ」
「自分をのことを棚に上げているのはお前の方だろうが、昨日も一昨日もその前もお前は“大丈夫”と言っておったのだぞ?高熱で寝込みながらうわ言でな!」
髪を拭く手を止めて、それ見たことかと幸村が胸を張って言ってやれば、佐助も負けじと言い返してきた。
「だからぁ、こうやってちゃんと俺様元気になったじゃないの!大丈夫だったでしょ?」
「まだ全快とは言えんな。寝てろ」
「あーもうっこの頑固者!」
「何とでも言え」
何やらいつの間にか口論のようになってしまったが、幸村は笑って返してやった。
もしかしたら、相手は病人だと侮っていたのかもしれない。
それがちょっとした隙を生んでしまったようだ。
「ね、旦那」
「ん?」
髪はほぼ乾いた、では次は粥でも用意してこようか。インスタントと言えど最近は味もそれなりのものが出回っている。だから不味くはないだろう。
幸村がそんな風に思考をしながらの生返事を返して、未だ机の上に置きっ放しのスーパーの袋に目をやったところで。
「わっ」
佐助の顔が目の前にあった。
「なっ何だいきなりっ」
「あんたが思ってるより、俺様ってばすっげぇ元気なんだよ」
「はぁ?」
こいつはまだそんなことを言っているのか。
そう呆れて、溜息を吐こうとした瞬間だった。
「!!」
本当に一瞬。
ほんの僅かの合間に、それは掠め取るように触れていった。
もちろん覚えのある感触で、ほんのりアロエヨーグルトの味がしたような気がする。
いや、別に味とかはどうでもいい。
「さっ佐助!!」
「こんなに元気なのに、あんたってば全然信じてくれねぇんだもんなぁ」
「そういう問題じゃ…っ」
「だからこれから証明してやるよ」
一体それはどうやって。
もちろんそんなことは聞けない。
何て言ったって体勢がおかしい。本来なら佐助をベットに押し込めて自分は台所へ向かう予定だった。
しかしどうして今その自分がベットに寝転がっている?その上佐助がこっちを見下ろしている?
というか一体いつの間に?
「約束、したよな」
「ややややや約束?!」
「“足りない”んですけど?俺様」
そう言われた瞬間、ぐわっと一気に帰ってきた日のあの記憶がフラッシュバックする。
あれやこれや、それやどれや。何というかもう、恥ずかしい台詞を自分は大量にのたまったような…。
「や、ちょっ!まままま待てっ」
「武士に二言はないよね?」
「ばっ馬鹿者!!お前っまだ本調子じゃ…っ」
「だから、それを証明してやるってば」
せんでいい!!
思わずそう叫ぼうとしたが、幸村の抵抗を無視するように降りてきた唇にその声が掻き消される。
「…っ、ここここらっ、本気で待て!」
「どれくらい?」
「え…いや、どれくらいって」
「数分?それとも数秒?」
「いやっせめて今週いっぱい」
「無理」
提案をばっさりと却下してくれた佐助は、実に楽しそうな表情で頬を撫でてくる。
「わっわっわっ」
「わぁ色気のないこって」
「そんなものあって堪るか!!」
己の頬に熱が集まるのを自覚しつつ憤然と言い返せば、佐助は何故かうっそりと笑みを深めて見せた。
「…っ」
自分でも分からないがその笑みに一瞬気押されて息を呑んだ隙に、再度佐助の顔が近付いてきた。
「う、わっ…!!」
思わずぎゅっと目を瞑ると、唇の感触は降りて来ず、ぽふんと音を立てて己の顔の横に佐助が頭を埋められた。頬を擽るほんのりと湿った髪からは淡くシャンプーの香りがする。風呂上がりなのだから当たり前だというのに、なぜかそんな些細な事に心臓が大きく跳ねた。
佐助は幸村の動揺の全てを見透かしているかのように耳のすぐそばでくすりと笑みをこぼす。
耳を掠めるその吐息の感触にすら、今は平静でいられない。
「一つだけ先に言っとくよ」
「……?」
不意に響いた佐助のその声に耳を澄ませば、佐助は掻き消えそうな低い低い声でこう呟いた。
「嫌ならぶん殴ってでも止めてくれ」
「…っ」
佐助は多分、幸村に逃げ道を用意するつもりで言ったのだろう。
今からの行為を本当に嫌だと感じたら全力で抵抗しろ、と。幸村の馬鹿力で抵抗したならば、きっと佐助は敵わないだろうから。
しかしだ。
そんなことを言われて、今幸村が抵抗など出来るだろうか。
抵抗するということは、即ち佐助を拒絶することになる。
好きだと言って、傍にいてくれと願って、己から離れないと誓った相手をだ。
どれだけ幸村が鈍感であろうとも、流石にそんなこと出来る訳がない。
「……くっ」
強く歯を噛み締めた幸村は、何かを諦めるように片手で顔を覆った。
そして手で隠されたその下で、ぎゅっと眉根を寄せる。
「そのしかめっ面は何?」
いつの間にか佐助は顔を上げていたようで、手でわざわざ隠したこちらの表情を器用に読み取ってくれてしまっている。
幸村は顔を覆っていた手を僅かにずらすと、指の隙間から佐助を半眼で睨んだ。
「うっわぁ…おっかねぇ顔」
投げかけられる軽口は常と変らぬもので、普段と違うことと言えば物理的な体の距離くらいだろうか。
己の鼓動があまりにも速いせいで確信は持てないが、佐助もきっと普段より鼓動は速いような気がする。
「くそう」
幸村は小さく悪態を吐いた後、顰めていた眉からふっと力を抜いた。
「?」
未だ顔を隠しているというのに、佐助にはそんな些細なことなど意味がないのだろう。例え顔が見えずとも、こんな僅かな変化すら当たり前のように読み取ってしまう。
けれど、そんな器用な真似をして見せても、肝心なところで抜けていては意味がない。
佐助は馬鹿だ。
幸村が佐助を拒絶する理由などどこにもないのに、未だそれすら分かっていないのだろうか。
「俺などより…お前の方がよほど鈍感ではないか」
「何だって…?」
小さく呟いた声は、この距離では当たり前のように佐助の耳に届いたのだろう。
怪訝な声で答えた佐助は、腑に落ちない、と言った表情をしていた。
だから幸村は告げてやる。
その理由を。
「お前は俺に甘い」
幸村は一つそう宣言して、顔を覆っていた手をどけた。
「多分、俺もお前に甘いのだろう」
「どこがだよ」
間髪入れずに返ってくるその可愛げのない言葉に苦笑で答えつつ、幸村はさっきの佐助の仕草を思い出しつつその頬へ手を滑らせた。
「…っ」
指の腹で輪郭を辿るようにその頬を撫で、親指で眼尻の下あたりをそっと拭う。
これだけで、この聡い男は分かるのだろう。
けれど、言葉だってくれてやる。
何せ、己は佐助に甘いのだから。
「逃げ道など作らずとも良い、馬鹿者」
息をのんで静止している佐助にそう言って笑いかけて、今度は頬にやっていた手を首へと滑らせた。そして髪に指をからませる。
「…好きにすればいい。但し、またお前が寝込むようなことになったらそれこそぶん殴ってやるがな」
駄目押しとばかりに付け加えれば、佐助の顔が奇妙に歪んだ。
笑おうとしたのか、怒ろうとしたのか、それとも泣こうとでもいうのか。色んな表情が微妙に混ざり合って、結局いつものあの困ったような笑みになる。
幸村が好きな表情だ。
そして皮肉ばかり飛び出てくる口からは、こんな言葉が飛び出て来た。
「寝こむのは、あんたの方かもよ?」
「…は?」
この時幸村はその言葉の意味が全く理解できなかった。
…あとから嫌という程思い知ることになるのだが。
しかしとりあえず今は、ゆっくりと近づいてきた佐助の顔に気付いて、そっと目を閉じた。

“足りない”と言ったこの男の隙間を、少しでも満たしてしまえるように。


















−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
おまけとしてゆるーく書くつもりでしたが、妙に長い上に恥ずかしい内容になってしまいました。
最終話のあの感じの続きだと、こんな流れしか思い浮かびませんでした。
もしかしたら予想されていた方も多いかもしれないですね。
とりあえず、真田主従はこんな感じでまったり幸せにのんびり生きていってほしいです。
そして寸止めでごめんなさい。
(09.11.23)






























反転してここまでスクロールして下さる方っていらっしゃるのかな。





























スクロールバーが妙に短いことに気付く方もたくさんいらっしゃいますよね…多分。
流石にそのまま晒すには勇気がいる内容だったので、ちょっと足掻いて反転させて貰いました。
下に続き…というか、その後のようなものがあります。
微妙に(本当に気のせい程度ですけど)ちょっと破廉恥なので、そういうの嫌いな方は進まないで下さいませ。






























■裏影
(その後のその後)
※微破廉恥注意








ぼんやりとした視界の中、特徴的な色合いの髪が僅かに揺れている。
綺麗だな。
鈍い思考の中で、ただ真っ正直にそう思って、幸村は当たり前のように触れてみたくなった。
色だけ見れば随分温かそうな色合いだというのに、案外それは熱を持ってはいない。
まだ触れていないのにそれを何故か知っていて、どうして知っているのかまでは考えられなかった。
思考は纏まることをせずに霧散して、ただぼんやりと取り留めのないことばかり浮かんでは消えてゆく。
それに反して、想いに直結した行動は随分と素直だ。
衝動に従い伸ばした手は、ゆっくりと、本当にゆっくりと動き、…結局その髪に触れる前に力を失ってぱたりと落ちた。
おかしい。
腕に力が入らない。
まるで何時間も槍を振るい続けていた後のように、だるくて思うように動かせない。
「……?」
どうしてだろう。
疑問を口に出そうとしたのに、声もうまく出ない。
良く分からないけれど、酷く喉が渇いているらしい。長時間走った後のようにカラカラだ。
「あれ…旦那、目ぇ覚めた?」
「…?」
呼ばれて視線を僅かに動かすと、触れようとしていた髪がまた揺れて、変わりに男の顔が見えた。
見慣れた顔。
佐助だ。
認識は早い。
「気分どう?あー…、それよか喉乾いたろ。ほら水」
「……ぁ、」
「待って。水含んでから喋ったらいい。ほら」
ペットボトルを差し出されて、受け取ろうとしたらやっぱりまだ腕が妙にだるかった。
しかし全く動かないほどではない。
「……。」
とりあえず喉は乾いているのだから、水を飲もう。
差し出されたそれを受取って飲もうとすると、身を横たえたままだと酷く飲みにくいことに気付く。
水を飲むためには、まず身を起こさなければ。
多分そんなことを考えて、起き上がるために腹筋に力を込めた。
しかし。
「……ぅっ?」
どうしてか分からないが己は服を着ていなくて、腕ばかりでなく体中が妙にだるい。中でも下肢が特にだるく、その上鈍く痛む箇所さえあるのだが。
そこまで考えても、やっぱりまだぼんやりと頭は冴えなくて、結局その痛みの原因を深く考えること無く手にした水を何口か含んで嚥下した。
一口、二口、三口。
常温よりやや冷たい程度の水は、沁み入るように胃の腑へ落ちていく。喉を通るたびにぼんやりとした思考が晴れていくようだ。
結局ペットボトルの中身を全て飲み干して、空になったそれを佐助へと返した。
「水、足りなかった?」
「いや…」
「腹とか減ってない?そんで気分とかどう?」
「気分…?」
「うん、痛むとことか無い?」
「ああ、そう言えば…」
どうもこのあたりが鈍く痛むのだが。
そう言って己の体のある一点を指し示そうとしたところで。

目が覚めた。

「…………っ!!!!!!!!!!」
多分、この体は猫のように一瞬びょんと跳ねただろう。
そしてその次の瞬間にはモグラのように穴深くへ潜り込んだはずだ。穴が無かったから、多分毛布か布団か、何かこの身を隠してしまえるものの中へだろうが。
「――――っ!!〜〜〜っ!!っっ!!!!!」
とりあえず幸村は、頭まで毛布を被って、限界まで体を縮こめてその衝動に耐えた。
一気に覚めた眠気に反し、体は火を噴きそうなほどに熱い。ちょっと本気でその辺りを燃やしてしまいたいくらいに。
腕がだるい?当たり前だ。喉が痛い?当たり前だ。体中がだるい?…当たり前だ!
記憶など掘り起こすまでもなく、思い当たる節があり過ぎる。
きつく敷布を握りしめた手とか、噛み殺し切れなかった声だとか。
息遣い、そして…。
「――――――――――ッッッ!!!」
人間は、もしかしたら羞恥で死ねるかもしれない。
ほんの僅かに残った冷静な部分でそんなことを本気で考えてしまった幸村だが、外側から響いた佐助の声に、その冷静な部分すら掻き消された。
「旦那?」
「………っ!!」
この男の声は、こんなだっただろうか。
今までずっと何でもないように聞こえていたはずの声なのに、今はちょっと耳にするだけでもう駄目だ。
こんな呼び名を一つ聞くだけでも、色んな記憶やら感触やらが嫌という程思い浮かんできて。
…やっぱり羞恥で死にそうになる。
「あれ…旦那。もしかして今目ぇ覚めた?」
「〜〜〜〜〜〜〜っ」
頼むから黙ってくれ。
そんな切なる願いは、どうにも聞き入れられそうにないらしい。
「うおーい旦那?マジで大丈夫?熱とか無いよな?」
声どころか毛布越しに佐助の手がぱたぱたと触れてくる。
その布越しの手の感触に頭が破裂しそうで、ついでにどこかで発火もしそうだ。
「〜〜〜〜〜さす、けっ」
「何?」
「た…頼むから、触るなっ」
「何で?」
「死にそうになるっ」
「………ハイ??」
幸村だってこんなことで生死が云々と言った話はしたくないが、ばくばくとトンデモナイ速さで打ち続ける鼓動と、自分でも抑えられない体温上昇を実感している今、そうも言っていられないのだ。
「なぁ…旦那。せめてさ、顔くらい出そうぜ?」
「む…無理だ」
声も感触も無理だったのだから、顔なんて見れるはずがない。
もうこのまま毛布の中で生活する。
いっそここに住む。
それくらいの意気込みで幸村は顔を出すことを拒否していた。
しかし佐助はそんなものお構いなしのようだ。
「だーんーなー、ほら起きろって。飯とか食わないと腹減ってるでしょうが。一応体は俺が拭いといたけど、風呂とかも入りたいだろ?」
「…だ、だから無理だと言っている!」
先ほど幸村が言ったとおり触ることはやめてくれたが、佐助は放っておいてはくれない。
せめてあと少し…否、もう一日二日ほど時間を置いてから出直してきたい。とりあえず落ち着くだけの時間が欲しい。出直してきてもまともに顔を見れるかどうかはまだ定かでは無いが、多分今よりもまだマシだとは思う。
だから頼む、時間をくれ。
そうやって幸村が誰にともなく祈ってみた瞬間だった。
佐助が何故かとても申し訳なさそうな声を発した。
「なんてーの?そりゃあ俺様だって柄にもなくがっついたと思うけどさぁ…」
ガラニモナクガッツイタ?
何だそれは。
何語だ。
…日本語だ。
幸村の脳内で言葉が上手く処理できない中、更に言葉が続く。
「…顔も見たくないくらい、痛かった?」
「な…ぁっ?!」
痛かった?
痛かったというとあれか。さっき?いや昨日?どれだけ時間が経ったかわからないが、痛かったかどうかを聞かれるとしたらあれしかないだろう。
ならば、あれか。あれなのか。
あの、痛いというよりはもっと別の何とも言えない居た堪れないくらいのアレ。
「い、い、い…っ」
痛かったか。
それにもし冷静に答えることが出来たならば“痛くはなかった”だろう。
しかし痛くはなかったからと言って、それが結果的に問題無かったわけではない。
痛くなかったということは、それなりに理由がある。
「……っ」
思い出すのも恥ずかしいほど、そして記憶から末梢してしまいたい程のそれ。
あの時で既に己は泣いていたのかもしれない。
いい加減にしろ。もう良い、無理だ。頼むから。
そんな言葉を吐いたかもしれない。
それほどまでに、何というか、言葉を選ばなければ、そう。
慣らされたのだ。
そりゃあもう執拗なまでに。

「…………痛い方がまだマシだったわ」

ぼそりと呟いた声は、無意識に飛び出たものだった。つまり、佐助には聞かせるつもりのなかったものだ。
しかしこの無駄に優秀な男はそんな些細な言葉でさえも簡単に拾ってしまう。
1km離れた場所だろうと幸村の言葉なら聞こえる、などと大真面目にほざく様な男なのだ、これくらいの小さな声など息をするように簡単に拾ってしまっただろう。
「…………………………………………へぇ。」
佐助の沈黙が妙に長かった。
どうしてこんなにも間があったのか。冷静になって考えれば、そう、今幸村は何と言った?
痛かった方がマシだった…だったか。
つまりは何だ、それは。
痛くして欲しかったとも、とれるということで。
「ち………っ違うぞ!!!」
幸村は絶叫しながら跳ね起きた。
そしてその瞬間に目に入った、傍で何とも言えない顔で固まっている佐助へと全速力で詰め寄った。
「ごっ誤解するなよ?!俺は…っおおお俺は別に、痛くしてほしいとかっ!そういう特殊な思考は全く持ち合わせていないわけでっ」
「………。」
「頼むから何か言えぇぇぇっ!」
「え、あっすんません、なんてーか…その」
「どもるなっ」
「あ…えっと。次は気を付け…マス」
「だから違うっ!!さっきのは無しだ!全くもって誤解だっ…!ただ俺はあの…!!!あの…、その…」
語尾が小さく掻き消えていく中、はたと今の状況に気付く。
「……!」
目の前に佐助。
あれだけ顔を見れないと思っていたはずの佐助が、すぐ目の前にいる。
「うおっ…!と、あのっ」
「うお?」
「う、その…とととりあえずっ誤解、ということでっ」
幸村はなるべく自然に見えるような動きを心がけて、再度毛布の中へずりずりと潜り込んだ。
「え…あれ、旦那ぁ?あんたまた潜るの?」
佐助がそんな非難の声を上げたが、幸村は聞こえないふりをして口元まで毛布を引き上げた。
しかし、ほんの少しだけ頭を覗かせて、佐助のほうへちょっとだけ顔を向けてみる。
「………。」
「ん?気が変わったの?」
「い、いや…」
かなり頑張って視線を合わせてみたが、佐助に話しかけると明後日の方向に視線が向いてしまう。
「その、とりあえず…俺は寝る」
こうなったら一眠りして、英気を養ってから再度挑戦しよう。妙な決心をした幸村は、佐助へとそう告げた。
「はいよ。…そいじゃ俺様は食うもんでも適当に用意しておくよ」
意外と素直に了承した佐助に少し驚きつつも、何故か物足りないような気分にもなってしまう。
「そ、そうか…」
「レトルトの粥とかになっちまうけどね。…それじゃお休み」
「ああ」
おやすみ。
幸村がそう言いかけたところで、立ち上がろうとしていた佐助が中途半端な位置で動きを止めた。その視線は進もうとした先ではなく、何故か自分の足元、丁度佐助の真下へ向けられている。
こんなときに相手がもっと分かりやすい表情をしていたら、その視線の先にあるものが何か予想が付き易いものを、佐助は自他ともに認めるほど考えが顔に出ない男だ。
こういう時は一緒にそっちを見た方が早い。
そう判断した幸村は、一体どうしたのだろうと、そちらに視線を向けると。
「……?!」
驚いたことに、己の手が佐助の服の裾を掴んでいるではないか。
いつのまに己の手がこんな動きをしていたのか全くもって理解できないが、これでは行くなと引き止めているようなものである。
完全に無意識のこととはいえ、実際行動に移しているのだから事実はこっちだ。
「や…今の無し!今の無しだっ!!」
慌てて服の裾から手を離してぶんぶんと否定の意味を込めて手を振るが、佐助は無表情のまま真下からこちらへと視線を移し、それはもう深い溜息を吐いた。
「…ったく」
「いっ今のは…その、」
「旦那」
「……っ」
遮られるように呼ばれて、幸村は思わず息をのんでしまった。
その上目に入った佐助の表情もいけない。
うまく言葉に出来ないが、心底呆れているような、けれどもどこか笑っているような、変な表情。
今更ながら思うが、佐助はこう言った複雑な表情を浮かべることが妙に上手い気がする。
そんな風に幸村が沈黙したその合間。
一呼吸分のその隙間を縫って、一言。

「…あのさ、襲っていい?」

もちろんその言葉に「良いわけあるかっ!」と熱い拳付きで返したのは言うまでもない。


















−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
終わりです。
ここで終わりです。もう反転とかしませんので。
こんな悪あがきをしてしまいすみません…。
ああ…でも恥ずかしいな。そして難しいな(笑)
それはさておき、こんなとこまでお付き合いくださった方、ありがとうございました。
(09.11.23)