■火影
(19話の後の現代佐助)








目を開けたら、そこには見慣れているはずの己の部屋の天井があった。
ぼんやりと何度か瞬きを繰り返して、己の部屋の天井だと認識したそれが、何を指し示すのかを理解するのを頭が拒む。
まだこの半覚醒の状態でいたい。
現実がどちかなど、分かりたくはない。
そんな思いで目を閉じれば、視界にはただの暗闇が広がるだけで、ついさっきまで見ていたはずの篝火の揺らめきや闇色の海はどこにも映ってはくれなかった。
そして赤の残像さえも。
どうにかもう一度見れないかと薄眼を開けるが、それでも目に映るのは平坦な色合いの天井だけだ。
何の変哲もない白の壁紙。建てられて新しいのか、まだ目立った傷や汚れはない。
けれど今の佐助はそんな壁紙一面に、消えない傷でも何でも付けてやりたい気分だった。
「旦那…」
今日見た夢は、幸村が消えて、また現れたところまで。
消失の瞬間の絶望はまだこの胸に残っていて、抱きしめた瞬間のあの温かさも腕に残っている。
それほどまでに、毎日のように見る己の過去の記憶の夢は生々しい。現実との境目が、分からなくなってしまいそうなほどに、生々し過ぎるのだ。
これではどれだけ寝ても寝た気がしない。
「あー…くそ、」
佐助はごろりと寝返りを打つと、片腕を枕にして固く目を閉じた。
叶うのならこのまま眠りに落ちて、さっきの続きでも何でも見れたら良いと、そんな叶わぬ願いを抱く。
しかし佐助はこれから学校に行かなければならない。幸村がいない空間を埋めるべく、術でも何でも行使して、少しでもあの人が戻ってくるのに、支障がないように。
佐助は小さく溜息をつくと、固く閉じていた目をほんの少しだけ緩めてみた。
薄く開いた瞼の隙間からは、煩いほどに窓から陽光が差し込んでくる。
焦がれる程に甘美な夢への道を、陽の光さえ邪魔するのだ。
「邪魔な…」
本来ならば心地よいとさえ思うはずのその光が、今はひたすら煩わしくて佐助は遮ろうと右手を上げた。
「……、」
しかしその瞬間、目に入ったのは。
「え、なっ…?!」
目を灼くような色彩と、翻る様など愚かな程に焦がれたその一筋の。

赤が。

己の腕に巻かれたそれが示すものなど、たった一つしか無くて。
「だん、なっ」
慌てて飛び起きると、周囲に目を走らせた。
どこを探してもあの人の姿はない。耳を澄まして気配を探っても、あの人の気配は感じられない。
それでもやはり、目を走らせてしまう。
家具の配置は寝る前と特に変わってはいない。初めから物の絶対数が少ないのだから、それくらいすぐに分かる。物も何も増えてはいない。減ってもいない。無造作に転がした己の鞄も、丁寧に立て掛けた主の鞄も。
そして乱雑に脱ぎ捨てた学生服の上着も。
けれどその中で、たった一つ変わっているのは。
「……、これ」
佐助が今も被っている、その毛布だった。
佐助が昨夜、倒れこむように眠りに落ちたあの僅かの合間に、毛布などかぶる余裕など無かったはずだ。
夜の闇も、沁み込むように侵食してくる冷気も、全部どうでもよくて。
なのに、こんな風にすっぽりと佐助を包みこむように掛けられた毛布とか。
「……あの人はっ」
気遣うところが違う。
こんな風に毛布を被せるくらいなら、死にそうなほど凍えさせてでも目を覚まさせてほしかった。何ならぶん殴ったって良い。
それでもを覚まさないのなら、水をかけるなり、ひっぱたくなり、あの煩いほどの大声で名を呼ぶなりと、起きるまで何だろうと試してくれれば良かったのだ。
「……っ」
佐助はとにかく、会いたかった。
己の意志ではどうにもならないような、過去の記憶が辿るあの人の軌跡なんかよりも、本物の、あの温かくて煩くて、暑苦しくて。見ていて泣きたくなるような本物の幸村に会いたかったのだ。
「でも、一番馬鹿なのは…っ」
起きなかった、俺だ。
苛立ちのままに拳を固めてベットを殴りつけようとすれば、利き腕である右手に巻かれた赤鉢巻がきしりと小さく張られた。それはまるで幸村からの制止のようで。
「……っ」
空で固めた拳が、行き場を無くしてゆるりとシーツへ落ちた。
結局身の内にぐるぐると渦巻いた衝動を外へ逃がすことも出来ないまま、佐助は膝を抱えて顔を伏せた。
この部屋で目覚めた朝は、いつも凍えるような寒さに包まれているはずなのに、今朝は信じられない程にどこもかしこも温かい。
こうやって体を縮めれば、その熱を余計に感じてしまって、熱いくらいだ。
「こんな、熱」
常の己には無い温かさが、あの人が確かにここに戻ってきていたということを実感させて、余計に苦しい。
それでもこの熱が冷めてしまうのはどうしても嫌で。
右手を抱え込むようにぎゅうと胸元に抱き込めば、その熱さが増したような気がした。
そして切なく締まる胸元を掻き毟るようにぐっと握れば、昨日帰ったままのTシャツがぐしゃりと皺を寄せて。
皺を寄せて…。
「…ん?」
まず目に入ったのはほんのりと赤く染まった己の肌の一点だった。鎖骨の少し下付近に、ぽつんと一つだけ赤が散っている。
それは何やら虫刺されのような。
頭は他の可能性も確かに思い浮かべたような気がしたが、何かがそれを拒否した。拒否をしつつも、何故か己の手は毛布の端を引っ掴み、自分が服をちゃんと着ているか確認した。理由など知らない。分かる訳がない。分かりたくもない。
「うん…着てる、着てる」
それを確認して何故ほっとしているのか、その理由の方がもっと分かりたくない。
「こ、こんな時期に、蚊かな…」
考えを閉め出すように、変に上ずった声でそんなことを呟いて。
かゆみなど全く感じないそこに触れようとすれば、指が不格好に震えていることに気付いた。
何故己は動揺している。
「え、や。虫刺され、虫刺され…っ」
言い聞かせるように何度もそう口にするが、思いに反して心臓がばっくんばっくんあり得ない音を立てている。
何だこれは。
「だって、そんな…。いやいや、ちょっと…さぁ」
何かを否定するようにどこかへ向かってひらひらと手を振るが、その動きとともに手に巻かれた赤がこれでもかと存在を主張する。
理由は分からないが、それを見ただけでさっきとは別の意味でぐわっと体の熱が上がったような気がした。
「でも、旦那だぜ…?あの堅物と朴念仁を足して10を掛けたみたいなあの…っ」
あり得ない。そう、あり得ないのだ。
だから虫刺されだ、これは。
そう言い聞かせながら震える指先でその一点をなぞるが、刺されたはずの場所に凹凸が無い。
無くとも、虫刺されだ。
誰か、虫刺されだと言ってくれ。
「………っ」
どれだけ否定しても、理解を拒むその答えが押し寄せてくる。
虫刺され?痛くも痒くもないのに?刺された穴も腫れも見当たらないのに?
じゃあ何だ、これは。
誰の仕業だ。
この、鬱血の痕にしか見えない、こんなものを残していったのは。
「〜〜〜〜〜〜っ」
頭が破裂する。
心臓だって破裂する。
むしろ全身弾けそうだ。
「あのっ…馬鹿主っ…!!」
一つ叫んで、火を噴きそうなほどに熱くなった顔を片手で覆った。
自覚すれば、理解すれば、もう堪らなくなってくる。
あの人の唇か、ここに触れたなんて。
「……っっっ、死ぬっ」
何だかもう体中を掻き毟りたい。むしろこの場でのた打ち回りたい。
とりあえず足をバタつかせると、バランスを崩して転げそうになった。手を付いて体を支えようとしたら、運悪く、右手に巻かれている赤鉢巻がべろんと滑り、更に体勢を崩した。
「うおっ、わっわっわっ!」
常の佐助ならこんな妙な体勢だろうとバランスくらい保てるが、最近体を酷使し過ぎているせいでどうにも疲労が抜けきらない。その上現在あり得ない程に動揺中だ。バランス云々とかよりも、もっと頭の中を占めているものが多すぎる。
「い…っ」
結局佐助はベットの下に落下した。
誰も見ていないことだけが救いだが、この上なく格好悪い。
そんな体勢でじっとしていることなど耐えられずに、佐助は溜息をつきながら身を起こそうとすると。
「あ?」
手にじゃりじゃりと不快な感触がくっついてきた。昨夜の帰宅時に砂でも服に付着していたのかとも思ったが、これはそんな類のものでは無かった。
「砂浜の…」
ぱらぱらと細かく散っているそれは、間違いなく砂浜の砂だろう。周囲を見渡せば、等間隔に散っている砂の痕跡がいくつも残っている。
幸村の足跡だ。
「あそこが始まりで、ここ…俺の傍で止まってる」
自分の落下地点をなぞれば、そこに散った砂が一番多い。足跡からみて、ベットに一度腰かけたか。その後は多分、膝をついて。
「で、俺様にキスマーク残してったの…旦那?」
口に出すと、またさっきのように全身掻き毟りたくなるような衝動が湧き上がってくる。どうやったらこれを飼いならせるのか。
「なんだかんだ言って、旦那が一番破廉恥じゃねぇの」
ことんと首を傾げると、さっきまで寝ていたベットに頭を預けてぼんやりと床に散った砂を見つめた。
まだ体は熱い。頬だって熱い。もちろん胸元だって熱い。
でも何より、そのもっと奥。胸の奥の方が、火が灯ったかのように熱かった。
「…旦那」
今はまだ戻らぬその人へ、そっと呟く。
「待ってるから」
約束のように残された赤い印を抱いて、佐助はぐっと拳を握った。
「必ず帰って来てくれよ…っ」
そう言って、毛布を勢いよくはね上げる。
「それじゃ、お仕事といきますか」
起きた時よりもずっと晴れやかな顔でにいと口元を歪め、佐助は支度をするべく立ち上がった。













――その十数秒後、洗面所にて。

「○※◇#$△%¥―――ッ!!!!」
己の首元に散った、もう一つの赤い印を見つけて佐助が叫ぶのは、また別の話。


















−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
おまけの第一段は19話の後の現代佐助です。
笑えるくらい動揺してたら良いと思います。
(09.09.27)